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性別や障がいの有無など関係なく、誰にとっても生きやすい、格差や差別のないフラットな世界を【後編】

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2025/06/25/Wed
Photo : Tomoki Suzuki Text : Kei Yoshida
星野 一輝 / Kazuki Hoshino

1986年、千葉県生まれ。16歳で男性に恋をしたことから自身をゲイだと考えていたが、女性とも深い関係性を築けたことから、恋愛対象に性別は関係しないパンセクシュアルであると理解する。『MOMENT―MEMORIAL 1st MESSAGE』ほか、詩集3冊を文芸社より出版。現在はパートナーとともにユーチューバーとしても活動し、自らの身体障がいやゲイカップルのリアルについて発信している。

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INDEX
01 奔放な母、血のつながらない父たち
02 障がい者だから、というレッテル
03 いじめや衝突、中学不登校に
04 家にも学校にも居場所はない
05 苦しみから繰り返したリストカット
==================(後編)========================
06 ゲイというよりパンセクシュアル
07 初任給で祖母とレストランへ
08 心の声を綴った詩集3冊を出版
09 ゲイカップルになって11年
10 世界がもっとフラットになればいい

06ゲイというよりパンセクシュアル

男性が気になったからゲイ?

自分のセクシュアリティが「周りと違う」と感じたのは小学5年生の頃。

体育の授業で着替えるときに、女子よりも男子が気になった。

「周りと違っても、まぁ、そんなもんじゃんって感じです。それが悩みになるって感じではなかったですね」

初めて恋愛感情を抱いたのは高校1年生のとき。
1個上の先輩。男性だった。

「その人は交通事故で障がいをもって、うちの学校に転入してきたんです」

突然、一般校から特別支援学校に移ることになり、生活がいままでとは急変し、これからの人生も思い描いていたものとは変わってしまった。

そんなわだかまりもあったのだろうか。

「しょっちゅう荒れてて、壁を殴ったりしてました」

「そんな姿を見てて、母性本能をくすぐられたというか(笑)。心の扉を開けたいって思ったところから、ラブになっていったのかも」

荒れる先輩に寄り添い、とにかく話を聞く。
そして次第に打ち解けていくなかでおもいを伝えた。

「付き合いたいとか、なにかを求めていたわけじゃなくて、どんなかたちでもいいから同じときを刻みたかったんです」

「先輩は『え、俺、男だけど』みたいなことはやっぱり言ってましたけど、まぁ、そりゃそうだよねって感じで、ショックとかはなくて」

「そのあとは、卒業とともに離れてしまって、そのままですね」

恋愛に性別は関係ないからパンセクシュアル

高校卒業後にも結婚を考えるほど好きになった人がいた。

10歳のときに特別支援学校で出会った人。女性だ。

「その頃には自分は男性が好きだって自覚があったのに、その子のことが無性に好きだったんですよ」

「パンセクシュアルというカテゴライズを知らない頃だったけど、もともと好きになる相手に性別は関係なかったのかも」

高校を卒業してからも定期的に会い、手紙のやりとりもしていた。

お互いを “特別な存在” と考えていたと思う。

しかし、内臓疾患を抱えていたその子は、23歳で亡くなってしまう。

「できることなら結婚したかった」

「就職したくてもできずに亡くなってしまったその子のことを思うと、生きてる自分が、働きたくないとか言ってられないし」

「働くしかないじゃない」

職業訓練校の医療総合事務科に通い、医療事務以外に簿記やパソコンに関する資格を取得した。

取得した資格は1年間で12個。

「大変でしたね。怒涛でした(笑)」

「でも、友だちと飲みに行ったりとか、遊んだりする時間はありましたよ」

就活を経て、東京にある厨房機器メーカーの経理職に就職した。

07初任給で祖母とレストランへ

早く自立したい

「高校2年で寮に入ってからも、母はやっぱり金と時間と男にルーズだったから、耐えられなかった」

「社会でひとり立ちするのは不安だったけれども、母に支配されるくらいだったらもう、危ない橋でも渡ってしまったほうが平和かなと思って」

「とにかく家にいたくなかった。早く自立したかったんです」

生まれて初めての勤労。
人生で一度きりの初任給。

「就職して、初任給をもらったら、自分のためにあれを買おうとかじゃなくて、絶対にしたいと思っていたことがあって」

「祖母の誕生日が4月30日なんですよ。なので、初任給が出た日にいくらか握りしめて、祖母の誕生日祝いをしました」

ふたりでレストランに行き、食事をごちそうした。

「マザコンならぬグラマコンだったんですよ。まぁ、祖母にも障がいのことでいろいろ言われたりしたけど、祖母が生きててくれたらそれでいいなって」

「矛盾があるんですが、なんだかんだ言っても、祖母にはベタベタにかわいがってもらってたんで」

そのあとに実家にも生活費を入れた。

「ひとり暮らししたいと思ってたんですが、体を壊してしまって・・・・・・」

「アルバイトもしたことなくて、社会というものを知らずに働き出したからか、本当に右も左もわからなくて、上司の厳しい言葉もそのまま受け止めすぎちゃって、パンクして、アウトになっちゃいました」

