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十人十色、子どもたちがありのまま輝けるように【前編】

杉並区下高井戸にある「8Dこども教室」を運営し、講師を務めている中村純さん。日々子どもたちと向き合い、ありのままの自分を受け入れ、自分らしさを大切にできるよう関わっている。きさくな人柄と、人とのほどよい距離感が保てるバランス感覚は、幼い頃からの経験と数多くの子どもと接してきた教師経験がなせる技だろう。そんな中村さんの歴史を振り返るとともに、教育者としての考え方、今後の生き方についても迫った。

2017/04/10/Mon
Photo : Mayumi Suzuki  Text : Mayuko Sunagawa
中村 純 / Jun Nakamura

1980年、鳥取県生まれ。幼少期からスポーツに打ち込み、陸上競技では全国大会の入賞経験がある。国立東京学芸大学教育学部を卒業し、幼稚園教諭、小学校教諭、司書教諭、中学校・高等学校教諭の資格を取得。都内の小学校で教師を務めたのち、現在、都内にて8Dこども教室を運営している。2010年よりGIDの治療を開始し、翌年8月に入籍。現在、妻と二人暮らし。

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INDEX
01 運動も勉強も得意な優等生
02 女の子の自分とのギャップ
03 友達の「好き」と恋愛の「好き」
04 進むべき道
05 解放されたセクシュアリティ
==================(後編)========================
06 診断・治療、親へのカミングアウト
07 教師の仕事
08 これからの人生
09 誰もが自分らしく生きられるように
10 十人十色に輝いてもらいたい

01運動も勉強も得意な優等生

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周りをよく見る子ども

幼少期から、わりとなんでもできるほうだった。

スポーツも勉強も好きだったし、クラスのみんなと仲がよく、誰とでも分け隔てなく接することができた。

「先生から見たら優等生。同級生から見たら付き合いのいい奴っていうイメージだったと思います(笑)」

やればなんでも人並み以上にできてしまう。

だから、いつの頃からか周囲の状況をよく見て、時には自分が前に出ないよう遠慮するようになった。

特に体育で男女別に活動する時には、他の女子との力の差があきらかだった。

本当は本気でぶつかり合ったり競ったりしたかったが、女子相手だと遠慮して控えめに取り組むことも多かった。

時に、周りの状況をよく見て行動する。
これは、子どもながらに周囲とうまくやっていくための処世術だったのかもしれない。

どうしても野球がやりたい

小さい頃は、男女関係なく遊んでいた。

男の子と遊ぶ時は、野球や鬼ごっこ、ファミコン。
女の子と遊ぶ時には、人形遊び。

どちらもその場に合わせて遊んでいたが、男の子との遊びのほうが自分にはしっくりきた。

中でも野球が好きだった。

小学4年生から学校の野球クラブに入りたかったが、男の子の部員しか在籍しておらず、仕方なくグラウンドに練習をよく見に行ったし、一人で壁キャッチボールをして遊んでいた。

