02 言語ヤングケアラー
03 名前が嫌いだった
04 ソフトテニスに熱中
05 アイデンティティ・クライシス
==================(後編)========================
06 身も心も暗黒時代
07 上海「逆」留学
08 外国人差別への怒り
09 なんでこの仕事をしているのか・・・
10 LGBTQのこともほかの社会課題も、走っていたら仲間が増えた
06身も心も暗黒時代
答えを探し求めて
日本に戻ってからは、本を読み漁った。
「自分と同じ境遇の人がいなくてだれにも相談できないし、SNSもなかったから、本に頼るしかなかったんです。ニーチェや、在日韓国人2世の孫正義さんの本とかを読んでましたね」
大学に進学すると、ファッションサークルに入る。
「文化服装学院とのインカレサークルで、ファッションショーをやったりしてました」
当時着ている服は黒ばかりだった。
「だんだん世の中を斜めに見るようになっていったことと(苦笑)、サークル内でヨウジヤマモトとかのブラックファッションが流行ってたこともあったんですけど、なんか黒い服を着てると当時は気分が落ち着いたんですよね」
「外では大学生活を楽しんでるんだけど、一人になったときにメンタルがどん底に落ち込んで、また哲学書を読んで・・・・・・の繰り返しでした」
自分のアイデンティティを見失い、心理的にも服装的にもあのころは「暗黒時代」だったと思っている。
親友の存在
自分探しのため、大学3年生のときに、華中最高峰の国立大学である復旦大学への留学を決める。
「復旦大学は上海にあるので、出身地の大学に行く “逆留学” でした」
日本には自分と同じような境遇にいる人はいない、自分は独りぼっちだと思い込み、だれかに相談することはそれまでなかったが、留学前に親友に話すことにした。
「実は自分が何者かわからなくて、それを探しに留学することにした、って伝えました」
日本人である友人は、自分を理解しようと努力してくれた、と感じた。
「その子は留学中に上海まで会いに来てくれました」
07上海「逆」留学
アイデンティティは自分で決めるもの
復旦大学には、中国にルーツを持つ学生が世界各国から集まっていた。
中国人の両親を持つ沖縄出身という学生とは、似た境遇ということもあり、よく話すようになる。
「その子は帰化してたので国籍は日本なんですけど、親の価値観がかなり中国寄りで、親との関係で悩んでましたね」
海外と中国にルーツを持つ大学生同士、自分のアイデンティティについて話す機会も度々あった。
米ハーバード大学から来ていた華僑の学生は「自分のことを何人だと思っているか?」という質問に対し、迷うことなく “I’m an American.” と即答した。
「自分が何人かってことは、自分で決めることでしょう!? って」
移民の国・アメリカで幼いころから生活を送り、永住権であるグリーンカードを所有しているという自信もあるだろう。
「沖縄の子と、『自分のことを日本人だって言える!?』『いやいや、言えないよね』って言い合いました」
上海への逆留学でさまざまな価値観に触れて、自分の考え方を客観視できるようになった。
「それまで私は周りの目を気にして、相手からどう思われるかっていう他人軸で考えてたんだな、って」
それでも「日本人だ」とはやっぱり言い切れないので、「地球系アジア人」と考えることにした。
思いがけないカミングアウト
ルームメイトも個性的だった。
「スペインから来た子は、本当にすごくスペイン人っぽくて。夕食の時間は遅めだし、サングリアを作るし(笑)」
もう一人のルームメイトは、香港から来た名家の子だった。
「いつもパンツスタイルで、ジャケットを羽織ったり、ボーイッシュな子だな~と思ってました」
一緒に生活を初めて2、3カ月目のころ、香港のルームメイトから「『Lの世界』って知ってる?」と聞かれた。
レズビアンをテーマにした、言わずと知れた有名ドラマだ。
「知らない、って答えたら、じゃあ一緒に観よう、ということになって」
サングリアを飲みながら鑑賞していると、香港のルームメイトが「私、女の子が好きなんだよね」と、さらりとカミングアウトした。
「そうなんだね、って答えました。ただ、そのあとに向こうから『あなたはタイプじゃない』と言われましたけど(苦笑)」
「普段一緒に過ごしてるなかで、このルームメイトになら打ち明けてもいいかな、って思ってもらえたんだと思います」
そのあとも、『Lの世界』鑑賞会がしばしば開催された。
意見を言えるように
1年間の留学を経て日本に帰国すると、日本の友人から「日本人っぽくなくなったね」と言われた。
「それまでは、たまに『こうしたほうがいいよね』って言うことはあっても、周りの空気を読んでみながら自分の意見はあまり言わなかったんです」
留学先で中国をはじめとするさまざまな価値観に触れて、単刀直入に意見する癖がついたのだ。
「そこからニュートラルになって、いまはバランスが取れるようになりました」
留学してよかった、と心底思っている。
「外の世界を知ることって大事だな、って。それまでは自分の視野が狭かったけど、いろんな価値観の人が世の中にはいて、自分もこれでいいよね、って思えるようになりました」
人との出会いを通じて、自分のありのままの姿を見つけることができた。
08外国人差別への怒り
日本在留暦ゼロ!?
