02 オトコオンナと呼ばれて
03 いじめられないための武装
04 新宿二丁目に通うゲイの高校生
05 受け入れられなかったカミングアウト
==================(後編)========================
06 二丁目がダメなら、ハッテン場
07 母との別れ、そして転機
08 マイノリティは、見えなくてもそこにいる
09 パートナーと父と共同生活
10 いつか終わりを迎える日まで
06 二丁目がダメなら、ハッテン場
二丁目に逃げる
大学を辞めてからしばらくは精神的にかなりつらかったため、その期間のできごとはあまり覚えていない。
「家にいても居場所がなかったので、二丁目に行ってました」
昼間に寝て、夜になると二丁目に通う昼夜逆転の生活。
「もしお酒を飲めてたら、二丁目でお店を始めてたんじゃないかと思います。実際、二丁目に逃げてきてそのままお店を始めた人をいっぱい見てきましたから」
でも、自分はお酒を飲めないため、その選択肢も考えられなかった。
「二丁目でもジュースしか飲めなくて、そこでも異質な存在だったんですよね・・・・・・」
恋人も何人かできたが、どれも長続きしなかった。
「2、3回会って終わることが多かったですね。年をまたぐことはなかったです」
「そのときだけ楽しければいいや、って刹那的な関係でした」
父が体調を崩して購買部の仕事を手伝ったことをきっかけに、両親の仕事を手伝いつつ、夜には二丁目に通う生活が続く。
開かれていく二丁目
二丁目が長らく自分の居場所となっていたが、25歳くらいになると、そこにもいづらくなってしまう。
「それまではゲイ以外入ってはいけないみたいな暗黙のルールがあったんですけど、だんだん芸能人やヘテロ女性がやってくるようになったんです」
時代の流れとともに、二丁目が閉ざされたコミュニティから、開かれた観光地と化していく。
「ゲイ以外の人が入ってくると身バレするっていうこともありますけど、当時は『普通の人』に対してコンプレックスを抱いていたので、行きづらくなったんだと思います」
二丁目が行きづらくなったあと、新たな居場所として選んだのは、ハッテン場だった。
「ハッテン場なら絶対にゲイしかいない、っていう安心感がありました」
ハッテン場で気持ちを吐き出して、元気を取り戻す。日常を過ごしてまた精神的につらくなってきたらハッテン場へ、という日々を繰り返した。
07母との別れ、そして転機
生死をさまよう
34歳の4月、沖縄に旅行に行った。
「旅行中に体調を崩したんです。なんとか自力で東京まで戻ってきたんですけど、容体がおかしいって救急車で運ばれて、そのまま入院することになりました」
その病院はちょうど、母がリウマチで検査入院しているところだった。
一方、自分は敗血症と診断された。細菌に対する免疫機能をコントロールできずに、臓器が障害を受ける、生死に関わる重篤な病気だ。
「ふわっとしたかと思えばドーンと叩き落されるような感覚が何度かあって、息をするのも面倒に感じるくらいでした」
その間、自分の病室に呼ばれた母はパニック状態になり、息子の容体が危ない、と親戚中に電話をかけ続けたという。
「そのあと自分は一命を取りとめたんですけど、今度は母の具合が一気に悪くなって、そこから1週間で母は亡くなりました」
追い詰める親戚
母の葬式では、親戚中に責められた。
「あんたが変な病気にかかったから母親が代わりに死んだんだ、あんたが母親を殺したんだ、って。父親も事なかれ主義だからそれに同調して・・・・・・」
ただでさえ母が亡くなった悲しみに苛まれていて、自分でも負い目も感じている。
そこに、父親や親戚からさらに追い打ちをかけられ、いたたまれない気持ちでいっぱいだった。
「親戚は信仰心が高かったので、拝みなさい、献金しなさい、って言われて・・・・・・。もうこりごりだ、って親戚づきあいはそこでやめました」
ようやく見つけた、自分の居場所
二丁目という居場所から追われ、母を失い、父や親戚からとがめられ、精神的にどん底まで落ちた。
そこで初めて、悟りの境地に至る。
「今まで、いろんなところで自分の居場所を探し続けてきたけど、自分で作らないといけないんだ、ってやっとわかったんです」
「自分のことをだれもわかってくれない」と打ちひしがれるのではなく、自分で自分のことを理解し、受け入れればいいのだ。
「・・・・・・自分の心のなかにしか居場所はないんだ、って気づくのに何十年もかかりました」
08マイノリティは、見えなくてもそこにいる
マイノリティの話に耳を傾ける
現在、地方のレインボーパレードに足を運ぶほか、社会的マイノリティとされている人々のところに足を運んで実際に話を聞いている。
その姿勢は、マイノリティが封じ込められていることを感じる施設が、身近にあったことも関係しているだろう。
「西東京市の近くにある東村山市に、ハンセン病資料館があるんです。そこにはハンセン病患者の収容施設があって、かつては多くの患者さんが暮らしてました」
アイヌの人々にも、北海道まで会いに行った。
「講演会で話を聞いたり、刺しゅうや彫り物の体験をしたりしました」
そんなアイヌに対して、この前ある判決が下された。
「アイヌの団体が川で鮭を採ることは認められない、って札幌地裁がアイヌ側の主張を退けたんです。別に鮭を乱獲したいっていう話じゃないのに」
在日コリアンに対する扱いについても納得できていない。
「朝鮮学校は、高校無償化や幼保無償化の対象外とされてるんです。子どもが大人になったら日本社会に貢献してくれるんだから、対象にしようよ! って思うんですけど・・・・・・」
政治が追いついていない
同性婚を例にとっても、これだけ高等裁判所で違憲判決が下されているのに、国会では本格的な議論が始まるようすがいっこうに見られない。
