02 「女になる」と願掛けを
03 楽しかった入院生活
04 児童養護施設から中学へ通学
05 筋トレに対する並々ならぬ恐怖心
==================(後編)========================
06 トランスジェンダー女性という生き方
07 女になるか、別れるか
08 性別移行と子づくりを同時進行で
09 生まれなかった子どもたちへ
10 家族への愛は誰にも負けない
01母親の再婚相手からの虐待
家の柱に括り付けられて
「あまねって名前にしたのは、名前を変える頃はまだ男とも女とも言えない見た目だったから。どっちにもとられないような名前にしたんです」
「本当は、女っぽい、かわいらしい名前にしたかったんですけど、それはちょっとできなかった(笑)」
生まれは大阪府堺市。
3〜4歳くらいまでは、父と母と3人で暮らしていた。
「その頃のこと、小さかったし、あんまり覚えてないんですよ」
「そのあと、両親がたぶん離婚して、大阪から淡路島に引っ越して、母が再婚して・・・・・・弟が生まれました」
幼少期の記憶のほとんどは、母親の “再婚相手” から暴力を受けたことばかり。
「私が連れ子だったからですかね・・・・・・殴られるんですよ」
「これだけははっきり覚えてるんですけど、淡路島の家に行った初日に、家の柱に括り付けられたんです。なんでかは覚えてないんですが」
逃げる母、笑うしかない弟
母親は助けてくれなかった。
虐待が始まると、いつも家の外へ逃げていってしまう。
「母が言うには『私がいなくなれば虐待が収まるから、外に出て、様子をうかがってた』らしいんですけど、そんなわけはないんです」
自分の子どもが再婚相手に殴られるのを見たくなかったからなのか、自分も殴られるのを避けたかったからなのか・・・・・・本当の理由はわからない。
「淡路島の家に行って、虐待が始まった頃は、母も『やめて』くらいは言ってくれてた記憶がうっすらとあるんですけど、覚えている範囲では、私が殴られているあいだずっと、母は逃げてましたね・・・・・・」
「弟は再婚相手にとっては自分の子どもだからかな、殴られることはなかったですけど、私が殴られているのを見て、なんかニヤニヤ笑ってました」
幼い弟も、大人が子どもを殴っているのを見て、怖くなかったわけはない。
でも、どうすることもできなかった。
ただ笑顔をつくることしかできなかったのだろう。
02 「女になる」 と願掛けを
体に対する嫌悪感
男女の性差を知ったのは保育園に通っている頃。
園児同士で温泉に入る機会があった。
「あれ、なんか、あの子と体が違うなって気づきました」
「自分には、なんでこんなのが付いてるんだろうって思いましたね」
その違和感は、次第に嫌悪感へと変わっていく。
「小学校に入るくらいには、自分の体に対する嫌悪感がすごく強まってきて」
「男の体がイヤで、女になりたいって思ってました」
「横断歩道を渡るときは、白いところだけを踏んで渡ったら『女になる』って、おまじないというか、願掛けをしたりしてました(笑)」
しかし、横断歩道で何度も何度も願掛けしたところで女性にはなれなかった。
「女になりたいって気持ちは、誰にも言えなかったです」
「学校の友だちにも」
家での虐待も日常化していた。
「コンクリートに叩きつけられたこともありました」
「虐待で受けた傷痕は、いまでも残ってます」
誰にも助けてもらえない
母親の再婚相手が暴力を振るう理由は、あったりなかったり。
「覚えているのは、咳をしただけで殴られたこととか」
「子どもの頃は喘息気味で、特に藁に過剰に反応して咳き込んでしまうことがあったんですが、うち、農業をやっていて、藁を扱うので、手伝いをさせられると気管が苦しくなって、ゴホゴホなってしまうんですよ」
「そしたら、もう殴られっぱなしで・・・・・・」
理由はあってもなくても、理不尽な暴力だった。
「小学校高学年くらいになると、逃げてばかりいる母に『なんで助けてくれないねん!』って言って、母とも喧嘩するようになりました」
