02 両親が教えてくれたこと
03 ベーシストとしてMVPを受賞
04 恐怖心とコンプレックスと
05 アライと呼ばれることへの違和感
==================(後編)========================
06 世界を一周して自分を信じられた
07 就職、独立、結婚、出産、そして離婚
08 トランスジェンダー男性との出会い
09 戸籍の性別変更後は3人で家族になる
10 傷ついている人たちをケアしたい
01誰からも愛される “最強の姉”
姉と比較して自己肯定感が低かった
生まれは長野県上田市。
父と母と2つ歳上の姉の4人家族で育った。
「ちっちゃい頃は、姉の真似ばかりしていて仲よかったんですが、思春期からかな、すごく仲が悪いときもありました」
「仲が悪くなった原因は、特にはないんですが・・・・・・」
「姉がすごい明るくて、どこに行っても注目されていたというか、とにかく人気者で・・・・・・。そんな姉と自分を勝手に比較して、自己肯定感がめっちゃ下がっていたんだと思います」
姉妹の仲が再びよくなっていったのは、ふたりが上京してから。
先に上京していた姉の住まいで同居を始めてからのことだ。
「旅に出かけたりして出ていっても、帰ってきたときは転がり込ませてくれたりして、助けてくれました」
「人生の転機といえるときには、必ず力になってくれたし、親に言えないようなことでも相談できて、いつも味方でいてくれたし・・・・・・」
「大人になってからは、もうお姉ちゃん大好きっていうか、私にとって “最強の姉” だと思ってます」
一緒に過去と向き合い、感謝を伝えた
姉との関係性の回復には、不思議な偶然もあった。
「自分の内面に向き合って “人生脚本” を書き換えていく・・・・・・みたいな主旨の、自己啓発のセミナーに申し込んだことがあったんですよ」
「実は、いまのパートナー(トランスジェンダー男性)と出会ったのも、そのセミナーだったんですけど(笑)」
「そこに、開催1カ月前くらいで姉も申し込んだんです」
お互いに、参加することは伝えていなかったので、まったくの偶然だった。
「姉とのことも含めて自分の内面に向き合いたいと思っていたので、姉妹で一緒に参加するのはやめたほうがいいかなとも考えました」
「でも、事務局とも相談して、偶然ではあるけれども、これはなにか意味があることかもと理解して、一緒に参加することにしたんです」
結果としては、姉妹で参加したからこその成果もあった。
「一緒に過去と向き合って、『あのとき、こうだったよね』『あのとき、こんな気持ちだった』と分かち合うことができて、姉と比較して自己肯定感が下がったということも言えて、その上で『感謝してる』とも伝えられたので、それはとてもよかったなと思ってます」
「いま姉は、曲をリリースしたり、ライバーとしてがんばってます」
「めちゃめちゃ仲いいですよ(笑)」
02両親が教えてくれたこと
誰にでも得意と不得意がある
「勉強は自分の可能性を広げるためにすることだよ、というのは父が言ってくれたことなんですが、そういう “人として大事なこと” というか、本質的なことは、両親ともに教えてくれてたと思います」
母は笑い上戸で感情豊かな人で、父は頑固で寡黙な人。
まるで性格は違っていたが、大切にしていることは似ていたともいえる。
「母が言ってたことでよく覚えているのは、人の能力を多角形上に表すレーダーチャートの話です」
「障がいの有無にかかわらず、人は誰でも得意なものと不得意なものがあって、チャート上では得意なものが出っ張って、不得意なものは凹んでいる」
どうしても凹んでいるところばかりを見てしまいがちだが、凹んでいるところがあれば、出っ張っているところも必ずあるはずだ。
「それらの点を線で結んでみると、すべての線をつなげた長さはみんな同じくらいになるんだそうです」
「そういう考えが根底にあるからなんですかね・・・・・・両親に現在のパートナーを紹介したときに、性同一性障害であり、トランスジェンダー男性だということを伝えたんですが、『いままで周りにトランスジェンダーの人はいなかったし、よく知らないけれども、重要なのは男や女などの性別ではなく、その人の人間性だと思ってる』というようなことを言ってました」
「最終的には『英恵が選んだ人だから』と受け入れてくれましたね」
感情を抑えずに出せることも才能
子どもの頃に聞いた “親の教え” の本当の意味に気づいたのは、大人になってから。
中高生の頃は親の言葉に反発することも多かった。
「母は、ヒステリックに怒るときもあれば、テレビドラマを見てぽろぽろ泣くときもあって、子どもだった私から見ても『子どもだなぁ』と呆れるくらいだったんです」
バンド活動に明け暮れていた高校生の頃は、ライブに行って帰宅が遅くなってしまうこともあり、そのたびに心配した母に叱られた。
