INTERVIEW

最愛の人に出会うまでの私の人生【後編】

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2016/06/24/Fri
Photo : Mayumi Suzuki  Text : Koji Okano
鈴木 祐二 / Yuji Suzuki

1963年、東京都生まれ。生まれつき聴覚障がいがある。障がい者採用に積極的な大手企業で技術、人事、総務業務などを経験。が、うつ病を患った事がきっかけでこころの療法を学び始める。現在は、うつ病アドバイザーとして独立開業。「ろうLGBTうつ支援グループ」「聴覚障害者うつ支援グループ」代表としてメール、面談相談を受ける。手話講師として企業、大学、専門学校、セミナー等の講演経験もある。

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INDEX
01 耳は聞こえないけれど
02 聾学校への転校
03 突然の告白
04 秘められた恋の行方
05 故郷を離れて
==================(後編)========================
06 社会に出て味わう鬱の苦しみ
07 望まない結婚
08 離婚、そして息子との別れ
09 愛すべきパートナーとの出会い
10 少しずつでも距離を縮めて

06社会に出て味わう鬱の苦しみ

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権利意識の目覚め

実は以前から社会運動への興味はあった。

聾学校時代の同級生がその心の苦しみを訴えたことがきっかけだ。

「私は幸い、そう言われたことがないのですが、健聴者に『つんぼ』と言われて虐められた経験のある同級生がいました。その話を聞いたとき、表現しようもない憤りを覚えました。そして自分より年上の聾の方は、時代が時代ということもあって、今よりももっと酷い差別を受けた、と当時、耳にしたこともありました」

「なんとか聴覚障がい者の現状を変えていきたいと思ったんです」

仙台から東京に戻って、聴覚障がい者の支援団体と接触、参加することになった。

団体の青年部長などを務め、精力的に活動した。

「その一方で、生活するために就職活動もしていました。学校を卒業してから2年、22歳のとき、私を採用してくれる会社が現れました」

「大手電機メーカーの技術部で、組み立てやパッケージングを行う、いわゆるライン作業というものです。障がい者の雇用に積極的な会社だったので、入社することができました」

繰り返される「うつ」

しかし、務め出してしばらくすると、今でいう「うつ病」のような症状が表れ始めた。

だんだんと朝、起きることができなくなり、会社を休むように。

その回数は多くなり、そのうち外出することすら、ままならなくなった。

「私が社会に出た頃、1980年代には、まだうつ病という言葉が知られていませんでした。だから自分の身体に異変を覚えたとき、それがなんなのか、どこで見てもらえばいいのか、全くわかりませんでした」

「調べていくうちに、それがうつかもしれないと解り、心療内科を受診しました。結果、うつ病と診断されましたが、それを会社に言おうかどうか、悩みました」

うつ病は風邪や高脂血症などと同じく疾患であり、薬を飲めば治ることも多い、という認識が浸透したのも、21世紀に入ってからだ。

当時、会社に告白するのは、相当な勇気が必要だったろう。

「それでも会社には言うことにしました。クビになっても仕方がないと思いながら、決死の覚悟です。幸い、障がい者雇用に積極的なこともあって理解を得られ、休職することができました」

しかし休職と復職を繰り返したり、会社が決めた休職期間内に復職できなかったため、結果、退職を余儀なくさせられたり。

その後も転職を経て、障がい者雇用に積極的な大手企業で働くが、うつ病で休職を余儀なくされることが何回かあった。

07望まない結婚

本音を言えない

うつとの闘いで恋愛どころでもなかったが、逆にパートナーが見つかれば、精神的な安定を得られるかもしれない。

そう思って、身体の調子がいいときは、同じセクシュアリティの人との出会いを求め、交流をはかろうとした。

「中学時代、好きだと思った先輩がたまたまゲイであったように、私にはどこかその種の人を嗅ぎつける能力があるんです。たとえば大勢の人と飲み会をしていても、なんとなく自分と同じようなセクシュアリティの人を見つけられるようなところがあって。それでゲイの人と知り合って、集まりに足を運ぶこともありました」

それでもやはり病気のせいだろうか、あまり気が進まない、友達止まりで恋愛感情にまで発展する出会いはなかった。

「けれども同じセクシュアリティの人と集まると落ち着くのか、筆談や相手の口元を読み取ったりして、いろんな話をしました。今のようにLGBTという言葉がない時代だったし、マイノリティはやはりマイノリティでしかなかった」