学校でも、近所でも、助けを求めることすらできない状態。
ましてや、性別違和については口に出せなかった。
「学校の先生に相談することなんてできなかったし、親戚も大阪にいて、淡路島から子どもひとりで行くのも無理だったし・・・・・・」
「1学年上の子の家に、いっときだけ何日か泊まらせてもらえたこともあったけど、やっぱり帰らされて、そしたら、また同じことの繰り返し」
「虐待を受けていることをはっきりと周りに伝えることもできなかったし、誰にも助けてもらえなかったですね・・・・・・」
03楽しかった入院生活
テレビは砂嵐、オモチャは壊される
通っていた淡路島の小学校は全校生徒が26人。
1学年1クラスで、同級生は自分を入れて4人だった
「ちょっとのあいだ泊まらせてくれた1学年上の子には、油性マジックで顔に落書きされたりしたこともありました・・・・・・」
「けど、そういうのが長期間続いたわけでもなかったので、自分としては大したことじゃなくて、あんまり気にならなかったですね」
「クラスの子とも、ふつうに仲よかったですし」
小学校に通いながら、常に虐待の傷と、体に対する嫌悪感を抱えていた。
近所には、逃げ込んだ母親を匿ってくれていた家もあったので、もしかしたら再婚相手の虐待のことも知られていたかもしれない。
しかし、やはり誰も助けてはくれなかった。
自分から事情を話して、助けを求めることもできなかった。
「あの頃は、楽しいことはなんにもなかったですね。ほんと、なんもなかったーーー(笑)。テレビも、田舎だからチャンネルが少なくて」
「なんだっけ、テレビドラマの『西遊記』が観たかったのに、チャンネル合わせたら砂嵐がザーーーッと(笑)。観れなかったです」
「オモチャを買ってもらうこともあったんですが、翌日にはオッサン(母親の再婚相手)に壊されてしまうから、楽しいことなんてなかったかも」
それでも楽しかった思い出が、ひとつだけある。
「淡路島にシャ乱Qが来たんですよ。コンサートにひとりで行きました」
虐待のことも、自分の体のことも、そのときは忘れることができた。
「音楽がすごく好きなわけでも、シャ乱Qのことを知ってたわけでもなかったんですが、なんか楽しかったです」
「コンサート会場で買ったポスターを、やっぱりオッサンにビリッて破られましたけどね(苦笑)」
病棟という名の安全地帯
小学校高学年になると、生活がガラッと一変する出来事があった。
大学病院の精神科に入院することになったのだ。
「入院の理由はわかんないんですよ。いきなり連れて行かれて」
「措置入院だったのか、医療保護入院だったのか、わかりませんけど、とにかく入院させられました」
「それが、めっちゃくちゃ楽しかったんですー!」
朝起きて、体温を計って、朝食をとったあとは自由時間。絵を描いたり、卓球をしたり、談話したり。
同世代の入院患者はいなかったけれど、穏やかな自由時間は心地よかった。
なにより、自分に危害を加える人はいなかったから。
「半年から1年くらい入院してたかな。そのあと家に戻ることになったんですが、帰ったところがオッサンの家じゃなくて」
「私が入院しているあいだに、離婚して、引っ越しする準備をしてたんですかね。ちょっとわからないですけど」
「それからは、母と弟と私の3人で暮らすようになったんです」
04児童養護施設から中学へ通学
「なんであのとき助けてくれへんかってん!」
大学病院で入院生活を送ったのは小学5年生の頃。
母親が離婚し、母親と弟との3人で暮らすようになってからは、新しい小学校に通うことになった。
「転校した先の学校でも、みんなめっちゃ仲よくしてくれて、すごいよかったんですけど、なんでか、私が精神科に入院してたことがバレてて」
「みんなから『精神科ってどんなとこなん?』ってきかれるのがつらかったなぁ・・・・・・っていうのがありました(苦笑)」