「私が部屋にいると、ダンダンダンダンッて階段を上がってくる母の足音が聞こえるんですよ(笑)」
「そしたら私はドアの前に椅子を置いて、それを足で押さえて母が入ってこられないようにしたりしてました」
「母とケンカするときはもう、噛みつき合うくらいの激しいケンカになっていましたね・・・・・・(苦笑)」
しかし大人になって、母のそうした「自分の感情を抑えずに、ちゃんと出せる」ということも、ある意味、すごい才能なのだと思えた。
「本当に素直な人なんだなって」
03ベーシストとしてMVPを受賞
高校からはバンドを
幼い頃から音楽が好きだった。
「歌を褒めてもらえることも多かったですし、学校で合唱するときはピアノで伴奏をさせてもらってました」
ピアノは、先に姉が同じ先生に習っていた。
「当時のことを話すと、姉は怒られることも多くてつまんなかったと言ってたんですが、私は割とのびのびと弾かせてもらっていたみたいで、楽しかったですね」
中学生からはベースを弾きたい気持ちが強くなっていった。
「本格的にベースを始めたのは高校生になってからです」
実は、中学生の頃から憧れているバンドマンがおり、彼らのようにバンドをやりたくて、軽音部に力を入れている高校に入学したのだ。
将来は、音楽の道に進もうと思っていた。
「軽音部に入って、当時流行ってたバンドのコピーをしたり、ちゃんと大会にでたりして、もう勉強そっちのけでバンドやってました(笑)」
しかし高校3年になり、将来を見据えて進路を考えたとき、音楽を仕事にするという気持ちが揺らいでくる。
自分を信じなかったことを後悔
音楽で食べていくとなると、音楽がプレッシャーになってしまうのでは。
楽しめなくなってしまうかもしれない。
そんな不安が湧いた。
「それで・・・・・・早々に、音楽ではなくヘアメイクの専門学校に行くことを決めちゃったんですよね・・・・・・」
「で、そのあとの高3の夏の大会で、MVPをいただいてたんですよ、出演した全プレイヤーのなかでの受賞で・・・・・・うれしくて」
「だからこそ、自分を信じて音楽の道に進まなかったことを、それから何年間か、しばらく引きずってましたね(苦笑)」
その後、東京の専門学校を卒業し、就職してからもバンド活動を続けていたが、長野に帰ったあとは音楽の道からは遠のいている。
「歌うのは好きで、カラオケとかは行くんですけど(笑)」
「やっぱりバンドはひとりじゃできないですしね」
「それでも、いまもベースは好きです」
04恐怖心とコンプレックスと
自分なんかに好かれても迷惑だろう
歌うことは好き。
だけど自分の声は嫌いだった。
「学校で合唱するときはいつもソプラノで。そのソプラノのなかでも自分の声はいちばん高くて。もうとにかく高くて」
「しかも、以前は蓄膿症もあって、しゃべり方を真似されたりもして、すごいイヤでした。録音された自分の声を聞くのも苦痛で」
「昔はすごいコンプレックスでした」
声に対して向き合い、変えていこうと努力を始めたのは整体師になってから。
「やはり、先生という立場でお客様と関わるので、信頼してお任せいただけるためには、体のことを説明するときにも、低く、落ち着いた声で、お話しなければと思って、そう心がけるようにしました」
「勤めていた整体院の研修所でも、声のトーンを下げるとか、語尾を上げないとか、いろいろアドバイスをもらいました」
いまでこそ克服できている部分は大きいが、思えば、コンプレックスや自己肯定感の低さは思春期に色濃く表れていた。
「中学1年生のときに初めて好きになった人がいたんですが、その人がお姉ちゃんのことを『かわいい』って言ったのを聞いたりとかして、自分なんかに好かれても迷惑だろうな、とか思ってしまって」
「でも、卒業前に気持ちだけは伝えようと思って告白したんです」
「そしたら、なんか付き合うことになったんですけど・・・・・・好きかどうかわかんなくなって、そんな中途半端な気持ちで付き合ってたら申し訳ないとか、別れたほうが相手のためだとか、そういう思考になっちゃって」
「2カ月ほどで、自分からお別れしてしまいました」
パニック障害は “欠陥”
5歳の頃からは、死に対する恐怖心から発作を起こすこともあった。
「夜、ひとりでいると突然パニックになってしまうことがあって」
「ひどかったのは16歳くらいのときかな・・・・・・。近所のお姉さんが亡くなってしまい、ショックを受けて、ひとりでお風呂に入っていたら、わあぁってなっちゃって、自分で呼吸ができなくなって・・・・・・」
「そのとき私が叫んでたらしくて、母が駆けつけてくれて落ち着いたみたいなんですが、とにかく、死を考えると怖くて仕方がなくなるんです」
死ぬ瞬間が怖い。
死んだら魂はどうなるの?