「カミングアウトして、自分を曝け出して生きたいけど、そんなに寛容な社会ではない。皆、息苦しさを口にしていました」

カミングアウトして、後悔せずに生きている人はいたけれど、それほど多くはない人数だった。

ほとんどの人が苦悩しながら、毎日を過ごしていた。

そしてそれは自分も同じだった。

苦悩とまではいかなくても、本当のことが言えないもどかしさはあった。

両親の願い

そうして20代が終わり、30歳を迎えたとき。

早く身を固めない自分に対して、もともと両親からの風当たりは強かったが、いよいよその非難の声も辛抱できないくらい、大きなものとなっていた。

もう仕方がない、と首を縦に振る。

両親が持ってきた縁談に応じることにしたのだ。

「これでいいのかな、と最後まで思いながらも、両親からの期待を邪険にはできず、結婚してしまったんです。相手は同じ聾学校の後輩です。一度、両親の申し出に頷いたら、全てがとんとん拍子に進んでいきました」

「本当はこうなる前に両親にカミングアウトすべきだったのかもしれないけれど、時代が許してくれなかった、そう思って自分を納得させました」

結婚生活の中で、子供を授かる。

生まれたばかりの我が子を抱いてもなお、迷いは消えなかった。

「自分が父親になったという思いと同時に、これで本当によかったんだろうか、とこの期に及んで、まだ戸惑いが消えませんでした」

その迷いは、結婚生活を通して消えることはなかった。

悩みは尽きなかったが、しかし相手は女性といえど伴侶を得て、精神的に落ち着いたからだろうか。

結婚期間を通して、あれほど苦しめられたうつの症状は表れなかった。

08離婚、そして息子との別れ

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破綻する日

しかし自らのセクシュアリティを隠し通して夫婦生活を続けられるほど、器用な人間ではなかった。

36歳のとき、結婚生活は破綻。離婚することになった。

「やはり妻を愛することができなかった。彼女はとても優しい人です。家のことをしっかりして、私にも尽くしてくれた。だから本当に申し訳ない気持ちでいっぱいでした」

ふたりの間に子供を授かったことで、やはりずっと結婚生活を続けるべきだ、と決意したときもあった。

ゆえに独身時代のゲイの友人たちに対して頑なに背を向け、決して付き合おうとしなかった。

でもその決意も、我慢の限界をもって、遂行できなくなってしまったのだ。

「妻には性格の不一致、根本的に気が合わないから別れよう、と伝えました。特に大きな喧嘩もしたこともなかったので、妻にしたら納得がいかなかったのでしょう、何度も話し合うことになりました。でも最後には頷いてくれました」

本当は自分のセクシュアリティを妻に伝えて別れた方が、釈然としたかもしれない。しかしそれは、どうしてもできなかった。

「子どもの親権は、息子が判断できる歳になったときに聞いて、本人の意思に委ねよう、ということになったんです。母親を選びました」

離婚して以降、息子とは全く会っていない。

元妻からは大学に進学した、とは聞いている。

「今年で大学4年です。会いたいとは思うけど、会ってもお互い、誰だか分からないと思います。私も息子も、ずいぶんと顔が変わっているだろうから。ただ、幸せでいて欲しい。それはいつも願っています」

両親との絶縁

もうひとつ、離婚を機に大きな決断をする。

両親と兄にカミングアウトしたのだ。

「自分が離婚に踏み切った本当の理由を知って欲しい、という気持ちがどこかにあったのかもしれません。けれど父も母も、全く理解を示してくれませんでした。やっぱり今と違って、まだまだ性的マイノリティの存在がきちんと認められていない時代です」

「分かってもらえなかったのも仕方がない、と今は思います。父も母も、やっぱり昔の人間ですから」

カミングアウト以来、両親とも全く連絡を取っていない。

ほぼ絶縁に近い状態だ。

「兄は理解を示してくれたので、たまにメールを送ったりして、自分が元気であることを伝えたりしています。ただ両親にも連絡を取っていない手前、会うことはありません」

09愛すべきパートナーとの出会い

深い喪失感

妻と息子、そして両親。

一度に大切な絆を失ったことで、またうつの症状が首をもたげてきた。

外出することすらままならなくなり、仕事を休職して、ただひたすら自宅に籠る日々が続く。

「離婚とカミングアウトを通して、両親や親戚、周りが自分の思った以上に冷淡だったことにショックを受けました。特に母は、私が成人して手がかからなくなってから手話を覚え、より深くコミュニケーションを取れるよう頑張ってくれたので、きっと分かってもらえる、と思って期待し過ぎたのかもしれません」

