02 密かな想い
03 女子は入れません
04 初恋の苦み
05 現実的な未来
==================(後編)========================
06 21歳、トランスジェンダー
07 羨望と嫉妬
08 2度の転職
09 趣味を仕事に
10 いまの自分が正解
06 21歳、トランスジェンダー
メイクアップ
高校卒業後は、エアラインサービスを学べる専門学校に進学。
英語を使える職業を考えたときに、キャビンアテンダントしか思い浮かばなかったからだ。
「メイクの授業があったので、メイク道具を一式買いました。自分の顔に塗り絵しているみたいだな、って思いましたね」
「何のために・・・・・・って、すごく後ろ向きな気持ちで授業を受けてました」
「よりによって女の園のど真ん中に飛び込んでしまったって、感じです」
キャビンアテンダントは狭き門。
就職活動で面接を受けたが、会場に入ったとたん「うわ、場違い」とフリーズしてしまった。
「何を目指せばいいかわからなくて、どんどん自分を見失っていきました」
「就職っていうレールに乗るために、どうにか風をつかもうと必死でしたね」
卒業後、縁があり、都内のシティホテルに就職した。
希望通り、英語を使う仕事に就けたが、制服を着てフロントでにっこり笑うのは苦痛だった。
「トランスジェンダー」との出会い
社会人になってからも、違和感の正体がわからなかった。
今ほど情報が溢れていなかった時代。LGBTの当事者に出会うこともなく、相談相手もいなかった。
21歳のとき、たまたま本屋で見つけた本の中に、「トランスジェンダー」という言葉を見つける。
「何の本か忘れちゃったんですけど、タイトルが気になってふと手に取ったんです」
「パラパラめくってみたら、自分が感じている違和感そのままのことが書いてあるんですよ」
「なんだこれ!? って衝撃を受けましたね。自分の存在に、初めてタグがつけられた気がしました」
インターネットが普及し始めた頃のこと。手当たり次第に関連のある情報を調べた。
「24歳のときに、腹を決めてカウンセリングに通い始めました」
「診断が下りる直前に、先生から、両親を連れて来てくださいって言われたんです」
カウンセリングには内緒で通っていたが、両親を連れて行かなければ診断をもらえない。
思い切って話すことにした。
父の怒り
「病院に通ってる」
「子どもの頃からずっと違和感があったんだ」
「たまたま見つけた本に、トランスジェンダーと書いてあって、自分もそれだと思う」
淡々と伝えたが、母は絶句する。
初めて聞いた言葉に、「何のこと?」と混乱している様子が伝わってきた。
父はただただ怒っていた。
母は父をなだめながら泣き、そんな両親を見て、どうしようもなく涙があふれてきた。
とりあえず病院に一緒に行ってくれることになったが、結果は予想していた通り。
いや、それ以上の修羅場が待っていた。
「診察させていただいた結果、お宅のお子さんは性同一性障害です」
先生からそう伝えられたとたん、「何の権利があってそんな判断をするんだ」と父親が怒り始めた。
しまいには「病院を訴える」と怒鳴り、収集がつかなくなった。
「ああ面倒くさい、って思いましたね」
GIDの診断が下りたあと、父から「こんなことを外で言ったら、俺らは表を歩けなくなるから、絶対に公言するな」と言われる。
「世間体と同じくらい、わが子への愛情があることはわかっていました。自分だって、親を悲しませるのは本意じゃない」
「親が生きているあいだは、もう蓋を開けないでおこうと決めたんです」
それ以降、両親とセクシュアリティに関して話をしたことはない。
親が生きているあいだは心配をかけずに、そっと暮らしていきたいと、今は思っている。
07羨望と嫉妬
取り残される
当時、トランスジェンダーの活動家は、虎井まさ衛さんしか見つけられなかった。
「カウンセリングを受け始めたときから、虎井さんのミニコミ誌を講読してたんです」
「性同一性障害に関する最新情報が書かれていて、ホチキスで留めてありました」
ミニコミ誌を読み、オフ会にも参加した。
しかし、馴染めないまま、自分から距離を置くようになる。
「肩の力を抜いて生きたいだけだったから、その頃は、虎井さんたちの活動が過激に見えたんですよね」
「ムーブメントを起こしたいわけじゃないのに、なんでここに加わらなきゃいけないんだろうって・・・・・・」
「一度、苦手意識を持ってしまったら、もう近づくことはできませんでした」
病院に通っていたとき、同年代のFTMの子と知り合う。
お互いの家を行き来するほど仲良くなったが、その子が治療を始めた頃から疎遠になっていった。
もう1人いたFTMの友だちも、タイへ手術をしに行き、それをきっかけに会わなくなった。