「世論はかなりの速さで変わってるけど、政治や与党が全然変わってない。同性婚も、早く民法を整備してほしいです」
その背景には、構造的な問題が隠れているのではないか。
「LGBTQの生きづらさやいろいろな民族差別を見ていて、いまのほうが都合がいい人がいて、だから現状が変わらないんだろうな、って思うんですよね」
政治はなかなか多様性を認めようとしないが、実際には、昔からさまざまな人が存在しているのだ。
「みんながそれぞれ違うことを前提、当たり前のこととしないといけないですね」
未来によりよいものを残していきたい。
09パートナーと父との共同生活
第一印象
現在のパートナーと出会ったのは、自分が48歳のときだ。
「当時パートナーは30歳手前くらいだったんですけど、おどおどした子だな、という印象でした」
知り合った翌日、パートナーから、自分の住む西東京市に来ていると連絡が入った。
「せっかく来てくれたなら、って食事をすることになったんですけど、ファストフード店で一緒にハンバーガーを食べてたら、突然パートナーが泣き出したんです(苦笑)」
どうしたの? とたずねても、大丈夫、としか答えないので、とりあえずその日は車で送っていくことに。
「後日泣いた理由を聞いたら、付き合い始めはワクワクしても、2年くらい経つと自分の気持ちが詰まって、お別れするっていう流れを繰り返してたので、それを想像したら涙が出た、って言うんです」
相手はそう言うが、そもそもハンバーガーを食べたときはまだ付き合っていない。
「こっちからしたら、付き合ってないのにもうフラれた感じですよ(苦笑)」
自分のなかで勝手にストーリーを組み立てて突き進む相手の姿を見て、すっかり憤った。
「なんで勝手に決めるんだ! って怒ったんです」
パートナーは自分の反応を「情熱的な人」と好意的に受け止め、そこから二人のお付き合いがスタートした。
一緒に生活するということ
それからほどなく、自分と父の住む家で、パートナーを含めた3人の共同生活がスタートする。
パートナーとの関係は、それまでの男性とは違っていた。
「スーパーに買い物に行ったときに『あれが好きだったよな』『これ、食べさせてあげたいな』って、自分だけじゃなくて相手のことを考えるようになりましたね」
でも、一緒に暮らすなかで生まれることは、もちろん楽しいことばかりではない。
「許してあげなきゃな、ってこらえることも多いです(笑)」
パートナーが不機嫌そうなときには、疲れてるんだな、虫の居所が悪いんだな、とそっとしておく。
「いわゆる忍耐ってやつですね(苦笑)」
10いつか終わりを迎える日まで
さらりとカミングアウト
マイノリティのことをあまり快く思っていない父には、当初パートナーとの関係を伏せていた。
「3人で暮らして1カ月くらい経ったころに、父が『二人がホモみたいな関係だったら・・・・・・』って口にしたことがあって。そのときは『そんな関係じゃない』って返して、友だちということにしてたんです」
だが、3人での生活が数年続いたある日、自分から父にパートナーとの関係を伝えた。
「まさか父に伝えるとは、自分でも思ってませんでした」
洗濯物を畳んでいるときに、自分とパートナーはお付き合いしている、と切り出した。
「前もって『話がある』って言うと父が身構えるから、日常生活の中でさらりと伝えたい、っていう考えもありました」
何事も穏便に済ませたい父は、「わかった」とだけ返し、カミングアウトはあっさりと終わった。
わかっていない父
口先では「わかった」と言ってカミングアウトを受け流した父だったが、実はきちんと理解していないことが、あとで判明した。
「2017年にパートナーと養子縁組を結ぶ前に、双方の親を引き合わせたんです。そしたらそのあと、父がパートナーのお母さんに『そんなにウチの姓を名乗りたいなら、母親であるあなたがウチの息子と結婚すればいい』って言ったそうで(苦笑)」
昭和初期なら、長男が戦死したら未亡人の元妻が次男と再婚する、ということもあった。その感覚で父は発言したのかもしれないが・・・・・・。
「それを聞いたときには『は?』って思いましたよ!」
3人暮らしを経て養子縁組しても、父は自分とパートナーとの関係をいまだに理解していないようだ。
「老人ホームで暮らしてる父とは時々電話をするんですけど、いまでも『お前が嫁をもらわないと、死んでも死にきれない』って言うんです」
パートナーがいるから要らないんだ、と説明しても「あいつは男じゃないか」と返ってくる。
「オレは男が好きなんだ! って言ってるんですけどね・・・・・・。説明するにしても、それ以上でもそれ以下でもないし。でも父は、ずっとそんな調子です(苦笑)」
父が生きてきた時代の従来の価値観や、息子がゲイだと認めなくないおもいなどが交錯して、現状を整理できていないのかもしれない。
今後も父が理解できていないと思われる限り、こちらもずっと説明し続けるつもりだ。
養子縁組の覚悟
パートナーと法的に保障された関係になるため、養子縁組を結んだ。
「パートナーが自分の姓に変えたので、自分は姓が変わったことによる実感はなかったですけど、使命感、責任感が生まれましたね」
パートナーより自分のほうが幾分年上なため、順当にいけば先に天に召される。パートナーは、そんな自分と最期まで添い遂げると決断したのだ。
「自分の遺していくものを継いでもらうわけなので、できるかぎりのことはしなきゃいけない、と思ってます。宵越しの銭は持たないぞ、って感覚はなくなりましたね」
養子縁組してから8年の月日が流れた。
「いつか自分が先立つとき、パートナーにできるだけ悲しい思いをさせないように、楽しい思い出をこれからもたくさん残していきたいって思ってます」