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LGBTQ当事者を含めた「住宅弱者」をゼロに【前編】

仕事やNPOの活動で多忙な毎日を送る龔 軼群(キョウ・イグン)さん。「今度の週末は友人のLIVEを観に、広州へ行きます」とアクティブだ。カラフルな服をまとって取材現場に現れたが、自分のアイデンティティを見失っていたころには、黒い服ばかりを着ていたと笑う。自分探しを経て、現在の仕事につながるまでを語ってもらった。

2025/02/27/Thu
Photo : Tomoki Suzuki Text : Hikari Katano
龔 軼群(キョウ・イグン) / Gong Yiqun

1986年、中国・上海市生まれ。5歳から生活拠点を日本に移した。日本語を学び、学校生活も楽しんでいたが、高校時代に自分が何者かわからなくなる。外国人差別を受けた経験から、大学卒業後は株式会社ネクスト(現 株式会社LIFULL)に就職。現在、同企業が運営する住宅弱者向け不動産会社検索サービスLIFULL HOME'S「FRIENDLY DOOR」の事業責任者を務めている。

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INDEX
01 慣れない日本での生活
02 言語ヤングケアラー
03 名前が嫌いだった
04 ソフトテニスに熱中
05 アイデンティティ・クライシス
==================(後編)========================
06 身も心も暗黒時代
07 上海「逆」留学
08 外国人差別への怒り
09 なんでこの仕事をしているのか・・・
10 LGBTQのこともほかの社会課題も、走っていたら仲間が増えた

01慣れない日本での生活

上海生まれ、日本育ち

中国・上海市生まれだが、幼少期に中国で過ごした記憶はほとんどない。

「一人っ子政策の真っ只中だったので、兄弟はいません」

「私が1歳のときに父が日本に留学して、ほどなくして母も日本に渡りました。私が5歳のときに、両親に呼び寄せられるかたちで日本に来ました」

両親と離れて暮らしている間は、祖父母が私の面倒をみてくれていた。

「上海の幼稚園に通ってた時期もあったんですけど、写真を見せられても『こういうときもあったんだぁ』って思うくらいで、記憶はあまりないですね」

「両親と暮らすようになっても、それまでの愛着形成がちゃんとできてなかったからか、当初は親との距離感が難しい子だったみたいです」

とことん打ち込む父

令和の現在では、日本に留学したり、働きに来たりする外国人は少なくない。でも、父が日本に留学したころは珍しい存在だった。

「1972年に日中国交正常化が発表されてから、日中の交流を深める機運が高まってたこともあって、父は日本語を学んでたんです」

中国から日本へ留学生が派遣されることになった際、父はすでに就職していたが留学が決まった。

「いまは親戚の半分くらいが日本で暮らしてますけど、最初に日本に来たのは父でした」

父が成し遂げたことはそれだけではない。

「父が日本に来た1990年代初めころから、インターネットやパソコンが一般人向けにも普及し始めて、父はプログラミング言語を独学で学んだり、パソコンを自分で作ったりしてました」

最終的に、日本で起業を果たした。そんな父の開拓者精神は、社内で事業を立ち上げてけん引している私にも重なる部分がある。

芯の強い母

母は忍耐力の強い人だ。

「日本に中国人が住んでることが珍しい時代に、父と一緒に来日するという選択をしただけでも、すごい覚悟だと思います」

父が起業してから、両親は二人三脚で会社を経営してきた。その精神力は、混乱期の中国で苦労を乗り越えた経験があったからかもしれない。

「母は昔、文化大革命(大躍進政策)のために農村に送られて、7年間も農業に従事してたそうです」

普段はおおらかであまり主張しないほうだが、時には「この場合はこうするべき」と、しっかり意見するときもある。

「でも最近になって、母はよく笑うようになりました(笑)」

02言語ヤングケアラー

輝いて見えた百貨店

実は、日本に来て間もないうちは、中国に戻る選択肢もあったのかもしれない。

「日本に来たばっかりのころ『ここにいたい?』って親から聞かれたことがあったんです」

そのときの私は「いたい!」と答えた。

その理由は、当時住んでいた埼玉県川口市にあった百貨店だ。

「1階の入り口では、いつもイッツ・ア・スモールワールドが流れていて、子ども向けのフロアには、上海では考えられないくらいの数のおもちゃが並んでいて。なんだ、この夢みたいな世界は! って(笑)」