うつになって退職

少なからずやりがいは感じていたし、尊敬する上司もいた。

しかし、体がついていかなかった。

「特に上司と、自分を面接してくれた面接官との関係性は、なんというかすごく憧れで。社会人になってもこんな仲いい関係ってあるんだ、って」

ふたりとも自分にとっては親父くらいの年齢。
心のなかで、親しみを込めて “親父” と呼んでいた。

「でもうつになってしまって・・・・・・・1年半くらいで退職しました」

上司の厳しい言葉の意味も、いまならわかる。

「自分の今後のことを思って言ってくれていた、自分に成長してほしいから言ってくれていたんだってこと、わかるんですよ、いちおう」

「でも、当時は余裕がなかったから」

23歳で亡くなった子のためにも、歯を食いしばって働こうとしていた。
しかし本当に余裕がなかった。

仕事にはもちろん全力だったが、もうひとつ全力で挑んでいたことがある。

夢があった。

08心の声を綴った詩集3冊を出版

出版させてほしい

小学6年生の頃から書き始めた詩。

いつかは詩集として出版したいという夢があった。

「高校3年生のとき、知り合いを通じて出版社に作品を見てもらったんです」

「そしたら『言葉が粗削り』『世界観が見えない』と言われて終わって」

「でも負けず嫌いなんで、もう1回だけ書いて見てもらおう、それでダメだったらこの夢は、自分の趣味や自己満足で終わらせようと考えました」

さらに詩を書き続け、もう一度、出版社に提出した。

「そしたら出版社から『話がしたい』と連絡があって、叔母と2人で行ったら、『感銘を受けたから出版させてほしい』と言われたんです」

「でも、断ったんですよ」

「出版するのに初期費用を払わないといけなくて」

19歳の冬だった。

内定はもらっているがまだ収入はない時期。初期費用を捻出することは難しかった。

「断ったんですが、『頼むから出版させてほしい』って言われて『いや、お断りしたいんです』って答えて、5〜6回そんなやりとりが続いて・・・・・・最後には自分が折れて、じゃあ出しますって答えて出版契約しました」

就職と同時にローンを組み、初期費用を出版社に支払った。

働き始めて、仕事にも環境にも慣れるのに必死な時期に、退勤後に出版社に通って打ち合わせもこなした。

「いつも終電で帰ってましたね(苦笑)」

詩を書きながら自分を追究する

2006年10月、とうとう夢が叶う。

詩集『MOMENT―MEMORIAL 1st MESSAGE』を出版。

「発売日に書店に見に行きました! もしかしたらドッキリかもっていう気持ちもあって、カメラを探したりしながら(笑)」

店頭に並ぶ著書を見たときは感慨深かった。

「あぁ、本当に置いてある、って」

「置いてある様子を写真にも撮りました(笑)」

いま思えば、詩を書くことは心のよりどころになっていた。

言葉に出せない気持ちを詩として吐き出していたようにも思う。

詩集は、現在までに3冊出版している。

「不思議なもので、詩を書いているときは詩人・星野一輝になっていて、書き終わると自分に戻る感じがあって」

「自分に戻ったら『星野一輝はどんなことを書いたのかな?』って最初の読者になった気分で、さっきまで書いていた詩を読むんです」

「自分自身が星野一輝の大ファンかもしれない。自分がいちばん、星野一輝に酔いしれているのかもしれないですね」

口に出しては言えないことを、詩のなかであれば言える。

詩人・星野一輝は自分の理想でもあった。

「詩を書いているときは本当に自由なんです」

「果てしなく自分というものを追究できる時間だと思っています」

09ゲイカップルになって11年

「障がいがあるから付き合えない」

現在のパートナーとの出会いは銭湯。

銭湯巡りが趣味のパートナーが仲間を募集しており、いわゆる “風呂トモ” になったのがきっかけだった。

「初めて会った日の帰り道でダンナ(パートナー)に『付き合ってください』って言われて、え、なんで、って思いました(笑)」

そもそも “恋人募集” として会ったわけではなかったし、それまでの恋愛がうまくいかず、出会いというものにまったく期待していなかった。

「アプリを介して何人かに会ってみたり、付き合ってみたりしてたんですが、相手から『障がいがあるから付き合えない』とか『障がいがあるから抱けない』とかって、言われたりしてたんです」

