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与えられた性別を言い訳にはしたくない【後編】

与えられた性別を言い訳にはしたくない【前編】はこちら

2016/08/02/Tue
Photo : Mayumi Suzuki  Text : Koji Okano
中谷 友星 / Yusei Nakatani

1982年、大阪府生まれ。幼い頃からスポーツが好きで、強いチームに身を置き、心身を共に鍛えてきた。大学3年からフィットネス関係で働き始め、大学4年の時にフリーのインストラクターとして活動を開始。エアロビクス、パワーヨガ、ラテンエアロなど様々なカテゴリーのレッスンを行い、現在は週20本のクラスを担当。オーガナイザーとしてイベントを開催する他、様々なクラブイベント、フィットネスイベントにもゲスト出演している。

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INDEX
01 初めての夢は父親になること
02 負けん気の強さを携えて東京へ
03 規則は規則として従っていく
04 女子大学には行きたくない
05 同じ性自認の仲間と出会って
==================(後編)========================
06 性同一性障害を言い訳にしない
07 母親へのカミングアウト
08 親と子が理解し合うとき
09 友星として第二の人生を行く
10 できること、できないこと

06 性同一性障害を言い訳にしない

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ホルモン治療開始

「性同一性障害の治療に関して、誰かに相談しなかったのって聞かれることがあるんですが、僕はしたことがないんですよね。自分で決めることだと思っていたから。だからインストラクターとして一人前になって、、稼いだお金で、自己の責任で治療をスタートさせたかった」

「それにもし相談して反対されたら、迷いが生じることになる。迷って治療を辞めて相談した人のせいにする、というのが一番最悪な結果ですから。結局は自分で決めるしかないんですよ」

大学はきちんと卒業した上で、フリーのインストラクターとしてスポーツクラブの集客に貢献できるよう、顧客のサービスに情熱を注いだ。

そうして25歳のとき、性同一性障害との診断結果を経て、男性ホルモン投与の治療を開始する。

「治療の前に、6年間、インストラクターとして働きました。本当は大学の時にホルモン注射を始めても良かったけれど、費用の問題もあるし、それに今とは時代が違って、まだ性同一性障害への理解も深くなかった。もし副作用でレッスンに穴を開けて、契約を切られたらどうしようと、一抹の不安もありました。でも6年働いて、会社やお客さんとの信頼関係が築けたという実感があった。今なら大丈夫と思ったんです」

緊張感の連続

日々のレッスンで鍛えているからだろうか、注射を始めても体調不良になることはなかった。

スポーツクラブや顧客に迷惑をかけることもなく、日々、インストラクターの仕事もこなしていた。

「施術したから休ませてください、というのは通じないと思うんです。僕が性同一性障害であることは職場にも、お客様にも関係のないこと。仕事は仕事です。副作用も含め、全ては休みの間に、どうにか解決しないといけないんです。後に乳腺切除手術を受けたときも、レッスンに穴を空けないように、工夫しました」

天職だと思った仕事だからこそ、責任は全うしたい。性同一性障害を言い訳にしたくない。

「けれど後から母に聞いたんですけど、ホルモン治療の開始直後は、意外と家ではしんどそうにしていたらしいんです。帰ってきたら、ソファーでぐったりしていたらしくて。それに母に対して、ホルモン治療の直前に『(大学受験中の)弟のことだけじゃなく、私のことも心配してほしい』と弱音を吐いていたとも」

「いずれにせよ、母も後にカミングアウトされてから、気づいたそうですが。治療を受けながら、レッスンもこなさないとって気張っていたから、ずっと緊張の連続だったんでしょうか。まるで当時のことを覚えていないんです」

そうして母に投げかけられた一言が、親子の関係を動かすことになる。

07母親へのカミングアウト

声の変化

「ねぇ友紀ちゃん、最近、あなたの声が男みたいに低くて、気持ち悪いんだけど」

ある日、ふと母に声をかけられた。喉の病気かしらね、と少し心配もされながら。

「友紀」は生まれた時に名付けられた名前だ。

そういえば男性ホルモン投与の影響で、声が低くなっていた。

両親には未だ、治療を受けていることを打ち明けていない。どうしようかと考えるが、今カミングアウトするのは得策ではないと思い、そのままやり過ごした。

「いつか言わないといけないことは分かっていたけれど、仕事を全うすることに神経が行っていて、両親にまで気が回っていなかったんです。本当は真っ先に言うべきなんですけど、母に反対されることは分かっていたから、治療の方を先に始めてしまったんです」

「それでも自分が元気に活躍しているところを見てくれれば、常に愛情を注いでくれる母のこと、理解してくれると思っていました。父はリアリストなので、現実を突きつけられれば、きっと分かってくれるだろうとも」

我が子への愛が深すぎるがゆえ、反発されることもあると思った。

だからこそ、なかなか切り出せなかったのだ。

メールの告白

「けれども、いい機会かもしれないと思ったんです。幸いホルモン治療も1年は続けていて、経過も良好。今、母に反対されたとしても、もう後戻りはできない。仕事に向かいながら、カミングアウトを考え始めました」

