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二丁目もハッテン場も母のことも・・・。その先に見つけた自分の居場所【前編】

一見すると、かわいらしさも感じられるほど、穏やかな雰囲気をまとっている星公一郎さん。しかし、胸の内にはLGBTQだけでなく、さまざまなマイノリティに寄り添う熱い想いを秘めている。それは自身のセクシュアリティにかかわる苦い経験だけでなく、何十年も先の未来を見据えていた、大正生まれの母からの教えが土台となっている。

2025/04/23/Wed
Photo : Tomoki Suzuki Text : Hikari Katano
星 公一郎 / Koichiro Hoshi

1965年、東京都生まれ。10代から同性愛者だと自覚し、葛藤を抱えながらも高校生から新宿二丁目に通い始めた。大学時代のカミングアウトでは心に深い傷を負い、自分の居場所を探し続ける。48歳のときに知り合った同性パートナーと、2017年に養子縁組を結んだ。

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INDEX
01 先見の明をもつ母
02 オトコオンナと呼ばれて
03 いじめられないための武装
04 新宿二丁目に通うゲイの高校生
05 受け入れられなかったカミングアウト
==================(後編)========================
06 二丁目がダメなら、ハッテン場
07 母との別れ、そして転機
08 マイノリティは、見えなくてもそこにいる
09 パートナーと父と共同生活
10 いつか終わりを迎える日まで

01先見の明をもつ母

世の中にはいろんな人がいる

現在、養子縁組を組んだ同性パートナーが、西東京市でLGBTQ当事者が生きやすくなるための活動に従事している。

自分はそれを手伝うかたわら、アイヌ民族や在日コリアンなど、さまざまな社会的マイノリティの活動にも参加している。

それは、小さいころに母から教えられたことが礎となっている。

「子どものころ、学校では『日本は単一民族国家だ』って教えられてたんですけど、母は『日本にもいろんな人がいる』って言ってました」

「母は若いころに、家族の仕事で北京に住んでた時期があったから、外に目が向いてたんだと思います」

母の先見性は、多様性だけではなかった。

「もうこれからは女だ、男だの時代じゃないからね。ぼやぼやしてたら置いてかれるよ、って言われてたんです」

当時、台所は男子禁制の固定観念が根強かったが、母は自分に包丁を握らせた。

でも、何事も令和の価値観を先取りしていたわけではなく、しつけとして手が飛んでくることもしばしばあった。

「夜になかなか寝ないでいたら、ほうきで鼻の辺りを強く叩かれて、骨が折れてしまったんです(苦笑)。だからいまも鼻が少し曲がってます」

「母が43歳のときに自分を生んだので、育児の時期が更年期と重なって、理不尽なことで怒られることもありましたね・・・・・・」

見えなくても、ここにいる

幼いころに多様性を教えてくれた人は、母のほかにもう一人いる。

「漫画家の水木しげる先生ですね」

人間の目には見えないけれど、身近に数多く存在する妖怪たち。漫画『ゲゲゲの鬼太郎』でおなじみの水木しげる先生は、そんな妖怪たちの住まう多様な世界を描き続けた。

「目には見えない存在とも人間は仲良くしなきゃ、ってことを水木先生はマンガを通して教えてくれてたんですよね」

ストーリーに登場する目には見えない存在が、社会的マイノリティと重なるところがある、と考えている。

「人間を妖怪に例えるのは失礼かもしれないですけど、水木先生は現実社会の多様性を理解してたんだと思ってます」

見てきた世界が異なる父

母が多様性にあふれた現実社会を見据えていた一方で、幼いころに戦争の被害の少なかった地方で生まれた父は、価値観が180度異なっていた。

「たとえば、テニス選手の大坂なおみさんがテレビで取り上げられてると、『こんな人が日本人だなんておかしい』とか言ったり・・・・・・。頭が固くて、マイノリティに対してマウントを取ろうとするんです」

ただ、だれに対しても厳しいわけではなかった。

「父は近所にあった女子高の購買部で働いてたんですけど、仲良くなった女の子にはパンをあげたりしてました」

その挙句、生徒を従業員スペースに招き入れて店番を任せたために、お金を盗まれたこともある。

「とにかくダメ親父でしたね」

父が商売にルーズだった分、母が自宅で雑貨屋を営むことで経済的に支えていた。

「両親の考えが両極端すぎたので、ケンカにもなりませんでした」

02オトコオンナと呼ばれて

野球をしない奴は男じゃない

当時、小学生男子の遊びと言えば野球、女子はなわとびや鉄棒、とはっきり分かれていた。でも、自分は野球が好きではなかった。

「昔から乱視が強かったから、球技全般が苦手で・・・・・・。球が全然見えなくて、訳もわからずバットを振ってる状態だったんです。サッカーはまだメジャーではありませんでしたしね」

