02 障がい者だから、というレッテル
03 いじめや衝突、中学不登校に
04 家にも学校にも居場所はない
05 苦しみから繰り返したリストカット
==================(後編)========================
06 ゲイというよりパンセクシュアル
07 初任給で祖母とレストランへ
08 心の声を綴った詩集3冊を出版
09 ゲイカップルになって11年
10 世界がもっとフラットになればいい
01奔放な母、血のつながらない父たち
殴られたりラブホに連れて行かれたり
4人きょうだいの長男。
6歳下と11歳下の妹、12歳下の弟がいる。
「下の妹と弟は、自分のきょうだいというよりも子どもって感じ(笑)」
その理由は、ひとまわり違う歳の差だけではない。
下の2人にはミルクをあげたりオムツを替えたり、親のように接してきた。
「母は、親というよりも女でした。子どもたちのことよりも、自分が大事で自分が優先って人でしたから」
「いまでこそ落ち着いてますが、俺が小さい頃は、朝ごはんすら用意してくれなくて、妹のぶんも俺がつくって食べてましたから」
母親は18歳で自分を産んだ。
父親は、すぐ下の妹も、下の2人も違う。
自分の父親は、生後2カ月のときに離婚したと聞いている。
記憶もなければ会ったこともない。
「物心ついた頃は、すぐ下の妹の親父と一緒に3人で暮らしてて、まぁふつうに親父から殴られてたし・・・・・・言ってもいいのかな・・・・・・3歳くらいのときからラブホテルに連れてかれてました」
母の交際相手は1人じゃない
脳性麻痺により足に運動機能の障がいがあり、3歳から平日はリハビリのために入院していて、週末は家族と過ごすという日々だった。
「月に1回くらいのペースだったかな、週末にラブホで、百円玉30枚くらい渡されてゲームしているあいだに、親は隣の部屋で(苦笑)」
「当時は、そこがどこかはわからなかったですけど、大人になって、自分が行くようになると『あ、こういうホテル、小さいときに来たことある』って気づいたんですよね・・・・・・」
そうした “習慣” は週末だけでなく日常的にすぐ隣で行われていた。
「3人で川の字で寝てたんですけど、その状態で隣でよろしくやってて」
「気づかないはずはなくて、幼かったけど、なんとなく『そういうことだよね』って理解してて・・・・・・しかも相手は親父だけじゃなかった」
同居していた “親父” と母は入籍していない。
交際相手は1人ではなかったとも記憶している。
「もう、その音だけで『今日はあの人だな』ってわかるんですよ(苦笑)」
それは妹が生まれてからも続いた。
「妹の親父と別れるまで、自分が8歳くらいまでは、ありましたね」
02障がい者だから、というレッテル
「障がい者を受け入れてくれるんだから」
3歳からリハビリテーションセンターに入院していたが、6歳からは千葉県内の一般の小学校に入学。
しかし、小学2年生の2学期からは特別支援学校へ転校することになった。
「一般校で、ほかの子たちと同じように生活していると、やっぱりどうしても足が悪くなってきてしまって・・・・・・。病院と併設している特別支援学校に行くことになったんです」
「そこなら、リハビリもできるし、勉強もできるし、って」
「その病院には、同じく入院しながら学校に通う仲間がいたんですが、みんなは2歳くらいから入ってて、3歳で入った自分はかなり遅いほうでした」
しかし、小学5年生からはまた別の一般校に転校することになる。
「虐待していた親父と母との事実婚関係が解消されて、下の2人の親父となる人との再婚話がもちあがったんです」
しかし思春期だったこともあり、自分には受け入れがたかった。
「なんで、そんなん頼んでない、どうして、って気持ちが強かった」
「でも、『その人は、あんたみたいな障がい者を子どもとして受け入れてくれるんだから、喜びなさい』って母から言われて・・・・・・」
脳性麻痺のせいで文句を言われる
先天性の障がいのせいで、家族や親族からも冷たい言葉を浴びせられてきた。
例えば、母方の叔父や叔母と動物園に出かけた際には、歩くのが遅い自分に対して「どうにも手間がかかる」「すごく時間がかかる」と文句を言う。
「そんなことで自分に文句を言われてもね・・・・・・。じゃあ連れてくるなよって感じでしたよ(苦笑)」
「むしろ身内から、ないがしろにされてたって感じでした」