正攻法で、面と向かって告げるべきか、それとも。

「母は子どもに一心に愛情を注ぐタイプだから、伝え方がストレート過ぎると、感情的な答えになる気がしました。端的にメールでカミングアウトすることにしました」

当時、母は好きが講じてエステサロンを経営していた。

「お客さんへの施術中かなぁ」と思いながらも、一通のメールを送る。

「お母さん、実は私は性同一性障害です。1年前から男性ホルモン投与の治療も受けています。これからは男として生きます」

母からすぐメールが来た。「よく分からない、とにかく話したい」。

家に帰ってから、どんな話が繰り広げられるだろうか。

少し気が重くなった。

08親と子が理解し合うとき

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心が通わない

「母は自分が思っていた以上に、動揺していました。『私の友紀ちゃんがいなくなった』って、何回も言うんです。『ねぇ、友紀ちゃん、どうして男になる必要があるの?』『性同一性障害って何?』『美しい声をしていた友紀ちゃんを返して』。泣きながら、壁に向かって物を投げつけていました」

「いつも明るく、周りの人も元気にするような母が、別人になったようでした。あんな母は見たことがありません」

自分が預かり知らない状況に娘がいて、しかも男になりたいと言っている。不安と喪失感で、母は今、深い悲しみに包まれているのだろう。

それが分かっていても、いや分かるからこそ、自分のことを真に理解して欲しくて、ただ淡々と事実を述べることくらいしかできなかった。

「男として生きます、ブログでもカミングアウトします、と自分の決意を言うだけで精一杯で。あとは性同一性障害のことを知って欲しいから、この本を読んで欲しいと言って、一冊の本を置いて、居間を出て行きました。母の悲しみに寄り添うと、自分まで沈んで前に進むことができなくなりそうで、少し距離を置こうとも思いました」

しかしその日は夜、母と出かける約束をしていた。

一旦、気持ちを切り替え、あくまでさっきのことは忘れたふうで、平静を装うことにした。自分が毅然とすることが、母親を安心させるとも考えたからだ。

「けれど、やっぱりうまくはいかなかった。車に乗るなり『友紀ちゃん、このまま車で、私たちを知っている人が誰もいない、九州まで逃げよう』『もうお母さん、死にたい、ラクになりたい、あなたが男になるなんて恥ずかしくて生きてられない』。涙を流しながら、そう懇願されました」

「恥ずかしくも、何ともないよ、お母さん」。それでも力強く答えて、母を安心させたいと思った。

しかし何度訴えかけても、母の心には響かない。

「『お母さんが恥ずかしいの、だから死にたい』って、もう堂々巡りで。

結局、その日は全く理解し合えないままだったんです」

震災を乗り越えて

次の日は2011年の3月11日。

未曾有の大地震が東北地方を襲った。東京でも震度5強を観測。

都内のスポーツクラブでレッスンをしていたときに、被災した。家族の安否が気になるが、電話が全く繋がらない。

とにかくひばりヶ丘の自宅まで、歩いてでも帰ろうと思った。

「ちょうど吉祥寺までたどり着いたところで、母と電話が繋がって。車で迎えに来てくれることになったんです。昨日はあんなに泣きじゃくっていた母が、今度は本当に心配して疲れ切った顔で、出迎えてくれました。僕の姿を見て、心底、ほっとした表情になりました」

喧嘩などしている場合ではなかった。

その後、お台場にいた弟の安全も確認でき、鳥取に単身赴任していた父親とも連絡が着いた。

親戚や知人の無事を確認したり。震災後の1週間は、あっという間だった。

09友星として第二の人生を行く

家族がつながる

震災が残した傷跡はあまりに大き過ぎたが、10日、20日と過ぎていき、自分の周りの状況は落ち着いてきた。

ある日、母が自分が治療を受けている病院に行きたい、と切り出してきた。

「震災からこの日まで、母もいろいろ考えてくれたみたいです。家族の絆の大切さを痛いほど感じたから、娘の真の姿を理解しようと思ってくれました。病院で先生に説明を受けて、より僕の状況が把握でき、ちょっと安心していました」

「娘さんは健康そのもので、頭の中や考え方が男性なだけなんですよ、と言われて、解決すべきはひとつ、僕を本来の性に戻すことだと分かってくれたようです」

震災後、弟が母親にかけた一言も大きかった。

「両親は、一人暮らしの弟の家の近くまで行って呼び出し『実はお姉ちゃんは男になる』と伝えたみたいなんです。弟は『なんだそんなことか』というのが第一声だったようで。『そんなことは知っているよ。普通に考えて昔から、見た目とか、お姉ちゃんって感じではなかったでしょ。男になっても、お姉ちゃんはお姉ちゃんなんだから、家族が応援しなきゃダメだよ』とも言ったそうなんです」

実は看護士の従姉妹にだけ、性同一性障害のことを相談していた。その従姉妹から、弟は事実を聞かされていたようだった。

父にも母と同時にカミングアウトのメールを送っていたが、その後一生懸命に本で調べて知識を得ていることを母親から聞いた。

「父はカミングアウト以降、全くセクシュアリティの話はしません。かといって、理解していないわけでもないんです。遠慮しているみたいで。でも母がきちんと伝えてくれたみたいだから、大丈夫だと思います」