でも、あきらめきれず、5年生の初めに「どうしても野球がやりたい」と父親に訴え、なんとか入れてもらうことができた。

入部したての頃は体力はあるが、コントロールがいまいちだった。

でも、努力を積み重ねて、6年生の時にはエースになれた。

「地元の新聞に『少女エース。350球を投げきる!』って載ったことがあって、ちょっとした街の有名人になりました(笑)」

02女の子の自分とのギャップ

待望の女の子

3人兄弟の末っ子。

上の兄弟は2人とも男だったため、両親は長年女の子を望んでいた。

そんな中で生まれた自分は、まさに “待望の女の子” だった。

そんなこともあり、

口には出さないが、幼少期の頃から「女の子なんだから・・・」「女の子らしく・・・」というような雰囲気を両親からちょいちょい感じていた。

親にしてみれば、ランドセルは当然「赤」を選ぶものだと思っていただろう。

当時は今のような、多色からの選択肢はなかった。

でも、自分は「赤」を背負うのが嫌で、本当は「黒」を選びたかった。

中学からは制服でスカートを履かなければいけず、母親に「校長先生に抗議して!」と訴えた。

しかし、母親に「自分で行きなさい」と取り合ってもらえなかった。

なんで自分には “ない” んだろう

保育園の時、お昼寝が嫌いだった。

男の子の隣に寝ていると「触って」と言われて、下半身に手を持っていかれることがあったからだ。

兄は2人いるが、年が離れていたせいかあまり一緒にお風呂に入った記憶がなく、
兄と自分との身体的な違いを感じる機会はなかった。

そのため、初めは自分にはついていない物が男の子にはあることに驚き、「なんで自分にはないんだろう」「いつ伸びてくるんだろう」と思った。

やがて、下半身を引っ張ったり叩いたりするようになった。

刺激を与えることで、伸びてくるのではないかと思ったからだ。

でも、毎回ちょっと体が痛くなるだけだった。

さらに、小学4年生になると第二次性徴期の変化である胸のしこりを感じるようになってきた。

女の体に近づいていることが嫌だった。

「しこりを消しちゃおうと思って、つぶしたり平らにならそうとしたりしました。努力のかいむなしく、胸は成長するし、下は伸びてくることもありませんでしたけど(笑)」

「ドラマみたいに男女の体が入れ替わるように、階段から転げ落ちてみようかなと思ったり、ドラゴンボールを集めてシェンロンにお願いしたいなと思ったり」

男の体に変わるという奇跡を信じていた。

でも、奇跡は起きなかった。

03友達の「好き」と恋愛の「好き」

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友達の「好き」じゃない

小学校高学年の時、女の子同士で手紙のやり取りをしたり、「好きだよ」って言い合ったりするのが普通だった。

その流れに乗って、自分も気になる女の子に好きだと伝えていた。

「周りは友達同士で言い合う好きと、同じ種類だと思っていたでしょう」

「でも、自分の好きはちょっと違う。好きの本気度が違うなって感じていました」

ある時、好きな女の子にラブレターを書き下駄箱に入れた。

ただ、そのラブレターを届けることはできなかった。

男子グループに手紙が見つかり、クラス全員に公開されてしまったからだ。

差出人として自分の名前を書く勇気がなかったことが幸いして、「自分じゃない」とシラを切り通すことができた。

しかし、おそらく多くの同級生は自分が書いたものだと感づいていただろう。

男の子とのキス

中学生になると、男の子から告白されたこともあった。

男女の付き合いが今一つわからず、友達の延長のような感覚だったため、

「いいよー」という感じで気軽に付き合ってしまった。

男女関係なく遊んでいた幼少期の感覚と同じだったのだ。

でも、高校1年生の時、男女の付き合いは友達づきあいではないことを思い知る。

陸上で知り合った別の高校の男の子にキスされたのだ。

「告白されて付き合っていたんですが、ある日の帰り道、ずーっと駅の周りをグルグル回ってて」

「変だなー、おかしいなーと思っていたらいきなりキスをされてしまいました」

「すごく嫌でした。口と口をつけたくないと思いました。今から思えば、失礼な話ですけどね(笑)」

嫌な出来事ではあったが、そのおかげで友達の好きと恋愛の好きは違うことがはっきりと理解できた。

そして、自分の恋愛対象は女の子だと認識した。

その後、女の子と付き合うことになった。

陸上部のマネージャーだ。

「最初は何でも話せる気が合う親友でした。それから、自然といつも一緒にいるようになり、気づいたら付き合っていました」

男と付き合うと何をしていいかわからなかったけれど、女の子との付き合いは自分の中でとても自然でしっくりきた。

04進むべき道

青春・陸上

中学から始めた陸上。

始めた直後から全国大会を経験し、県内の陸上界では有名な存在だった。

高校では、陸上の顧問やコーチのサポートがあり、下宿しながら陸上競技に専念する生活になった。

「1年の時からやり投げで注目されていて、全国で上位入賞を狙っていました」

「1年から着実に記録が伸びて、2年でランキングではいいところまで行ったんですが、その後肘を痛めてしまって」

「それからは痛めたところをかばってしまい力がうまく出せず、まともに戦えませんでした」

「最終的には故障前の自己ベストを越える結果を出せましたし、陸上の挫折や達成感は自己を形成するのにかかせないものだったと思います」

大学進学

進路を決める際には、いろいろな人のサポートがあった。

高校で陸上に打ち込めるように環境を整えてくれたのは、陸上の先生ややり投げのコーチだった。

東京学芸大学への進学を勧めてくれたのも、その先生たちだった。

教育学部を選択したが、特別な理由はない。

陸上ができればいい、というのが大きかったかもしれない。

その背景には「自分が認められる場所=陸上」というのがあるからだ。

教師になってほしいという親の希望もあったが、自分はなりたくなかった。

子どもが苦手だったからだ。

「小さい頃は保育園の先生、小学校の先生になりたかったんですが、大人になるにつれてなりたくない職業に変わっていきました」

「子どもは『(男か女か)どっちなの?』って直球で聞いてくるから」

それに対して自分が変化球でしか返せないのがもどかしかった。

就職活動の時には両親から教師の道を勧められたが、自分はどうしても教師はやりたくなかった。

卒業したら教員免許が取れてしまう。

なおさら、教師になれと言われるんじゃないか。

ならいっそ、卒業前に大学を辞めてしまおうかと思い詰めたことさえあった。

05解放されたセクシュアリティ

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この体をやめたい

3歳からずっと短髪だったし、制服以外スカートは履かなかった。

容姿はまったく隠していなかったのだが、「誰が好きなの?」「どっちが好きなの?」というたぐいの問いはいつもはぐらかしてきた。

そんな自分を気遣って、周りの友人も恋愛の話を自分に振ってくることはなかった。

セクシュアリティの悩みは意識しないように生きてきたし、深く悩むことを避けていた。

きちんと向き合うことができていなかった。

本当は「この体をやめたい」

ずっとそう思ってきた。

この体には余計なものがついているのに、必要なものはない。

これが一番辛かった。

また、好きになる人は結局いつも女性。

この悩みは誰にも打ち明けられなかった。

部活の仲間などすごく仲のよい友人もいたが、弱みは見せたくなかった。

仲間に出会えた喜び

22歳の時、友達にバイセクシュアルだと打ち明けられた。

「その友達が『どっちも好きになる』と言うのを聞いて、もしかして自分の仲間?みたいな(笑)。すごくうれしかったです」

恋愛のことも含め、なんでも和気あいあいと話せる仲間が初めてできた。

その友人から、ゲイや自分と同じトランスジェンダーの友人を紹介してもらい、なんでも話せる仲間がどんどん増えていった。

また、当時通っていた専門学校では、先生や生徒も理解のある人が多くありがたかった。

自分のセクシュアリティをどんどんオープンにしていくことができたし、
女性と堂々と付き合うこともできた。

自分が心から解放された気がした。


<<<後編 2017/04/12/Wed>>>
INDEX

06 診断・治療、親へのカミングアウト
07 教師の仕事
08 これからの人生
09 誰もが自分らしく生きられるように
10 十人十色に輝いてもらいたい

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