そんな自分を受け入れてくれるから、と言われても、新しい父親を快く受け入れる気持ちには到底なれなかった。
受け入れるどころか、毛嫌いしていたくらいだ。
「もう、近寄ってほしくなくて」
「その親父からは、なに言われてもノーで返してましたね」
「なんか気持ち悪くて。勝手に父親ヅラすんなよって思ってました」
母の再婚を機に、特別支援学校から一般校に戻ったのは、「一般校を卒業してほしい」という母の希望が大きな理由だ。
一般校に通いながらも、1カ月に1回くらいのペースでリハビリを受けた。
「そのままだと膝裏の筋が硬くなってしまうので、それをほぐして伸ばしたり、あと歩行訓練だったり。1回のリハビリにつき40分くらいですかね」
「でも、やっぱり悪化しちゃいました。子どもは、体の調子がどうこうよりも、みんなと一緒に同じことをしたい気持ちのほうが先行しちゃうから」
「それはもう、しょうがないよね・・・・・・」
03いじめや衝突、中学不登校に
歩き方を真似される
小学校を卒業後は、そのまま一般の中学校へ入学。
下の妹と弟はまだ生まれたばかりだった。
ミルクをあげたり、オムツを替えたりは自分の役目。
母といえば、昼はパチンコ、夜は麻雀に明け暮れた。
「俺も遊びたいのに、母が『じゃあよろしく』って出かけてしまうから」
家は安心できる場所ではなかった。
そして学校もまた、そうではなかった。
「一般校では、小学校からずっと、常にいじめがありました」
「歩き方を真似されたり、アニメ『ドラゴンボール』のキャラに例えられて『人造人間何号が来た!』とか言われたり」
「もう、からかわれるたびに反応してたらキリがないから、見て見ぬふりしてました。それで気が済むんだったらどうぞっ、て感じで(苦笑)」
学校でイヤな気持ちにならない日はなかった。
「お前なんて、どっか消えろよ」と言われて、「いますぐ消えるから、安楽死の方法を教えてくれ」と言い返したこともある。
「特に中学の頃は、寝てるとき以外はすべてが苦痛でしたね」
きょうだい2人が児童養護施設に
小学6年生からは、口に出せない気持ちを詩に書くこともあったが、そのときはまだ、それで発散できている、救われているという実感はなかった。
中学ではブラスバンド部に入部。
しかし音楽が心の拠りどころになってくれることもなかった。
「部活動って、謎の上下関係があるじゃないですか。絶対に先輩が正しい、みたいな。それに対して、なんか疑問を感じてて」
「3年生に『1年は従え』って言われたから、年上だからってだけでなにが偉いんだ、って気持ちで反発して・・・・・・。もうそれで辞めました」
部活を辞め、勉強のスピードにもついていくのが難しく、学校生活そのものにも戸惑ってしまい、メンタルがどんどん削られていく。
学校にも行かなくなってしまった。
さらにまた家も、不安定な状態となる。
「下の2人の親父と母が離婚して、また引っ越しすることになって」
中学2年生の3学期からまた入院して、特別支援学校に戻ることになった
下のきょうだい2人は、まだ2歳と3歳。
ひとり親では、子ども4人を育てられないと、下の2人は児童養護施設に預けられることになる。
04家にも学校にも居場所はない
一般校からまた特別支援学校へ
中学2年生で、両親の離婚を機に引っ越し。
引っ越しした先で、入院するまでの1カ月間、別の一般校に通った。
「1カ月したら特別支援学校に行くことが決まってたから、開き直ってたんでしょうね、もうハジケてやろうと思って」
「すごいグレグレで。学ランのボタンを全部はずして、登下校中にわざわざタバコ吸ったりしました(苦笑)」
「もう俺を止められるものは誰もいねえぜ! みたいな。誰も見ていないのに、意味なく強がって。暴走機関車かっていう(笑)」
中学2年生の3学期からの入院には大きな目的があった。
「膝裏の手術をする最後のタイミングだ、ってなって」
「骨格とか、成長期で足の状態が変わってきていて、手術するならいまやらないとって感じで医師に言われて、まぁ・・・・・・手術してよくなるかどうかわかんないけど、やってみようってことになったんですよ」
手術は、入院から1カ月後。
その1カ月は、先の “グレてた1カ月” とは対照的な1カ月だった。
「なんかこう、自分を客観的に見つめ直した期間でした」
「高校受験をどうしようかな、とか。一般校に行こうとも思ったんですが、特別支援学校の高等部にそのまま進学しようと思って」