「皆がどんどん先に進んでいって、自分だけ取り残されたような気持ちになりました・・・・・・」
「理想の姿に近づいていく人を見ると、嫉妬して、苦しくなりましたね」
ホテルへの問い合わせ
シティホテルには5年勤めた。
退職を決めたのは、4年目のときに、ちょっとした失望を感じたからだ。
そのホテルには、女性専用階があった。
ある日、「自分はMTFですが、その階に泊めてもらえませんか? 女性専用階がいいです」と、問い合わせが入る。
「こうやって堂々と言える人がいるんだ、すごいなと思いました」
「会社がどう対応するか、期待しながら見守ってたんですよね」
今から20年ほど前の出来事。上層部が下した判断は、結果「お断り」だった。
「その判断が出た瞬間に、この会社を辞めようと思いました」
接客に疲れていたこともあり、次は人と話さなくてもいい仕事に就きたいと思った。
「昔、ラジカセを分解するのが好きだったことを思い出して、車の整備士になろうと思いました」
「人と話さずに、淡々と作業できますからね」
08 2度の転職
整備士の専門学校
女性の整備士は少ない。
整備士の専門学校では、各クラスに女性が1人いるかいないかだった。
「クラスメイトは高校を卒業したての若い男の子ばかりで、『姐さん、姐さん』って慕ってくれました」
「女子扱いされたけど、付き合ってる彼女がいて心が安定してたから、別にいいや、って思ってましたね」
学校側が、女子生徒を特別扱いしなかった点も好ましかった。
「実習中、ボルトの締め忘れが見つかったら、『このボルト締めてないね』って先生に指摘されるんです」
「連帯責任で、ボルト1本につき腕立て伏せを10回、グループ全員がやらされました」
「男女隔てなくやらされたので、そこはうれしかったですね」
専門学校を2年で卒業し、神奈川の田舎町にあるディーラーに就職。
しかし、女性社員ということもあり、現場に出るよりフロントに回されることが徐々に増えていった。
「女性扱いされることに耐えられなくて、だんだん精神が病んでいきました」
精神科を訪れ、「眠れないんです」と相談する。
説明するのが面倒くさく、精神科の先生にGIDのことは打ち明けなかった。
「精神的に落ち着かない原因は、自分でわかっていたけど、『仕事が忙しいせい』って思い込もうとしてたんです」
相手に影響を与えたくない
1年半ほど働き、整備士の仕事を辞めた。
実家に帰り、しばらくフラフラした後、印刷会社の事務職として採用される。
「取扱説明書を編集する部署で、車関係の説明書を作ってました」
「長時間労働でかなりブラックな環境でしたが、1人で作業できる点は気に入ってましたね」
「計画通り仕事が終われば問題ないので、この日は休んじゃおうとか、午前中で帰っちゃおうとか、時間の自由がきいたのも良かったです」
その会社で11年勤めたが、職場の先輩や同僚に、セクシュアリティの話をすることはなかった。
「話すことで、相手に何かしら影響を与えるじゃないですか」
「受け入れるか、拒絶するかはその人次第だけど、何かしらの反応が返ってきますよね」
「それが面倒くさかったんです。それなら、黙っていようと思いました」
11年間で、トランスジェンダーだと打ち明けたのは1人だけ。
「近くの部署に、ゲイの子が1人いたんです」
「その子はゲイの合唱団に入ってて、あるとき『あなたならたぶん話せると思ったから』って、フライヤーをくれたんですよ」
「向こうが察してくれたから、『実は自分も・・・・・・』って切り出すことができました」
「そこから、自分が会社を辞めるまで、仲良くしてくれましたね」
09趣味を仕事に
会社での見せ方
印刷会社で働いていたときは、クライアントとやりとりをすることが多かった。
「業界的に、中高年の男性が多いんです」
「女性が車関係の説明書を作っているのは珍しいって、すごく可愛がってもらえました」
しかし、ふとした時にトランスジェンダーのタレントの話になると、「オカマ」や「気持ち悪い」など、聞きたくない言葉が飛び交う。
「自分のセクシュアリティの話は絶対にできないな、って思いましたね」
ある時、大口のクライアントとのあいだで、身だしなみの話が持ち上がり、服装が規定されることになった。
「それまでは自由だったので、ジーンズやTシャツなど、ラフな服装で通勤してました」
「ところが、そのクライアントの社則に合わせて、男性の標準、女性の標準っていう指標が急に定められたんです」
今さら女性らしい服装には戻りたくないと思い、当時の上司に「この規定って絶対ですかね?」と相談した。
上司からは「佐藤さんはその会社には関係ないから、ある程度守っていればいいんじゃない?」と言われる。
「その後、ルールの実施日が近づいた頃に、『佐藤さん、服装どうする?』って、上司がもう一度声を掛けてきてくれたんです」