そのため、男の子たちの野球の輪には入らず、鉄棒で遊ぶようになる。

「幼稚園のときに先生が逆上がりの補助をしてくれてからコツをつかんで、いろんな技を覚えるのが楽しかったです」

ほかの男の子は野球をしているのに自分はそのなかに混ざれず、疎外感を覚える。

「自分が鉄棒しかしないから、男の子から『女みたい』『おかま』って言われるようになりました。いじめに近いこともされましたね・・・・・・」

「おかま」の意味はよくわかっていなかった。

当時はそもそも、さまざまな意味で「おかま」という蔑称が使われていた。現在のように、性自認・性的指向などと、セクシュアリティが細分化されていなかったためだ。

「ゲイと思われる人、性表現が女性らしい人、なんでもひとくくりにして『おかま』って言われてました」

意味はわからなくても、バカにされていることは感じ取っていた。

いじめられたら、こちらが謝る

小学校1、2年生のころ、男の子にからかわれてカッとなり、つい手が出てしまった。

「家に帰ると、母から『いじめられても、ごめんなさいって返しなさい』って言われたんです」

母は地元で商売を営んでいる。子ども同士のトラブルが起これば、お客さんでもある相手の親が店に怒鳴り込んでくる。
この地域で営業するには、悔しさを飲み込まなければならなかったのだ。