当時、上海では似たような店がなく、私にとっては川口の百貨店がテーマパークのように見えた。

「子どもの意思決定なんて、おもちゃがたくさんあるから! とかそんな理由ですけど(笑)、それでも親は私の考えを尊重してくれたみたいです」

みっちり日本語学習

5歳で来日したが、それまで日本語を勉強していたわけではない。日本の生活に慣れるためには努力が必要だった。

「日本に来てから、毎日2時間、親から日本語の勉強をさせられました・・・・・・」

仕事から帰宅した父から、毎晩ひらがなの書き取りトレーニングを繰り返し施された。

それでも、すぐに日本語を使えるようになるわけもない。

「日本の保育園にいたときは、男の子と遊ぶことのほうが多かったですね。日本語でコミュニケーションできないから、おままごとよりボール遊びやかけっこのほうが、遊びの輪に混ざりやすかったんだと思います」

そのせいもあってか、服装も女の子らしいものから男の子っぽいものに変わっていった。

「小さいころ、ショートカットで背が高かったこともあって、美容師さんから男の子に間違われたこともありました(苦笑)」

私が守らなければ

最初はわからなかった日本語も、日々の努力や日常生活のなかで徐々に理解できるようになり、やがて母語が日本語に取って代わった。

「海外にルーツを持つ子どもにはよくあることだと思うんですけど、子どもが『言語ヤングケアラー』になるんですよね」

大人よりも子どものほうが、新しい生活に順応し、言語の習得スピードが早いことが多い。

幼少期から日本で過ごして日本語をネイティブレベルで使えるようになり、親よりも日本語能力が高くなったのだ。

「父が会社を興して家にいる時間が減ってからは、学校から配られた保護者向けの配布物を母に説明したり、団地の回覧板を母の代わりに受け取ったりしてました」

「私が母を守らなきゃいけない、って感覚がありましたね」

03名前が嫌いだった

「異物」感

日本での生活に慣れてくると、日本、中国のどちらでも「完全」にはなじめていない感覚が拭えなくなっていった。

「小学校では、外国にルーツのある生徒は私しかいませんでした」

外国人が日本で暮らしていることはまだ珍しく、電車で両親が中国語で会話していると周囲から注目を集めた。

「外で中国語を話さないで! って親に言ったこともありました。私が大人になってから、そのことについて『あのときはショックだった』って親に言われましたね・・・・・・」

