02 拒食症を乗り越えた思春期
03 15歳で性同一性障害だと自覚
04 男性として生きていく
05 筋トレは人を元気にできるツール
==================(後編)========================
06 自分はトランスジェンダーだと公表
07 手術の痛みと戸籍の性別変更と
08 ボディメイクでの受賞が誰かの希望に
09 人より濃くて面白い人生が楽しめるかも
10 自分を完全に認めきれたわけじゃない
01女子だとわかると仲間外れに
一見ちょっと怖い父
「生まれは和歌山県の、パンダがいるアドベンチャーワールドの白浜町のちょっとだけ上・・・・・・田辺市ってところです」
「家族は3人家族。父と母のあいだに子どもは僕ひとりなんですけど、僕には姉と兄が3人いるんですよ」
まるで “なぞなぞ” のような自己紹介。
軽快な関西弁で、家族の謎の種明かしをする。
「実は父が再婚で、一緒に暮らしていない異母兄弟が3人おるんです」
「お兄ちゃんとお姉ちゃんは、ありがたいことに、僕をめっちゃかわいがってくれてます。一番上のお姉ちゃんとの歳の差は16歳です!」
父は、体も声も大きく、一見ちょっと怖い。
「体型がくまのプーさんみたいで(笑)」
「ふつうに話しかけてくる声がもうでかいから、父に怒ってるつもりがなくても、こっちとしては怒鳴られてるみたいな感覚でした(笑)」
「母はド天然でホワホワな優しい人。父も母も、どっちも優しい人ですね」
家族全員がディズニー好きで、小学3年生から高校2年生くらいまで、毎年必ず1度は東京ディズニーランドへ家族旅行に出掛けた。
「うちのプーさんが、本物のプーさんに会いに行ってました(笑)」
「僕が子どもの頃、プーさんのことがめっちゃ好きやったこともあって、父はがんばって練習して、プーさんの声真似で僕と遊んでくれてました」
名前は父が考えてくれた。
2000年に生まれたから、と「1000年の歴史を刻む」という意味を込めて千史とした。
「もう1つの名前の候補がユキノだったとあとで聞いて、そっちの女の子っぽい名前じゃなくてよかった・・・・・・って思いました」
自分のことは男の子だと
性別に対して違和感を覚えたのは小学1年生のとき。
好きになった相手が女の子だった。
「女の子として育てられてるから、自分は女の子なんだろうなと思ってたんですけど、女の子って男の子を好きになるんじゃないのかな、あれ? って」
違和感はあったが、低学年のときは、女の子が好きだと仲のいい男友だちに伝えていて、そのことで周りからなにか言われることもなかった。
しかし高学年になると、口にできなくなってくる。
女の子と男の子には、明確な違いが感じられた。
「僕、ボーイッシュだったんで、パッと見たらふつうに男の子に見えるんですよ。いつも男の子と遊んでるし」
「でも、初めて会った男の子と遊んでたら、別の子が来て『こいつ女やで』って言われて、それから仲間外れにされたりとか」
「それが一番つらかったですね・・・・・・」
自分のことを女の子と思ったことはなかった。
「女の子として育てられてるし、女の子だって言われてるし、女の子のようにしとかなあかんのやろうなって・・・・・・気持ち悪いけど」
「自分のことは男の子やと思ってたんで」
02拒食症を乗り越えた思春期
ポツンと取り残されたみたいに
男の子なのにスカートを着なければならない。
制服のある中学校への進学は苦痛だった。
「小学校の卒業式から中学の入学式まで、ずっとウウウ・・・・・・って唸っていて、父も母も『こいつ中学行けるんかな』って心配してたくらい(苦笑)」
「まぁでも、義務教育やから行かなあかんよなとか思って、ちゃんとスカート着て、入学式行って、学校に通ってたんですけどね」
部活はサッカー部を選択。
女子サッカー部はなく、男子サッカー部へ入部した。
「最初はみんな体格も変わらないし、技術的にも同じくらいなんですけど、やっぱり男の子はだんだんガッチリしてきて、足も速くなるし、みんな上手くなっていくのに、僕だけポツンと取り残されたみたいになってきて」
「それがすごいショックで、悔しくて、1年の後半からは部活に行けなくなってしまったんです」
そんなとき、大好きだった父方の祖父が急逝。
そのあと、母方の祖父も事故で全身が動かなくなるという不幸が続いた。
「もう、どん底に落ちちゃって」
「ご飯が食べられなくなって。どんどんどんどん痩せて・・・・・・拒食症になって、学校にも行けなくなって、入院して」
「生きてるだけで価値がある」
入院した先は小児精神科。
カウンセリングと並行して、少しずつ食事が摂れるようにリハビリした。