自分の存在そのものがなくなってしまうの?
誰もがいつかは死ぬのに、自分だけ、なぜこんなにも怖いんだろう。
「そんなふうに死を異常に怖がる自分は、どこかおかしいんだろうなと思ってました。その恐怖からくるパニック障がいも、自分の “欠陥” だと捉えていて、自分のそういう部分を隠したいという気持ちもあったんです」
しかし、自己啓発セミナーを受けて変わった。
「死ぬことを怖がりすぎず、どう生きるか、いま何をするか、というところにフォーカスして、本当に自分らしさを輝かせながら、死ぬ瞬間には自分の人生に感動して死ねたらいいなって、思えるようになりました」
05アライと呼ばれることへの違和感
パートナーがトランスジェンダーだと言えない?
振り返ると、ヘアメイクの専門学校にもLGBTQ当事者はいた。
ゲイもレズビアンも、バイセクシュアルも、トランスジェンダーも、Xジェンダーも。
「学校内で付き合っている子たちもいたんですが『ふーん、そうなんだね』って感じで、当時からなんとも思わなかったんです」
「だからこそ私は、パートナーがトランスジェンダーだってことを、抵抗なく周りに言えてしまうんですが、パートナーの周りの人に話を聞くと、『付き合っている相手がトランスジェンダーだってことは親に言えない』とか、そこにハードルを感じている人がいらっしゃることを知りました」
「私の考えが浅いのかもしれないんですが・・・・・・アライという言葉もしっくりこなくて」
LGBTERのインタビューでは、読者が自分と近いジェンダー・セクシュアリティの人の記事を見つけやすいように、記事をカテゴライズしている。
今回は、LGBTQ当事者ではなく、LGBTQ当事者のパートナーであることからアライにカテゴライズされる予定だ。
どうしてわざわざアライと?
アライとは、LGBTQ当事者を理解し、支援している人を指す。
「性別だけでなく、国籍、人種、障がい、宗教など、いろんなマイノリティに対して理解を示し、支援している人はいると思うのに、LGBTQに対するアライのように、その人たちを呼ぶ言葉は存在しないと思うんです」
「私は、LGBTQとか、性同一性障害とか、トランスジェンダーとかに対して理解しているとか、支援しているとか、そういうことではなく、ただただ、自分が好きになった人がトランスジェンダーだった、ってだけで」
「なので、私はアライなのかどうなのかってなると、アライなのだと思うんですが、なんというか、違和感というか、不思議な感じがあります」
そもそも、誰しも不得意なものがある。
その不得意なものが「障がい」と名のつくこともある。
「みんな、そうした不得意なものをもちながら、お互いに受け入れあってこその社会なのに、どうしてわざわざアライって言葉があるんだろう?」
「好きになった相手のことは、不得意なものも含めて愛したい」
「私だってパニック障害がありますしね」
<<<後編 2025/06/11/Wed>>>
INDEX
06 世界を一周して自分を信じられた
07 就職、独立、結婚、出産、そして離婚
08 トランスジェンダー男性との出会い
09 戸籍の性別変更後は3人で家族になる
10 傷ついている人たちをケアしたい