留学から戻ってきて就職活動を始めるにあたり、日本に帰化しようと考えた。
「中国籍のまま就活しても、外国人差別に遭って就職できないだろうな、と思ったんです」
でも、当時住んでいた埼玉県庁に相談しに行くと、想定外の対応を受ける。
「県庁の職員に『龔さん、1年ほど外国に行かれていましたか?』って聞かれたんです。『1年間ほど外国で暮らすと、日本での在留暦がゼロになるので、申請できません』って言われたんです・・・・・・」
たしかに直近1年は中国に留学していたけれど、5歳からずっと日本で育ってきたのに・・・・・・・。
「『龔軼群』の名前で、中国人として就職活動しなきゃいけないんだ、って途方にくれました」
中国人お断り
これまでの身分のまま就職活動を始めると、やはり壁にぶつかることとなった。
「最初は日本と中国をつなぐ貿易をしたいからっていう理由で、総合商社を希望してたんですけど、全部落ちました」
「就職エージェントにも登録したんですけど『中国のかたに紹介できる案件はありません』って言われたんです」
自分の就活と並行して、日本に留学中のいとこが寮を出て一人暮らしをするために、家探しのサポートをすることになったのだが・・・・・・。
「先々の不動産会社で、中国人ダメ、留学生ダメって言われたんです」
物件オーナーへの交渉など、外国人が入居できる物件を探すためのコストがかかるから、という理由だった。
「帰化申請ができなかったこと、就活や家探しでの外国人差別が重なって、あのときは怒り狂ってました(笑)」
09なんでこの仕事をしているのか・・・
最終面接でプレゼン
外国籍が差別の対象になると、新卒特化の就職エージェントに直近の不満を打ち明けた。
「不動産業界の『不』を変える、っていうネクストっていう会社(現 株式会社LIFULL)があるよ、って紹介してもらったんです。不動産業界を変えたいって、いままさに私、不動産業界に怒ってるんだけど!! って(笑)」
追加で新卒を採用することになったというので、とりあえず人事部担当者と面会した。
「いとこの家探しの件を話したら、『それ、おかしいね』って言ってくれたんです」
ただ、当時は外国人が家を探す際に差別される、という問題がまだ認知されていなかったのだ。
「入居審査で断られることって恥ずかしいから、だれにも打ち明けない。だから知られづらい問題だったんです」
会社からは「あなたが経験したことは事実だが、実際に外国人差別が行われているのか?」と問われた。
「負けず嫌いだから、本当だし! って思って、地元・川口市の不動産会社10件くらいを調査したんです」
だんだんと入社意欲が高まり、最終面接では当時の社長(現会長)に、調査結果をベースにしたプレゼンを披露した。
「国として『留学生30万人計画』を進めているのに、不動産業界は留学生を受け入れていない。私は外国人の住まいサポート事業をやりたいから、御社に入りたいです、って伝えたんです」
社長から「そんなに変えたいなら、不動産会社に入れば?」と返されても、一歩も譲らなかった。
「不動産会社に入っても、目の前のお客様しか助けられない。影響範囲は限られてる。不動産会社とのネットワークを持ってる御社を通じて業界全体を変えなければ意味がない!! って答えました(笑)」
社長相手に持論を堂々と展開する姿勢が面白がられ、内定が決まった。
まずは修行
内定を得たあと、入社前から社内の経営塾に半年間参加して、早速事業プランを練り始めた。
「入社したその月に、社内の新規事業提案制度『SWITCH』で優秀賞をとって、事業化することになったんです!」
でも、右も左も分からない新入社員にいきなり新規事業が任されるわけもなく、事業プランは別部署に委託することになり、私は営業職に配属された。
「一日何十件も電話したり、街を一日中回って不動産会社に飛び込み営業したこともありました」
でも、営業職として4年間働いているうちに、当初のプランから多少形を変えてスタートした英語・中国語対応サービスが終了することに。
「私はいったい何のために修行してたのか? って・・・・・・。正直、転職も考えました」
営業職のままでは入社時にやりたかったことを実現できない、と企画職に転属を希望。
「当時、企画職には新卒社員はいなかったんですけど、営業で成績を出してたので希望が通りました!」