「母からは、あんたが悪いって言われて、家にも学校にも居場所がありませんでしたね・・・・・・」

習いごと漬け

小学校が終わったあとは、毎日のように習いごとに通っていた。

「学習塾、英語、習字、民謡も習ってました」

両親が共働きの場合、通常なら学童に通うことができる。でも、母は自宅で商売を営んでいたので、学童の対象外と見なされた。

実際には母が働きながら子どもの面倒を見ることは難しいため、学童の代わりに習いごとに通うこととなったのだ。

「民謡は父に言われて習うことになったんですけど、小学校低学年の間でも声質が変わるし、歌いづらくて楽しくなかったですね。5年生で変声期を迎えたので辞めました」

そのほかの習いごとは、小学生の間ずっと続けた。

03いじめられないための武装

厳しい体罰といじめ

地元の小学校を卒業すると、中高一貫の男子校に進学する。

「男子校なんで、ただ叩かれるだけじゃなくて服を脱がされるとか、体罰もハードでした」

環境が変わっても、おかまと揶揄され続け、いじめも悪化した。

「そのころには、自分は同性が好きだって自覚してました。もちろん周りには伝えてなかったですけど、そのことでも女っぽいって認識されてたんだと思います」

「教科書に落書きをされたり、試験前にノートを隠されたり、体操着を破られたり・・・・・・」

「ヤバい奴」になればいい

いじめられ続けることも限界に達し、中学2年生の半ばから態度を一変させる。

「非行に走りました。と言っても、見た目でわかるヤンキーではなくて、怒らせたらヤバい奴、って感じでしたね」

「なにか嫌なことを言われたらタバコの火を押し付けたり、ハサミを投げつけたりしてました」

理由があっても許されはしない乱暴な行為だが、溜まりに溜まったストレスが荒い手段となって噴出した。

小学校のときにはいじめっ子に仕返しをすると母に叱られたが、家から離れていた学校だったため、おとがめなしだった。

「小学校のときは、クラスメイトの家族=お店のお客さんでしたけど、中学はお客さんと関係ないコミュニティだったからだと思います」

周囲から恐れられるようになり、いじめは終息した。

04新宿二丁目に通うゲイの高校生

ゲイであることを受け入れられない

エスカレーター式で高校に上がると、高校から新しく入学してきた生徒に引け目を感じる。

「外部から入学してきた子のほうが、学力が高いし、見た目からしてヤバそうな不良もいる。なにも太刀打ちできないから、自分は引っ込んでいよう、と」

学校で恋バナに巻き込まれたときには対策を取っていた。

「どういう女の子が好きなの? って聞かれたときには、こういうふうに言おうって、あらかじめ設定を作ってました」

自分の恋愛や性的興味が男性に向いているということはわかっていたが、まだ受け入れられずにいたときのことだった。

「電車に乗ってるときに見知らぬ大学生の男性に誘われて、ついていってしまったんです」

身の危険を感じることはなかったこともあり、そのまま同行して初体験。

「男性が好きなのかもしれないとは思ってたけど、なんでついていってしまったんだろう? なんでこんなことをしてしまったんだろう? って悩みました」

でも、男性との性交渉で心が動いたことは認めざるを得ず、葛藤はふくらむばかりだった。

まずは新宿二丁目付近へ

男性と性的な関係をもったときに感じたときめきを、心の底から否定できない自分に対してモヤモヤしても、周囲に相談できる相手はいなかった。

そこで、ゲイコミュニティに行って話そう、と思いつく。

「そのころは『薔薇族』などのゲイ雑誌が全盛期でした。その雑誌の広告に、新宿五丁目にある、昼間から開いていて学生でも入れる談話室が載ってたんです」

わらにもすがる思いで談話室にたどり着いたが・・・・・・。

「自分と同じ高校生がいなかったんです。若くても大学生。年上の方だとかなり高齢のおじさんがお茶を飲みに来ていて、なかなか相談できませんでした」

年上の人には相談しづらいと考えたのには、もう一つ理由がある。

「同性愛っていうものは、結婚して女性に飽きた人が、歳を取ってからたしなむものだ、って当時は思ってたんです。女性とのお付き合いという段階を踏んでない自分はダメだ、って思ってました」

実際、女性と法律婚をして家庭を持ちながら、人知れず二丁目を訪れるゲイも少なくなかった。

ゲイコミュニティと新宿二丁目と

ゲイコミュニティに足を踏み入れてみて、新たな発見もあった。

「それまで学校とかではからかわれる存在だったけど、ゲイコミュニティのなかでは唯一の高校生だったから、ちやほやされたんですよ」

周囲に優しく接してもらえたことによろこびを覚え、年上の男性に連れられてとうとう二丁目へ足を踏み入れる。

男性を好きである自分を受け入れてくれる居場所は見つかったが、問題は二丁目の “外” という日常に戻ったとき。

「二丁目ではかわいがってもらえても、そのエリアから外に出ればやっぱり自分は異質な人なわけで・・・・・・」

ゲイコミュニティに浸っている間にも、現実を突き付けられる。

「当時、二丁目に来る人は、名前は偽名、住所も言わないことが当たり前で、身バレが一番怖いことだったんです。そんななかでいざこざが起こると『家族にばらすぞ』って脅し文句が飛び交ったり・・・・・・」

自分らしくいられる場所で、素性を隠さないといけない現実を目の当たりにしてしまい、自分の将来像を描けなかった。

「高校生のころは20歳まで生きたら、そのあとは自分で死ぬのかな、って考えてましたね・・・・・・」

05受け入れられなかったカミングアウト

二十歳の告白

大学に進学し、成人を迎えた2年生のとき、友だちとの飲み会でのことだった。

「『二十歳の告白』と題して、それまでだれにも言ってなかったことをみんなの前で打ち明けよう、っていう話になったんです」

男女関係なく「実は二股をかけてました」などと大胆な告白がなされるなか、自分はゲイであることをカミングアウトしよう、と考えたのだ。

「ちょうどそのころ、テレビでゲイの人たちが少しずつ活躍するようになっていて。だから、自分も受け入れられるだろうって思ってたんです」

「自分は男が好きです、とカミングアウトすると、サーって静まり返りました・・・・・・」

翌日から、だれも自分と口をきいてくれなくなった。

もう大学にいられない

ゲイであることが周囲にまったく受け入れられず、ひどくショックを覚えた。

「その後、20年くらいは円形脱毛症に悩みました」

「学生相談室で話しても、もやもやは消えなかったですね」

大学4年生の5月までなんとか頑張ったが、精神的な限界に達し、大学を中退する。

「親には『勉強についていけないから辞める』って伝えたと思うんですけど、前期の学費を納めたばかりだったこともあって、なんで辞めたんだ! って責められました」

 

 

<<<後編 2025/04/29/Tue>>>

INDEX
06 二丁目がダメなら、ハッテン場
07 母との別れ、そして転機
08 マイノリティは、見えなくてもそこにいる
09 パートナーと父と共同生活
10 いつか終わりを迎える日まで

 

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