1~2年に一度中国に行ったときにも疎外感を覚える。

「日本で買った服を中国で着てると『あの子は中国人じゃない』って特別扱いされて、街を歩いてるだけでじろじろ見られました」

年齢が上がっても中国語レベルは幼少期のままなので、私が中国語を話すと「この子はどこから来たの?」と周囲から不思議がられたのだ。

「日本にいても中国にいても自分は異物な存在なんだな、って感じてました」

自己紹介が苦手

小学校4年生の終わりに、東京・北区に引っ越した。

「転校先でも外国人は私だけでした」

当時、自己紹介で名前を言うことが嫌いだった。

「日本語を普通に話せるし、見た目も日本人と変わらない。でも名前を見せると『あなたは違うんだね』って態度を変えられることがあって」

転校先で自己紹介する場面で、周囲の日本人と自分の違いを再認識させられた。

「当時は『自分の名前、嫌だな』って思ってました」

文武両道

日本人でないから、中国人だから、という理由で学校になじめなかったわけではなく、社交的な性格もあいまって友だちとの交流を楽しんだ。

「小学生のときは生徒会を務めたこともありました」

でも、自分から立候補したわけではない。

「先生から勧められたんです。成績もよかったですし、周囲が求めてることがなんとなくわかる子どもだったからだと思います」

卓球では区内4位、書道では区内で金賞を受賞するなど、勉強以外でも優秀な成績を収めた。

「でも、クラスのなかでは一軍のキラキラしたタイプじゃなくて、それを横目で見てる二軍の立ち位置でしたね(笑)」

04ソフトテニスに熱中

ダブルスで都ベスト16

地元の中学校に進学し、ソフトテニス部に入る。

「鬼コーチのもとで、週7で練習でした(笑)。厳しかったですけど、人として尊敬できる人でした」

朝7時から始業まで朝練。放課後は、ボールが見えなくなるまで練習。

「練習漬けで、真っ黒に日焼けしてました(笑)。いくら食べてもカロリーを消費しちゃうので、身長は168センチもあったのに、体重は42キロしかありませんでしたね」

しかも、1日のスケジュールはそれだけで終わらなかった。

「夜の7時から10時までは塾に通う、っていう生活をずっと続けてました」

テニスを始めたのは中学生になってからだが、父譲りの性格も相まってどんどんのめり込み、ダブルスで東京都ベスト16にまで上り詰めた。

「テニスで勝つことがめっちゃ楽しかったです!」

負けず嫌い

試合での好成績は学校外でも注目を浴び、ダブルスの私たち2人を追いかけるファンクラブが、他校でも立ち上がったほど。

「でも、私たちが勝たないとテニス部として勝ち進めない、っていうプレッシャーも感じてました」

テニスの強豪校を目指す選択肢もあったが、進学したい高校は決まっていた。

「塾で勉強して、ここまで偏差値を上げなきゃ! って」

将来の夢より、ソフトテニスでよい成績を収めること、学力を上げることなど、目の前の目標を達成することで頭がいっぱいだった。

部活引退後に更なる猛勉強の末、偏差値70近くの中央大学杉並高校に進学する。

05アイデンティティ・クライシス

都会の女子高生

中学校では部活漬けの毎日を送っていたが、高校では帰宅部に。

「本当はテニスを続けたかったんですけど、高校のテニス部がめちゃくちゃ弱かったんです(苦笑)」

テニスコートが1面しかなく、環境も恵まれていなかった。

「レベルの高い人がいるから、切磋琢磨して強くなろう! って思えるんですよね。でも周りのレベルが低くて『私、何やってんだろう?? もう、帰ろう』って、冷めちゃいました」

文化系の友人と、新宿周辺で女子高生らしく遊んで過ごした。

「チケットの安い水曜日には映画を観に行って、ショッピングしたり、ミスドに寄ったり・・・・・・」

中国国籍の私は、日本国籍のみんなとは違う

高校3年のときの短期留学で、転機が訪れる。

「高校の海外研修で、2カ月間オックスフォード大学の高校生向けインターナショナルクラスに参加したんです」

最初に違和感を覚えたのは、日本を出国するときだった。

日本国籍の場合、イギリスで2カ月程度の滞在であれば特に事前の手続きは不要で、出発当日は出国ゲートを通るだけで済む。

「中国国籍だと海外にちょっと行くだけでもビザが必要なので、まずイギリス大使館に行ってビザを取得するところから始まったんです」

出国当日も、入国審査官に在留カードを提示し、さらに日本に帰ってきたときのために再入国許可の手続きも必要だ。出国ゲートも違う。

自分は日本人ではないのだと、思い知らされた。

「それまで海外に行くときは親と一緒だったので、手続きに違和感を持ってなかったんですけど『そっか、私はみんなとは違うんだ・・・・・・』って再認識させられました」

私は何者?

最もショッキングだった出来事は、イギリス滞在中に起こった。

「インターナショナルクラスには世界各国から高校生が集まってたんですけど、台湾から来た子に『あなたは中国人だから、私はあなたと話したくない』ってきっぱり言われたんです」

たしかに国籍こそ中国かもしれないが、私は日本人の友人たちと一緒にプログラムに参加しているつもりだった。

「たしかに異物感がなくなってたわけではなかったですけど、そこさえ除けば、中学校や高校ではみんなと同じように生活してきてたんです」

でも、日本から外に出たら、私は日本人とは認識されない。

「たしかにパスポートにはチャイナって書いてあるし、親は中国人です。でも、自分は中国人だっていう自覚が、正直ないんです」

どっちつかずである自分の存在、中国籍という理由だけで拒否された悲しさで、オックスフォードストリートで涙があふれた。

 

 

<<<後編 2025/03/06/Thu>>>

INDEX
06 身も心も暗黒時代
07 上海「逆」留学
08 外国人差別への怒り
09 なんでこの仕事をしているのか・・・
10 LGBTQのこともほかの社会課題も、走っていたら仲間が増えた

 

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