スタートは未就学児の食事量。
それを完食できたら小学校低学年の子どもの食事量になり、次は中学生、高校生、と最終的には1日3000キロカロリーを摂ることを目指す。
「ぜんぜん最初は食べられないんですよ。もう胃がめっちゃちっちゃくなってるから。でも『食べられるようにならないと家に帰れないぞ』って感じなので、食べないといけなくて」
「毎回、胃の筋トレしてるみたいな感じでした(苦笑)」
努力の末に、規定量を食べられるようになって退院できた。
しかし、学校に復学するのは難しかった。
「入院して、学校も行けなくなって、親に迷惑をかけてしまったし、自分なんていないほうがいいんじゃないか、って考えてしまって・・・・・・」
「それでもなんとか回復して、高校に行けたのは、いろんな人の支えがあったからなんです」
両親はもちろん、祖父母、叔父や叔母、従兄弟、学校の先生や友だち。
みんなが支えてくれたから、乗り越えられた。
「担任の先生はほとんど毎日連絡をくれて、問題集を持ってきてくれたりもしたし、クラスメートは板書したノートの写真を毎日送ってくれて」
「仲良かった友だちも家に遊びにきて、僕を連れ出してくれようとしたし」
「なかでもすごい覚えてるのが親戚の叔母さんから『誰かに迷惑をかけてるなんて思わなくていい。生きてるだけで価値がある』って言葉です」
その言葉を聞いてから、少しずつ気持ちを立て直すことができた。
03 15歳で性同一性障害だと自覚
「オカマとか、きらいやわ」
幼い頃から、自分のことは男の子だと思っていた。
「本当は男の子なのに、なんで体は女の子なんだろう」
「女の子を好きになっても、自分は周りから女の子だと思われてるから、どれだけ好きになっても、男の子に取られてしまう・・・・・・。もしも自分が、体も男の子だったら、今頃どうなっていたんやろうって」
「ずっと、悔しいって思ってました」
初めて、その悔しさを解消するヒントと出会ったのはテレビだった。
「はるな愛さんがテレビに出ていて、男性から女性になったって聞いて、『ん? これって自分と逆?』って思ったんですよ」
「でも、一緒にテレビを観てた父が、当時はLGBTQに対してちょっと偏見をもっていて、『俺、オカマとかめっちゃきらいやわ』って言ったのを聞いて、自分がオカマの逆って言ったらどうなるんや、って思うと言えませんでした」
それが性同一性障害(性別違和)と呼ばれるということを知ったのは、学校に行きづらくて引きこもっていたときだった。
「ずっと家にいたし、調べる時間があったので(苦笑)」
「そしたら性同一性障害っていうのを見つけて、これや! ってなって」
しかしすぐには誰にも言えなかった。
父に、母に、友だちにどう思われるか、考えると怖かった。
ジェンダークリニックを受診
カミングアウトしたのは15歳のとき。
「生理になったんですよ・・・・・・」
やはり自分の体は女性なんだ。
自分は女性だ、と証明されたような気持ちだった。
「すごいショックで・・・・・・めちゃくちゃ泣いちゃって・・・・・・母に気づかれたので・・・・・・」
もう隠しておくことはできなかった。
とはいえ、自分で言葉にするのも困難だった。
「スマホの画面に、性同一性障害について説明してるページを映して、自分はこれからもしれないって、母に見せました」
「母は『そんなんじゃないんちゃうかな、もうちょっと考えてみたら』みたいなことを言って」
母から聞いた父も同じような反応だった。
「病院に行くってなったら、これはちゃんと考えないとって思ってくれたみたいで、一緒に病院に行ってくれました」
受診したのは、拒食症の際に入院していた小児精神科。
「そこの先生は、僕が拒食症になったのも、性同一性障害のせいなんじゃないかって気づいていたみたいで、入院しているときも『女の子だったら、こっちを選ぶはずだけど』って、探りを入れてきたりしてたんですよ」
「そのときは親もいたし、はぐらかしてたんですけど、その先生ならわかってくれるはずやって思ってました」
その医師は、すぐにジェンダークリニックへの紹介状を書いてくれた。
04男性として生きていく
高校の友だち2人にカミングアウト
ジェンダークリニックには、高校1年生から3年生まで通院した。
「先生からは、『まだ思春期だし、揺れ動く時期だから、時間をかけて診断していったほうがいいよね』って言われてました」
「でも僕は、絶対、性同一性障害だと確信してました」
おそらく両親も、受診しているあいだに確信へと傾いていったのだろう。
特に母は、看護師の叔母(父の妹)に「あの子は性同一性障害なんじゃない?」と言われていたこともあり、早くから覚悟はしていたようだった。
