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ゲイの僕がドキュメンタリーを撮るのは、誰かに “希望” を届けたいから【後編】

ゲイの僕がドキュメンタリーを撮るのは、誰かに “希望” を届けたいから【前編】はこちら

2024/07/21/Sun
Photo : Tomoki Suzuki Text : Ryosuke Aritak
松岡 弘明 / Hiroaki Matsuoka

1986年、奈良県生まれ。小学1年生で自身のセクシュアリティを自覚。大学院を卒業し、IT企業や映像制作会社に勤めた後、フリーランスで映像制作を開始。2020年にカミハグプロダクションを設立し、LGBTQ関連団体の映像制作やカミングアウトをテーマにした映像作品の制作を中心に行っている。

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INDEX
01 高齢の両親とテレビっ子の僕
02 小学1年生で気づいたゲイの自分
03 学業で抑え込んだ感情
04 海外に出て知ったLGBTQのオープンな生活
05 隠さなくていい「ゲイであること」
==================(後編)========================
06 初めてのカミングアウト
07 大切な人に告げないという選択
08 親に本当の自分を伝える理由
09 今の自分だからできるLGBTQの活動
10 “人生” を映像に残す仕事

06初めてのカミングアウト

友だちへの隠しごと

初めてカミングアウトしたのは、大学3年生の時。相手は、仲のいい男友だち。

その友だちとは、当時放送していたドラマ『ラスト・フレンズ』の話をよくしていた。登場人物の一人に、クィアなキャラクターが登場する作品だ。

「その中のエピソードで『誰しも隠しごとを抱えている』という話が出てきた時に、その友だちから『俺に隠してることとかある?』って聞かれたんです」

二人で遊んでいた時の何気ないひと言だった。

「先に彼のほうから、『俺、多汗症なんだよね』って、打ち明けてくれたんです」

「思ったより真面目な告白だったし、彼は当事者が出てくるドラマも見てるし、もしかしたらわかってくれるかもしれない、って思いました」

信号が赤になって立ち止まるたびに、自分がゲイであることを告げるか迷った。

「何回目かの赤信号で、思い切って『実はゲイやねん』って打ち明けたのが、最初のカミングアウトです」

見えていなかった壁

いざカミングアウトすると、友だちは「あの女の子が好きだって言ってたじゃん!?」と、驚いていた。

「リアクションが大きい子だったけど、僕のほうが驚くほどびっくりしてました」

「その日はそのまま別れて、家に帰ってから、距離を置かれるかもしれへん、って思いましたね」

翌日、学校で顔を合わせると、友だちは「お前のせいで晩飯食えなかったじゃねぇか(笑)」と、軽いノリで言ってくれた。

「ごはんが食べられなかったのは本当かもしれないけど、いつものノリで笑ってくれて、安心しました」

「それから、その子とはコイバナができるようになったんです」

彼から恋愛相談を受けた時は「女の子はこう思ってるんじゃない?」とアドバイスし、自分も正直に恋愛の話ができるようになった。

「隠すことを苦痛に感じたことはなかったけど、話してみたらラクになって、本当の仲間ができた感覚があったんです」

「こんなにも壁がなくなるなら、ほかの友だちにも言いたいな、って思って、ちょっとずつ伝えていきました」

カミングアウトして気づいた「最初の一歩」のライン

二番目にカミングアウトした友だちに対しては、絶対に受け入れてくれるだろう、と感じていた。

「だから、ゲイってこと以外にも、それまでの恋愛経験とか自分のフェチの話まで一気にしたんです。そしたらドン引きされて、気まずくなっちゃって(苦笑)」

「最初にカミングアウトした友だちにフォローしてもらったおかげで、関係を修復できました(笑)」

カミングアウトの解放感から、つい話しすぎてしまったが、相手のキャパシティを考えることも必要だと気づいた。

「ここまで言ったらあかん、ってラインを知って、まずはセクシュアリティだけ打ち明けよう、って考えるようになりました」

07大切な人に告げないという選択

好奇心を育ててくれた母

アクティブで知識欲の強い母は、自分にもさまざまなことを経験させてくれた。

「『教科書で見たゴッホの点描画が好き』と言うと、美術館に連れていってくれました」

「中学生の頃に二人でヒューストンのNASAのステーションに行った時、6000円くらいするユニフォームを欲しがったら、うれしそうに買ってくれました」

「塾に行きたい」と言えば、塾に通わせてくれて、「一人旅がしたい」と言えば、航空券を手配してくれた。

「子どもの知的好奇心を尊重して、応援してくれる人でした」