「上司にはセクシュアリティのことを何も話してなかったけど、たぶん気にかけてくれてたんですよね」
「『とりあえず、差し障りのない感じでやります』と返事をして、その話はそこで終わりました」
信頼できる仲間
実家の近所にあるアウトドアショップの貼り紙を見て、山歩きを始めたのは2011年のこと。
次第に長い距離を歩くようになり、休みを取って、長野県と新潟県にまたがる全長80kmの信越トレイルに通うことが増えた。
「交通費もかかるし、仕事を見つけて、そのうち移住できたらいいなと思ってたんです」
念願叶って、2019年4月に長野県飯山市の地域おこし協力隊として採用される。
「今は、自然体験を提供している宿泊施設で働きながら、大好きな信越トレイルの運営にも関わっています」
「1人のハイカーとして皆が自分を受け入れてくれている実感があるので、すごく楽しいですね」
今まで、セクシュアリティのことを口にすると、周りに影響を与えてしまうと思っていた。
言わないことが一番いいと、口を堅く閉ざし続けてきた。
「でも今は、聞かれたら答えてもいいんじゃないか、って思うようになりました」
「信頼できる仲間が周りにいるから、考え方が柔軟になったのかもしれません」
ハイカー仲間には、セクシュアリティのことをまだ話していない。
「41歳にもなって、結婚もしてないし、飾り気のない格好ばかりしてるし、ハイカー仲間のあいだでは謎すぎる存在だと思うんですよね(笑)」
「まあ、薄々は勘づいていると思います」
「何かのタイミングで、興味を持って聞いてくれる人がいたら、そのときは自分のことを伝えてみようと思ってます」
10いまの自分が正解
20年間で時代が変わった
考え方が柔軟になったのは、時代が変化したことも大きい。
「20年前は、トランスジェンダーがまだ世間に知られていなくて、人に説明するのが本当に大変だったんですよ」
「でも、今はLGBTのTですって言えば、伝わる場合が多いじゃないですか」
半年ほど前、現在働いている施設で、支配人とセクシュアリティの話をする機会があった。
話そうと決めていたわけではなく、話の流れでたまたまカミングアウトすることになったのだ。
「支配人からは『ああー、そうだったんですか』って言われました」
「『なるほど、それは佐藤さんの個性ですね』って、スッと納得してもらえたんです」
トランスジェンダーについて、完全に理解してもらおうと思うと、それは難しいかもしれない。
しかし、相手に少しでも知識があれば、1から説明をしなくて済む。
「20年前に比べて、いい時代になったなと思いますね」
トランスジェンダーのフェーズに不正解はない
長野に移住して、一人暮らしを始めてから、暇な時間がものすごく増えた。
「暇な時間が増えると、色々考えるようになるじゃないですか」
「自分の人生について色々考えて、このまま年を取って死ぬのは、なんか違うなと思ったんです」
歴史に残る偉人にならなくてもいい。
誰かの記憶に、ほんの少しでも自分の存在が刻まれたらいい。
そう思い、LGBTERにメールを送った。
「声を大にして、『聞いて!』って言いたいわけではないんです」
「でも、一生隠し通して生きていくのも、自分らしいやり方ではないと思ったんですよね」
当然ながら、自分の半生をインターネット上にさらす怖さはある。
友だちの中にも、受け入れられない人はきっといるだろう。
「それでも、何かポジティブな変化が起きる可能性があるなら、そちらに懸けたいと思ったんです」
「この記事をたまたま目にして、『読んだよ』って連絡をくれる人が、1人でもいたらいいなと思ってます」
GIDの診断を受けた当時は、自分だけがすごく遅れを取っているような気がした。
両親に遠慮して、何もできない自分は情けないとも思った。
しかし、トランスジェンダーの中にも、さまざまな考え・フェーズの人がいると、今ならわかる。
手術を終えて埋没して暮らしている人も、治療中の人も、何かしらの事情で治療に踏み切れない人もいる。
どのフェーズが正しい・間違っているということはなく、トランスジェンダーの数だけパターンがあるのだろう。
以前は、先へ進んでいく友人たちを羨んだこともあった。
しかし、不思議なことに、自分を嫌いになったことはない。
それはやはり、親が愛情を持って育ててくれたおかげだと思う。
「親から手術をしていいよ、って言われたら今すぐ手続きをします。その気持ちは、24歳で診断を受けたときから変わりません」
「でも、たとえ今は、理想の姿になれなくても、自分のことを好きだって胸を張って言えます」
いま居る場所は、まだ5合目なのかもしれない。
霞の向こうに、まだまだ険しい道が続いている可能性はある。
しかし、さまざまな経験を経て、自分にとって心地いい呼吸法をいつしか体得した。
その呼吸を保ったまま、上り坂を歩き続けられる覚悟は、もうできている。