「とにかく塞ぎ込んで、毎日、暗澹たる思いで過ごしていました」

そんなときに自分を救ってくれたのが、結婚する前に交流があった同じセクシュアリティの人たちだ。

すっかり生きる力をなくして、家から一歩も出ようとしない自分を見舞いにきたり、あちこち連れ出してくれたりした。

「彼らとの繋がりがなかったら、今の元気な自分はいなかったかもしれません。すぐに活動的にはなれなかったけれど、次第に気持ちも上向いていきました」

運命の出会い

そうして6年前のある日。

いつものように聾のセクシュアルマイノリティの友達が、自分を外に連れ出してくれた。

場所は都内のスーパー銭湯だ。

「友達とゆったり寛いでいたら、とある男性からの視線を感じたんです。気のせいかな、と思っていたら、次にまたその銭湯に行っときに偶然会って、またジロジロと私を見てくる。変わった人だな、と思っていたら、次にまたあったときにも、私に注目してくる」

「なんとなく縁がある気がして、連絡先を交換したんです」

向こうは健聴者で自分より9歳下のサラリーマンだった。

何度かメールを交換するうちに、お互い惹かれるようになって、交際が始まった。

「不思議ですね。私が本当に気の合うパートナーと出会うときは、いつも偶然なんです。中学の先輩も、今付き合っている彼も。自分から探すとなると、なかなか良いご縁がないのに。やっぱりタイミングって大切なのかな、と思います」

出会ってから数年がたった今も、彼との交際は順調だ。

お互いを尊重しながら、いいお付き合いができている。

10少しずつでも距離を縮めて

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結婚を現実に

現在は会社員ではなく、うつ病アドバイザーとしてメール、面談相談などを受け、生業としている。

その活動のために一昨年、うつ病アドバイザーの資格を取得したが、自分を追い込んで勉強に没頭したのが原因で体調を悪化させ、入院することになった。

「パニック障害も起こすなど、本当に大変な状況でした。彼は仕事も忙しいのに、その合間をぬって、頻繁に見舞いに来てくれたんです。それなのに具合の悪かった私はパニックを起こして、会いに来た彼にものを投げつけてしまうようなことをしてしまって」

「自分は混乱していて覚えていないのですが『もう別れてもいい!!』なんて酷いことも言い放ったそうです」

それでも彼は自分を嫌わず、見舞いに来てくれた。

その姿に、この人と一生を添い遂げたい、と思うようになった。

「今年の10月に、私の大好きな場所、沖縄で結婚式をあげるんです。あなたは健聴者で、私は聾だけどいいの?と言ったら、いいと頷いてくれて。きっと素敵な式になると思います」

同性パートナーシップを認めた渋谷区と世田谷区にも注目している。
いずれ自分たちも宣誓書を申請したい。

ただ彼の仕事の都合で両区への引っ越しは難しいので、日本全国で同様の取り組みが実現すればいい、と願っている。

和解に向けて

自らの離婚以来、絶縁状態の両親だが、それでもやはり距離を詰めていきたいと考えている。

「あのときの両親にとって、自分がゲイであるということは、自分が難聴者として生まれてきたことよりも、はるかにショックだったのかもしれない。今、そう思うんです。父と母にとって、耳が聞こえない辛さは分かっても、男なのに女を好きになれない苦しさは理解しがたかったはずですから。けれど、LGBTという言葉も、これほどポピュラーになった」

「今なら、分かってもらえるんじゃないか、という気がしています」

LGBTという言葉がなく、セクシャルマイノリティの存在すら認識されていなかった時代に、自らの性に向き合った鈴木さん。障害が大きかったからこそ、その歩みにはLGBTERが問題を乗り越えていくために持つべき勇気が溢れている。今はセクシャルマイノリティにも希望が見える時代。そんな世の中も、鈴木さんのような先達者が切り開いてくれたのだろう。

あとがき
好きな人が同性だと表明するには、今よりもずっと困難だった祐二さんの青春時代。その時代に従おうと、結婚し家族を大切にしつつも、フタをした思いに苦しむ人も多い世代だ■いくつかの別れや時を経ても「手遅れ」なんて言葉は使わない、エピソードよりもずっとずっと明るい祐二さんだった■愛する人を語る姿は、横顔だけでも弾けた幸せが分かるほど。秋に迎える結婚式−−− きっと沖縄の空も海も、祐二さんとパートナーさんの熱さにはかなわない。(編集部)