「だから、初めて会う人に対しても、どうせお前もそう思ってんだろ、って決めつけてたんですよね・・・・・・」

何度「付き合ってほしい」と言われても首を縦には振らなかった。

そんなある連休に、ひとりで北海道旅行に出かける。
最終日、ダンナから着信があった。

「借金の取り立てかってくらいの勢いで『何時の便で羽田に着くんだよ、迎えに行くから待ってろ』って言われて」

「そしたら、羽田空港の到着ゲートの真ん前で待っていてくれたんですよ」

この人は信じられる相手かもしれない。

そこでもう一度、「付き合ってほしい」と言われた。

初めてちゃんと愛された

「いままでは自分が相手を追う側だったけど、それで100連敗くらいしてるから、人生経験として1度くらいは追われてみるか、って思いました」

「それで、ひとつだけ条件をつけたんですよ。あなたが生きている限り、俺が最後の人だと、この場で誓えるかって・・・・・・かなり上から目線で(笑)」

「そしたら、『最初からそのつもりですけどなにか』って言われちゃったから、あ、これは年貢の納めどきだなって、付き合うことになりました」

2025年で付き合って11年になる。

長続きなんてしないだろう、いつか捨てられるんだろうって思っていた。

「大げさだけど、ダンナと一緒にいると、人生で初めて人からちゃんと愛されたっていう感覚があります」

「誰もがふつうは親から受け取ってる愛を、自分は受け取れなかったから」

自分が生きていると、周りに不幸を振りまくとさえ思っていたことも。

「生まれる前から・・・・・・母が自分を妊娠したときから、祖母は『おろせ』って言っていたそうだし、生まれてからも手間がかかるわなんだかんだと罵倒されていたし・・・・・・」

「就職して、がんばって働いて、いつか誰かと結婚したいって言ったら、『お前みたいな障がい者、誰がもらってくれるんだ』って感じで、母からも叔母からも言われてました」

お前のせいで。
お前なんか。

「そう言われたら、自分は結婚できない人間なんだって思ってしまうし、自分が生きているだけで、周りの人たちを不幸にするというか、なんか邪気を振りまいてしまうのかもしれないって、思うようになっていました」

その刷り込みを、ダンナは身をもって完全否定してくれた。

10世界がもっとフラットになればいい

ありがとうを伝えたら

「昔はね、笑えなかったんですよ」

「笑おうとすると顔が引きつっちゃって、笑うことができなかった」

いまのように笑えるようになったのは、ダンナのおかげだ。

「ダンナに、『なにかしてもらったら、ありがとうってちゃんと言いなさい』って言われたんです」

「一緒に生活してて、食器洗ってもらったり、お風呂沸かしてもらったりしたら、ふつう『ありがとう』って言うじゃないですか。自分は、『そんなの頼んでないし』って言ってたんですよ(苦笑)」

もしかしたら自分なりの “試し行為” だったのかもしれない。

愛されることを拒むふりをしていたのかも。

「でも、どんな小さなことにでも、してもらったことには『ありがとう』って言うようにしたら、表情がゆるんできて、笑えるようになったんです」

「なんというか、変な気を張らなくてよくなりました」

「それがだいたい30歳のときだったかな。30歳から、自分は生まれ変わったようにも思います」

障がいも性別もオープンに

2020年からはゲイカップルユーチューバーとしての活動を開始。

障がい者も恋愛できるし働ける、というリアルな姿を発信している。

「障がい者の市場価値を上げたいって気持ちもあるんです」

「病気や事故で障がいをもってしまった人が講演をしているケースは多いんですが、先天性の障がい者で発信している人はまだ少ないかもって、思ってて。じゃあ、自分がやろうって」

目指しているのは “フラット” な世界。

障がいについてもセクシュアリティについても、「自分はこうである」と誰もがオープンに言い合えるようになってほしい。

そこに格差や差別はいらない。

障がい者だからといって、とりわけ配慮がほしいとか、察してほしいということは周りに求めていない。

助けてほしいと声をあげる人がいたら、助けてあげようという人が手を差し伸べる。

そんな、シンプルなことでいいと思う。

「自分のリアルな姿を広く知ってもらえたら、なにか変わるかなって」

「ゲイとかLGBTQの人も、障がい者も、自分よりも年下の子たちが、これから社会に出ていくときに、少しでも生きやすい世界になっていてほしい」

そのためには、どれだけでも自分をさらしていく覚悟がある。

「伝えたいことはいくらでもありますから」

 

あとがき
カフェに着くまでのあいだもずっと、一輝さんは人懐っこい笑顔で話を聞かせてくれた。あふれる記憶と気持ち。母のこと、障がいのこと・・・表情が大きく歪むことはなかったけれど、いまいましい体験には深い悲しみが詰まっていた■ずっとほしかった愛情を受け取って「30歳から生まれ変わった」という。ダンナさんが教えてくれた「ありがとう」。言葉にして伝える感謝は、幸福感を運んでくれる。その幸福感は自分の心をどんどん浄化してくれる。(編集部)

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