母は、自分が大学生になるのと同じタイミングで、二度目の大学受験に挑戦した。

「息子が大学に合格したら母としての役目は終わり、と思ってたらしくて、『好きなように生きるね』って話してました」

母は、働きながら夜間大学に通うというハードな日々を送っていた。

しなかったカミングアウト

友だちにカミングアウトして心が軽くなったため、両親にも話したい、と思うようになった。

「そのタイミングで、お母さんが末期がんと診断されたんです」

病気を抱えた母に、自分のセクシュアリティを打ち明けるべきか、悩んだ。

「たまに行っていたゲイバーのママに相談したら、『絶対話したらあかんよ。病気が余計悪くなる』って言われて、確かにそうやなって」

「カミングアウトしたことで病状が悪化したら、僕が死なせてしまった、って思ってしまいそうだから、言わない選択をしました」

母は、大学で仲良くなった女の子を病室に呼び、「仲良くしたら?」と紹介してきた。

「僕と同世代の女の子でした。お母さんは恋人がいるところが見たいのかな、って思うと、余計に僕も自分がゲイだとは話せなくて・・・・・・」

その年の暮れに、母はこの世を去った。

残してしまった壁

「お母さんが亡くなった当時は、カミングアウトしなかったのは最善の選択だと思ってました」

しかし、日が経つにつれて、違う選択肢もあったのではないかと思うようになる。

「お母さんが亡くなる前日、僕にハグをしてくれたんです」

「その翌日、お父さんにもハグをしていました。その力加減とか『大好き』って言葉が、僕の時より強く感じたんです」

父は、母との最後の時間を大切にするように懸命に看病していたため、絆がより強くなっていたのかもしれない。

一方、自分はカミングアウトできず、大きな壁を残したまま、母と別れた。

「お母さんともっと話せたはずやのに、って虚しさと後悔の念が押し寄せてきました」

08親に本当の自分を伝える理由

父にカミングアウトするタイミング

大学卒業後は、東京大学大学院に進み、上京した。

地元の関西を離れ、東京で行きつけのゲイバーを見つけ、東京レインボーパレードにもスタッフとして関わり始める。

「東京に居場所ができたタイミングで、お父さんが元気なうちにセクシュアリティの話をしよう、って思ってたんです」

「東京に居場所があれば、仮にお父さんから勘当されるようなことがあっても、大丈夫かなって」

父が東京に遊びに来た時に、ゲイだとカミングアウトした。

「『認めへん、勘当や』みたいなことは言われなかったけど、『俺が父親としての役割を果たせてなかったからか?』って、ショックを受けてましたね」

父と顔を合わせるたびに、「自分は幸せに生きている」「友だちにも恵まれている」「LGBTQの活動もしている」と話し、育て方の問題ではないことを伝え続けた。

「その頃からメディアでLGBTQが取り上げられる機会が増えて、お父さんも情報を集めるようになったみたいです」

父はLGBTQ関連の新聞記事を切り抜き、「こういう記事があったぞ」と連絡してくるようになった。

「お父さんに話した時、根底にあったのは、ウソをついた状態でお別れしたくない、という想いでした」

「お父さんも、息子にウソをつかれて、陰でこそこそされるのがイヤみたいなんですよね」

「その価値観が2人の間で共通していたから、歩み寄れたのかな、って感じます」

心配してくれる人

母が亡くなってから、父と2人で旅行に行くようになった。

カミングアウトしてからは、素直な気持ちを話せるようになった気がする。

「お父さんなりの考えがあるのか、『子どもに興味はあるのか?』『レズビアンの人と協力したらええんちゃうか』とか、言ってくるんですよ(笑)」

「僕も先のことは考えてるんで、つい『うるさいな』って返して、ケンカになっちゃうんですけどね(笑)」

いつも言い合いになってしまうが、父の言葉からは、自分を心配してくれている気持ちが伝わってくる。

「一人で生きていけるのか、男同士でやっていけるのか、って心配で、口うるさくなっちゃうんだろうなと思います」

「離れて暮らしてるので、たまに電話すると、喜んでますね(笑)」

09今の自分だからできるLGBTQの活動

映像制作の仕事

大学院を卒業し、IT企業に就職したが、仕事に興味を持てずに3年で退職した。

「テレビっ子だったこともあり、もともと映像制作の仕事がしたかったので、映像制作会社に転職しました」

制作会社のハードスケジュールについていけず、退職を考え始めた頃、あるYouTuberと出会う。

「その人に映像編集を教えてもらって、実践してみたら、思いのほかスムーズにできたんです」

「かつて好きだった番組をイメージしながら、テロップやBGMを入れたら、思い描いたものができて、これを仕事にできるかもなって」

制作会社を辞め、フリーランスで映像制作を始めた。

「いろんな業界の映像制作を請け負う中で、LGBTQ関連の映像制作が一番熱を込められるな、って感じてます」