新しい名前

当初は「友紀ちゃんがいなくなった」と泣いていた母親。

歳をとっても、母娘二人で買い物やご飯を食べに行ったり、海外旅行もしたり。そんなこともできなくなる、と思っていたようだ。

「でもカミングアウトした後も、平日が仕事休みのとき、母とよくランチに出掛けていたんですよ。でもあるとき我にかえって”平日の昼間に仕事もしていない息子みたいで、やばくない?”と気付いて。母も”そうね、マザコンみたいに思われてもね”と言う」

「それでもまだ、ふたりで出かけてますけどね(笑)」

男に生まれ変わるなら名前を決めようと、母親とリビングで色々と漢字を調べて「友星」という名前に決めた。

「本名の『友紀』の画数がすごく良いらしいので、同じ画数にしたくて色々調べたのですが、良いのが『星』しかなく『友星』にしました。『なんか友達の星って、自分でいうのも嫌だねぇ』なんて言いながら、母と笑っていました」

今、母親は祖父母の介護があって、自分とは離れて大阪にいる。

自分のいないところで、自分のインストラクター友達と一緒に仕事をしたり、飲みに言ったりしながら。カミングアウトを経て、母子の絆は深まった。

10できること、できないこと

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瞬間の自分

「とにかく、この仕事が好きなんですよ。人との出会いが楽しくて。80歳近いお祖母ちゃんが参加してくれているレッスンもあるんです」。

多くの人と関わっていけるフィットネスインストラクターという仕事を、心から自分の天職だと考えている。

「だからこそ今の自分の状況を把握して、できること、できないことを区別しないといけないと思っています。性別適合手術も選択肢にあるけれど、仕事を大切にしたいから、したいと思ったことがないんです。治療のために長い休みをとって、お客さんに迷惑をかけることはしたくないですから。男性への戸籍変更も、旧来の結婚制度にこだわりがないので、必要ないと感じています」

「でも時が経てば気持ちが変わって、またできること、できないことを整理しないといけない日が来るかもしれません。そのときの気持ちに、きちんと向き合っていこうと考えています」

いつだって、こうだから幸せという完成形はないと感じている。

それを決めるのは常に自分だ、強くそう思う。

まず可能なことから

「僕こうやって、今の自分、男として生まれ変わるまで、辛い気持ちを味わったという気持ちがないんですよ。なぜならそれは、その時できることを実現しようと考えて生きてきたからです。生まれ持った性別はそう簡単には変えられません。だから中学校の制服も、嫌がらずに着ました」

「けれどスポーツは、力や身体の大きさの差はあれど、本来は男女の垣根なく楽しめるものだから、一生懸命に頑張った。フィットネスインストラクターに出会ってからは、まず仕事を第一に、可能な範囲で男性に生まれ変われたし。今、すごく充実しているんです」

その今の自分を育んでくれた、家族や周りの人に、いつも感謝している。

「小さい頃も学生時代も、インストラクターになってからも。本当に周りの環境には恵まれていたと思います。何もかもうまくいっている人生なのか?と聞かれたら、そんなことは一切ありません。挫折、負けたこと、悔しかったことなど沢山あります。ただ、いつも身近にいる家族、友人、仕事仲間をはじめ、周りの方が本当に親切に支えてくださいました」

「出会ってきた沢山の人がいるから、今の僕がいる」

「だからこそ性同一性障害を理由に、過去を消したり、全てを捨ててどこかへ行こうとは考えなかったんです。自分と向き合うことは苦手ですが、ふと考えたときに、今までお世話になった方々とこれからも一緒にいたいと感じたから、そこを避けてはいけない、と思いました」

加えて今は、昔に比べればずいぶん性的マイノリティが生きやすい社会になった、とも考えている。

「たとえば数年前からユニセックスって言葉が登場して、男らしくも女らしくもない洋服が販売されています。昨年くらいからLGBTという用語も認知され始めました。確実に、昔より多様な生き方ができる世の中になっています」

「それなのに、あれもできない、これもできないと悩んで、自分から視野を狭くしている人が増えているような気がしていて」

世の中の多様さに気づけば、性的マイノリティも、もっと楽しく生きられるはずと、飛び切りの笑顔を浮かべながら語る。

固定観念にとらわれずに、自分の幸せの領分を知ること。社会が多様化するからこそ、意外とこれが難しい。中谷さんのように自分の中で「好き」の優先順位がつけられるようになれれば、LGBTERのみならず、他の悩みを抱える人も救われるようになるはずだ。

あとがき
サラリと堂々とした佇まい。友星さんの表情も言葉も、それは過去から現在の全てを肯定したもの。他人が出す答えではなく、一番に相談する相手は自分自身なのかもしれない、そう感じた■受診、手術や戸籍変更など、本当の性別を取り戻すプロセスは幾つもあるけれど、どれもゴールではない■友星さんと話していると、「男性」とか「女性」と括ってはもったいない? 物足りない?ような気分になる。そんな意見も「まぁ、いいですよ」と笑って返されるだろう。(編集部)

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