実現までの道のり
企画職としてアプリ開発に2年間従事したあと、いよいよ国際事業部へ。
「当時は『ボーダーレスな住まい探し』を掲げてました。外国人が日本で家探しをするときだけじゃなくて、日本人が外国で住まい探しするときも差別に遭わずに済むといいよね、って」
2年ほど事業を育てたが、利益よりコストのほうが上回ってしまい、M&Aのほうが効率がよい、ということで事業撤退が決定。
「なんでまだこの会社にいるんだっけ? もう辞めようかな? ってまた考えました(笑)」
でも、捨てる神あれば拾う神あり。
「当時のボスが、私が新卒のときの上長でもあって、私がやりたかったことをなかなか実現できないでいる姿を、ずっと見守ってくれていたんです」
もう一度チャレンジしてみなよ! と背中を押され、事業撤退の作業期間中、私は再び新規事業立案に専念することになった。
「2018年ごろは、大手をはじめとして外国人対応の不動産会社が増えつつあったんですけど、ポータルサイトで検索できない状況だったんです。それってビジネスチャンス逃してますよね? って」
見事、新規事業提案制度「SWITCH」で再び優秀賞をとり、事業化が決定した。
10 LGBTQのこともほかの社会課題も、走っていたら仲間が増えた
いろんな人が住まい探しで困っている!
紆余曲折を経て外国人の住まい探しサポート事業がスタートしたが、利益率が芳しくなく一旦ストップがかかった際に、あるNPOと出会う。
「生活困窮者をサポートしている認定NPO法人自立生活サポートセンター・もやいさんから、生活困窮者も住まい探しで困ってるんです、って聞いて」
高齢者やお金に余裕のない生活困窮者も、入居を断られるケースが多いと知った。
そのNPO法人から「生活困窮者に理解のある不動産会社のリストが欲しい」と言われ、目から鱗が落ちる。
「そういえば、いとこの家を探してたときも、相談できる不動産会社が最初からわかっていれば嫌な思いをせずに済んだな、って」
ただの事業ではなく社会貢献活動と社内で認められ、新たな予算を確保してLIFULL HOME’S「FRIENDLY DOOR」として再スタートを切った。
LGBTQ当事者の住まい探し
現在、「FRIENDLY DOOR」では9つのカテゴリーでサービスを展開している。そのなかには「LGBTQフレンドリー」も含まれている。
「2019年からLIFULLのオウンドメディア『LIFULL STORIES』が立ち上がったんですけど、そこでLGBTQ当事者向けの不動産仲介サービスを提供している株式会社IRISのトップ、須藤啓光さんの取材記事を読んだんです」
それまでは「同性カップルだから」というだけで入居が断られる現実を知らなかった。
「一緒にやりませんか? ってお声がけして『LGBTQフレンドリー』が追加されました」
そうやってさまざまな人と出会ううちに、住まい探しの困難を抱える「住宅弱者」のカテゴリーが増えていった。
「自分ではどうすることもできないことで住まいの選択肢が限られる、ってことに課題を感じてます」
すべての経験がいまにつながっている
私自身が「中国人だから」と差別されてきたからこそ、強く思うことがある。
「フィルターを通して人を判断したくない。その人のありのままの姿、内面を受け止めたいんです」
仕事以外の時間で、認定NPO法人Living in Peaceの活動にも携わっている。
「自分ではどうすることもできない境遇とか、社会的なフィルターによってしんどい思いをしている人の力になりたいと思って・・・・・・」
仕事やNPOでの活動でアクティブな毎日を送っているが、リフレッシュする時間も大切にしている。
「小学生から始めた書道は、いまでも続けてます。書に向き合ってると心が無になって、終わったときには集中したあとの心地よい疲労感が残るんです」
自分が責任者を務める「FRIENDLY DOOR」はあくまで事業であって、ボランティア活動ではない。事業を継続していくには利益率もシビアに求められる。これからもさまざまな困難が待ち受けているだろう。
「昔は、ビジネスは『ライス』ワーク、NPO法人での活動をライフワークって言ってたときもあったんですけど(笑)、いまは両方ともライフワークです!」