不登校になってから、中学2年生はほとんど授業を受けていなかったため、その空白の期間を埋めるため、まずは必死に勉強した。
さらに復習する意味で、中学1年生からもう一度学び直し、同時に英語検定や漢字検定といった資格試験にも挑んだ。
DV親父との再婚
「とにかく勉強して、詰め込んで、高等部に進学したんですよ」
「そこでまた何度目かの反抗期(苦笑)」
「俺を虐待していた親父と母が結婚したんですよ。前は事実婚だったんですが、今回はちゃんと籍を入れて・・・・・・・」
きっかけは、妹が親父に会いたいと言ったことからだった。
妹の願いを受け、「1度だけ電話してみて、出なかったら会うのは諦める」という約束で電話をしてみたら、出てしまったらしい。
「やっぱりちょっとふざけんな! って思って」
妹に対しても憤りを感じていた。
実の娘だからと親父から大事にされていた妹。
妹が大事にされているぶん、自分が殴られているようにも感じていた。
「母も、俺が殴られていたことを知ってたんですが、まぁ『お前が悪い』って思ってただろうし、父親としての教育の一環と思ってたんでしょうね」
自分の気持ちを、母も誰も汲んではくれない。
再婚時に子どもは自分の姓を選ぶことができたが、母から「父親と姓が違うと扶養手当がおりないから」と言われ、憎い親父の姓を選ぶほかなかった。
「母が再婚してからは、学校が15時に終わっても、電車とバスを乗り継いでデパートとかに行って、立ち読みして閉店まで時間をつぶしてました」
「家に帰りたくなくて」
05苦しみから繰り返したリストカット
自分のほうを振り向いてほしい
「なんで俺だけ、って思いましたね」
「ずっと、生まれてきた意味ってなんだろう、って考えてました」
不登校になっていた中学2年生の頃からは、自分が生きているかどうかを確かめるため、リストカットを繰り返すようにもなった。
生きている意味が見えなかった。
生きている感覚がなかった。
「リストカットは・・・・・・いま思えば、自分のほうを振り向いてほしいっていう気持ちもあったかも」
「わざと、親たちを困らせたり、背くようなことを言ったりして、注目してほしい・・・・・・みたいなのがあったのかなとも思います」
リストカットを止めてくれたのは、同じ特別支援学校に通う友人たちだった。
ずっと、一緒に入院していた仲間たち。
彼らに救われた部分も大きい。
手首のリストカットは、耳のピアスに代わる。
タバコ、ピアス、万引き
「それでもね、高校のときもすごいグレてたから、やっぱり友だちと距離みたいなのはあったように思います」
「自分から、近寄るんじゃねぇってオーラを出してたかも」
「その頃は、毎週1個ずつくらいの勢いでピアスを開けてました(苦笑)」
高校1年生は、ほぼ毎日放課後に担任から呼び出されるほどの荒れようだった。
「タバコも吸ったし、髪も染めて、ピアスを開けて、万引きも」
2年生になって、少しずつ「このままじゃいけない」と気づき出したのは、2つのきっかけがあったから。
「3年間お世話になった担任の先生のおかげだと思います」
「先生は、初めて信じることができた人かもしれない」
もちろん日々呼び出されては厳しいことを言われたが、内緒でおにぎりを買ってくれたり、家族のことの相談にのってくれたりしてくれた。
「なんか自分にとって、母親的なところもあったのかな」
もう1つのきっかけは、実家から寮に移ったこと。
家族から受けるストレスが格段に減った。
「実は、再婚する直前とかかな、親父がくも膜下出血で倒れたんですよ」
「なのに母は働かないし、収入がなくなって、電気ガス水道ぜんぶ止まって・・・・・・。真冬の極寒の日にも暖房がなにも使えないから布団かぶって寒さをしのいだり、食べものがなかったりしてたんです」
「そのあと親父は、くも膜下からは復活できたんですけど、肺がんが末期だってわかって、ほんとすぐ亡くなってしまいました」
それでも母は、単発で働くことがあっても長続きはせず、生活や学校にかかる費用は、祖母や親戚などから借りたりしているようだった。
「寮に入って、少しは気が紛れたって感じです」
<<<後編 2025/06/25/Wed>>>
INDEX
06 ゲイというよりパンセクシュアル
07 初任給で祖母とレストランへ
08 心の声を綴った詩集3冊を出版
09 ゲイカップルになって11年
10 世界がもっとフラットになればいい