「入院生活自体は楽しかったんですけど、精神科に入院するってことは、やっぱり、ちょっと、ふつうではないんだろうなっていうのは自分で感じとっていたので、当時は触れてほしくなかったんだと思います」
中学校はそのまま地元の学校へ進学。
しかし、中学2年生の頃に児童養護施設に入ることになる。
「はっきりとした理由は覚えてないんですけど、たぶん、私が、小5まで虐待されてた反動で、母と弟に対して『なんであのとき、助けてくれへんかってん!』って強く責めてしまうことがあって・・・・・・」
おそらくは母親が、そんな自分とは一緒に暮らせないと判断したのだろう。
施設には中学2年生と3年生の2度、入ることになった。
自分たちは悲惨な目に遭ったから
「弟に対しては、言うべきではなかったなって反省してます」
「虐待に関しては、弟はなにも関係ないから。どうしようもなかったし」
とはいえ、およそ7年ものあいだ、理不尽な暴力を受け続け、傷つけられてきた子どもが、側にいた人に「助けてほしかった」と怒りの矛先を向けてしまうのは仕方がないとも思える。
「弟とは、いまではめっちゃ仲いいです」
虐待に苦しめられていた頃について話すこともある。
「自分たちは、あんな悲惨な目に遭ってしまったから、自分たちより下の家族は、絶対に幸せにしようなって、弟と約束をしたんですよ」
「弟は、殴られはしなかったけれど・・・・・・。暴力は、見せられるだけでもダメですね。虐待です」
母が離婚し、自分に暴力を振るい続けた相手と戸籍上の関係が消えても、虐待された傷は消えない。
それほど、心と体に残った傷は深い。
「いや別に、ぜんぜん(笑)」と、虐待を受けていた頃の頃を話すのは平気だと笑いながらも、抱えた傷がまだ痛むこともある。
05筋トレに対する並々ならぬ恐怖心
小さくて華奢な女の子になりたい
楽しいことはなんにもなかった小中学校時代。
唯一、楽しいと思えたのは入院時にやっていた卓球だ。
「なんか、病院で猛烈にやってましたね(笑)」
「大会に出て、町で3位とか、淡路島で4位とか獲ってました。出場してた人たちも、みんな素人やったと思うけど。でも楽しかった。うん」
運動は好きなほうではなかった。なによりも、筋トレがイヤだった。
「筋肉がつくことと、背が伸びることが、すごくイヤだったんですよ」
「特に、筋肉がつくことに対して、異常に恐怖を感じてたので」
「クラスで一番背が高かったのも、イヤでしたね・・・・・・」
小さくて、華奢で、かわいらしい。
そんな女の子になりたかった。
「筋肉がついて、背が伸びたら、理想からかけ離れちゃうじゃないですか。でもね、女になるっていうのを諦めてた時期もあったんですよ。横断歩道を渡るときに願掛けしても叶わなかったし(笑)」
「中学のときは、もう、こんなもんかな、女にはなれへんのかなって」
初めての恋人は女の子
中学時代に、好きな人ができた。
相手は女の子だった。
「向こうから告白してくれて、付き合うことになったんです」
「そのときは、恋愛対象としては男性よりも女性のほうがよかったんですよ」
女性を好きになること自体も、手を繋いだりキスをしたりと、女性と関係を深めていくことにも、なんの違和感もなかった。
「デートもふつうでしたよ。神戸のルミナリエ行って、中華街行って、とか。あとは、近くの神社に初詣に行ったりとか、イオン行ったりとか(笑)」
「でもね、そんなに長く付き合ってなかったと思います」
「1年くらいのお付き合いだったかな。あんまり覚えてなくて」
実家を離れ、児童養護施設に入ったりしながらも、なんとか中学に通い、友だちにも恵まれ、恋愛も経験した。
しかし中学卒業時には、施設から実家へ帰ることができないと知る。
「おそらく、母が私との同居を拒否したんでしょうね」
「それからはもう、淡路島を出て、大阪で働くことにしました」
<<<後編 2025/01/16/Thu>>>
INDEX
06 トランスジェンダー女性という生き方
07 女になるか、別れるか
08 性別移行と子づくりを同時進行で
09 生まれなかった子どもたちへ
10 家族への愛は誰にも負けない