LGBTQの認知を広める活動

上京してからは、学業や仕事に励みながら、東京レインボーパレードの運営にも携わった。

「大学生の時にエンパワーメントされたパレードの団体に所属できて、高揚感でいっぱいでしたね」

「会社員の頃は、ちょうどパレードに協賛企業がつき始めた時期だったんです」

東京都渋谷区のパートナーシップ制度ができたタイミングで、ムーブメントが起きつつあった。

「時代が動く時期に活動に参加して、変化を体感させてもらって、ワクワクしましたね」

LGBTQ当事者の相談に乗れる場所

もうひとつ、大切にしていた活動がある。

「プライドハウス東京レガシーの立ち上げに関われたことは、本当に良かった、と思ってます」

プライドハウス東京レガシーは、LGBTQに関する情報発信や当事者の交流、相談支援を行っている施設だ。

「お母さんにカミングアウトするか悩んでいた時、プライドハウスのように相談できるところがあったら違ったのかな、って思うんです」

「カミングアウトする前も、した後も話を聞いてもらえる場所があったら、納得のいく選択ができたのかなって」

プライドハウス東京レガシーを立ち上げる話を聞いた時に、自分も関わりたい、と思った。

「当事者が相談できる空間になっていっている様子を見ると、携われてありがたいな、って思います」

10 “人生” を映像に残す仕事

新たなチャレンジ

2020年12月、映像制作会社カミハグプロダクションを立ち上げた。

「会社といっても社員は僕だけですが、法人化することで心機一転して、気合を入れ直そうかなと」

法人化一発目の新たなチャレンジとして、映画制作に踏み出した。

「自分の身ひとつでできるものと考えて、ドキュメンタリー映画の制作を始めたんです」

30代後半に入ってからのチャレンジに、尻込みすることはない。

「両親が30代後半で予備校に通い、40歳を過ぎて再び社会人になる姿を見てたから、今の自分でもやれるな、って思えるのかもしれないですね」

映像に残したかった想い

初めてのドキュメンタリー映画は、『沖縄カミングアウト物語』。テーマは、カミングアウトだ。

「お母さんが亡くなった時の経験から、カミングアウトについて考えるようになったんです」

いろいろな人のカミングアウトの経験を取材し、YouTubeにアップしてきた。

「映画にも出てもらった新宿二丁目ゲイバー『九州男』の店主のかつきママに取材した時、『両親との対話を通じて、今は一番いい関係を築いてる』って話してたんです」

「過去には戻れないけど、僕もお母さんに打ち明けた上で対話を重ねれば、つながれたのかな、って感じて前を向けました」

同じように親子の関係で悩んでいる人にとって、かつきママの経験は希望になると感じ、映像に残すために動き出した。

制作された映画『沖縄カミングアウト物語』は、沖縄国際映画祭をはじめ、さまざまな映画祭に選出され、賞も獲得した。

現在は、2作目のドキュメンタリー映画の制作を進めている。

「日本初のプライドパレードを開催した南定四郎さんにフォーカスして、LGBTQを取り巻く歴史も見えるような作品にしようと考えてます」

「見てくれた人が、自分だったらどうするかな、と考えられるような映画にできたらいいなと」

カミングアウトは選択肢のひとつ

映像制作を通じて、さまざまな人のカミングアウトに触れてきた。

「僕はお母さんにカミングアウトできなかった分、『生きているうちに言ったほうがいい』って思っちゃうところがあります」

「ただ、カミングアウトするのが正しい、と言ってしまうのは違うと思うんです」

「正しい」と表現してしまうと、カミングアウトしない人、できない人を否定することになるから。

異なる考えの人が歩み寄ることが大切であり、分断や二極化を生みたいわけではない。

「そして、カミングアウトもまた、歩み寄るためのプロセスになると感じてます」

「その告白がきっかけで対話が生まれ、セクシュアリティを超えて歩み寄れる関係があるんですよね」

カミングアウトするかしないか、ではなく、カミングアウトという選択肢があると知っていてほしい。

選択してもいいし、しなくてもいい。

それぞれがそれぞれの道を選べるように、今を生きる人のストーリーを届け、選択肢を増やしていくのが僕の仕事。

 

あとがき
みんなでよく笑った取材だった。弘明さんは朗らか。どの時代の話しにも、明るい方向をむいて歩く弘明さんがいた。悲しい場面もそのままには刻まず、意味のあるなにかを見つけられる人なのだと思った■テレビっ子だった少年は、いま監督として人生を映像に残している。映画の登場人物は未来の私たちかもしれないし、あのときの私たちかもしれない。悔いも哀しみも、共感も疑問も、弘明さんは誰の自由も制限しない。観る人それぞれに委ねるだろう。(編集部)

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