「高校2年生のときに、もうスカートで学校に通うのが限界になってしまったんですが、両親が学校に話してくれてジャージ登校の許可がおりました」
「周りには性同一性障害のことはオープンにしないで、病気の後遺症で体を冷やしたらいけないから、と説明していたんですが、高校の同級生には僕が入院していたことを知ってる子も多かったんで、納得してくれたみたいです」
高校で、カミングアウトしたのは2人だけ。
所属していた女子サッカー部の同級生と後輩だ。
「実は自分は、中身は男の子で、好きになる相手も女の子だけど、そのことは周りに言われへんねん・・・・・・」
「言ったら気持ち悪がられて、友だちがいなくなるから・・・・・・。みたいな感じで言いました」
2人は、気持ち悪いなんてことは思わない、大丈夫だ、と言ってくれた。
「それでもうホッとして、この高校でカミングアウトするのは2人だけにしようって思いました」
専門学校のクラス全員にカミングアウト
性同一性障害の診断がおりたのは高校を卒業してから。
18歳になって、ようやくホルモン療法を始めることができた。
「高校を卒業したあとは、スポーツトレーナーの専門学校に行ったんですが、生活環境も和歌山から大阪に変わるし、もう黙ってるのもしんどいし、専門学校入学と同時にカミングアウトしておこうと思いました」
まずは、クラスメイト全員の前で自己紹介した。
「戸籍上はまだ女の子やけど、自分は男の子だと思ってるので、男の子として生きていきます、男の子として扱ってください、みたいな感じで」
「そしたら、1つ上の先輩にもFTM(トランスジェンダー男性)がいるって聞いて、その人ともつなげてもらいました」
「その人も、ふつうに男の子として学校でみんなと過ごしてました」
自分と同じような人が他にもいる。
そう思うと、とても心強かった。
05筋トレは人を元気にできるツール
体も心も健康に
スポーツトレーナーを目指したのは、拒食症で苦しんだ経験があったから。
「拒食症になって、治ったらまずやりたいと思ったのはサッカーでした」
「でも、減ってしまった体重は簡単には戻らないし、体力もなくなってしまったから無理や・・・・・・って思ったときに、体重が戻ってきたらすぐ動けるように筋肉をつけていこうと考えたのがきっかけです」
専門書を読んだり、ネットで情報を集めたりして、食事とトレーニングの内容を片っ端から試してみて、効果があると感じられたものを続けた。
「そしたら、ガリガリだった体が、結構いい感じの細マッチョになっていって・・・・・・。それがすごいおもしろくて、今度はサッカーよりもボディメイクのほうにハマっちゃいました(笑)」
筋トレを続けていると、体だけでなく気持ちにも変化が感じられた。
「自分に自信がつくからですかね、体が健康になると同時に、メンタルも良くなっていく感じがして」
「あと、ちゃんとビタミンを意識するようになってから、ぜんぜん風邪とかひかなくなったし、食事も大事だなって痛感しました」
「こんな気軽に始められて、人を元気にできるツールがあるんだから、ぜひ広めていきたいと思ってトレーナーを目指しました」
インスタでカミングアウト
スポーツトレーナーの専門学校では、クラスメイトにカミングアウトしたあと、仲のよかった幼なじみと高校の女子サッカー部の先輩にも話した。
2人とも、同じ専門学校に通っていたのだ。
「話したら、2人とも大号泣してくれて・・・・・・」
「こうなったらもうみんなにカミングアウトしようと思って、2人にも相談して、文章を考えて、インスタグラムに投稿したんです」
投稿した途端に、大きな反響があった。
「DMがたくさん届いて、全部優しい言葉ばっかりで」
「『いままで気づけなくてごめんな』とか、『性別なんか関係なく、ずっと好きやから』とか・・・・・・ありがたいことに、カミングアウトしたことで離れていく人は、ひとりもいなかったんです」
うれしくて、泣きながらDMを読んだ。
なかには、逆にカミングアウトしてくれる友だちもいた。
「その子は、戸籍上は女の子なんですけど、自分では男女どっちかに決めたくない、女の子ではいたくないけど男にもなりたくない、と言ってました」
「ほかには、実はバイセクシュアルやねんっていう子もいました」
「意外にいるんだなって思いました(笑)」
<<<後編 2025/05/28/Wed>>>
INDEX
06 自分はトランスジェンダーだと公表
07 手術の痛みと戸籍の性別変更と
08 ボディメイクでの受賞が誰かの希望に
09 人より濃くて面白い人生が楽しめるかも
10 自分を完全に認めきれたわけじゃない