02 聾学校への転校
03 突然の告白
04 秘められた恋の行方
05 故郷を離れて
==================(後編)========================
06 社会に出て味わう鬱の苦しみ
07 望まない結婚
08 離婚、そして息子との別れ
09 愛すべきパートナーとの出会い
10 少しずつでも距離を縮めて
01耳は聞こえないけれど
届かない声
いつから耳が聞こえなかったのか。自分では分からない。ただ両親は1歳の時に、その事実に気づいたという。
「ようやく歩けるようになったくらいの私が、1つ年上の兄と遊んでいたときの話です。母が兄と私の名前を読んで、こっちに来るよう指示したらしいんです。兄は声に反応してすぐ母の元に駆けつけたのに、私はずっと、おもちゃを離さずに遊んでいたらしくて。『祐二』『ゆうじ!!』と何回叫んでも、振り向きもしなかったそうです」
「私の聴覚に異常を感じたらしい母が、その夜、仕事から帰ってきた父と、ひどく難しそうな顔をして話し合っていたのを、なんとなく覚えています。きっと病院に連れて行こうかどうかの相談をしていたんだと思います」
すぐに診断を受けることになった。
母親の予感があたり、やはり聴覚障害があるとの診断だった。
「両親は相当にショックだったと思います。それこそ母は、耳に障がいのある子に生んでごめん、と何度も思ったに違いありません。親戚から心配のような好奇な目を向けられ、苦しんだとも思います」
「けれど “可哀想な子” と思って大事に育て過ぎるのも、子供のためにならないと考えていたようで。母は私が家に籠ることを嫌がり、外で他の子と遊んでおいで、といつも言っていました」
他の子と一緒に
耳が聞こえないことで他の子から虐められるかもしれない。ゆえに子供を家に止まらせておこう。そんな考え方もできたかもしれない。しかし母はそうしなかった。
「私が今まであまり聴覚障がいを気にしないで生きてこられたのは、母のこの考え方のおかげかもしれません。近所の子どもに混じって、日が暮れるまで、鬼ごっこやかくれんぼをして思いっきり遊びました」
「当時はまだ今ほど難聴が進んでいなかったので、ポケットに入るタイプの補聴器を使えば、健聴者ともコミュニケーションが取れたんです。もちろんスムーズにはいかないけれど、一生懸命、私の言葉を聞き取り、そして私に伝えようと、近所の友達も協力してくれました」
「虐められるなんてことは、微塵もなかったんです。生まれたときから、出会う人には恵まれてきた。だから障がいを抱えてはいるけれど、それを苦しいと思ったことはないんです」
当時の補聴器は今ほど小さくなかったから重く、ポケットに入れると走るのに邪魔だった。
しかしそれがあるから、他の子どもと一緒に無邪気に遊びまわることができた。
両親の考えで幼稚園には上がらず、2年間、聴力訓練の学校に通った。
小学校は近所の子たちと、公立の学校に入学する。このままずっと一緒、そう信じて疑わなかった。
02聾学校への転校
周囲との差
しかし集団行動が原則の学校では、いろいろな支障が出てきた。
授業だけでなく学校生活においても、周りの児童に置いていかれることが多くなり、それを感じ取った両親はある決断する。
「父も母も、このときになって初めて、聾学校に進むという選択肢を選びました。たしかに周りの健聴者と明らかに差があって大変でしたが、それでも初めから聾学校に入れようとしなかった両親には感謝しています」
「小学校1年生まで健聴者と対等に付き合えたことが、私の中で大きな自信になったから。聾学校に転校しても、放課後は近所の健聴者の友達と、よく一緒に遊んでいましたよ」
聾学校に移ると、そこは1クラスが4人。
しかも1学年が2クラスしかない、という小所帯だった。そしてコミュニケーションという部分では、別の問題が待ち受けていた。
「それまでずっと健聴者と一緒にいたので、手話を学んでこなかったんです。でも同級生は皆、手話を使う。転校当初は誰ともうまくコミュニケーションを取れなくて、大変でした」
ここから手話の猛勉強が始まる。
すぐとまではいかないけれど、それでも次第に同級生とコミュニケーションが取れるようになってきた。
マッチョが好き
「そうやって聾学校で友達ができ始めて。で、小学校高学年になったときに気づいたら、周りの同級生には、ボーイフレンドやガールフレンドができていたんです。少人数だから、距離を縮めやすいというのもあるんでしょうね。けれど私には、そう呼べるような人はいなかったんです」
それでも初めて「いいな」と思える人が出てきた。
相手は同級生の女の子だ。
それでも付き合おうと思えなかったのには理由があった。
「テレビや雑誌で筋肉質な男性を見ると、かっこいいなぁ、と興味を覚える自分がいたんです。それがただの憧れなのか、好意なのか。まだよく分かりませんでした。そんなこともあって、付き合うことにはならなかったんだと思います」
小学校を卒業したら、そのまま系列の中学校に上がった。
勉強はそこそこに、熱中したのが “ピンクレディーごっこ” だ。
「ちょうどピンクレディーが『ペッパー警部』でデビューしたのが、私が中学校に上がった年、1976年でした。学校の同級生とも近所の友達とも、ミーちゃん、ケイちゃんの真似をして遊びました」
「あまりにも熱中し過ぎて、『勉強しなさい』と母親に怒られたくらいです(笑)」
今でもピンクレディは大好きだ。
難聴者の自分にも伝わる、歯切れいいリズムの楽曲の数々。
10年前から足を運んでいる名古屋のLGBTイベントでは、毎回ピンクレディのコスプレをして歌を披露している。
そのために原宿でオーダーメイドした衣装は、なんと11着もある。
他にも小学生時代には、父に買ってもらったアコーディオンを弾くのに熱中した。
耳は聞こえづらくても、音楽は大好きだった。
03突然の告白
先輩への憧れ
無邪気にピンクレディーの真似をする。
そんな子供らしい顔を持つ一方で、確実に大人の階段を登り始めている自分がいた。
中学校に上がってすぐ、恋人ができたのだ。相手は男で同じ学校の先輩だ。
「中学校の入学式で、生徒を代表して挨拶したんです。けれど、手話を勉強し始めたのが他の人より遅かったので、私の手話にはまだ、少しわかりにくいところがあって。その先輩が、補助で付いて、きれいな手話で私の言葉を会場の人に伝えてくれたんです」
「すごくスマートな手話で感心したし、何よりも顔がかっこよかったので、なんだかドキドキしてしまって。あとスポーツに打ち込んでいる先輩だったので、制服越しに見ても、肩幅の広さ、腕の太さ、胸板の厚さが伝わってくるんです。以来、その先輩のことをものすごく意識し始めました」
そんなとき体育の授業のあと、その先輩からプールの掃除をするように言われた。
掃除は学年関係なく、持ち回りで担当することになっていたから、何の疑問も抱かずに放課後に残って、水着姿でプールの掃除をしていた。
「しばらくしたら、その先輩がスウェット姿で現れて。『二人きりになりたかったから、体育の先生に頼んで、掃除の順番を君にしてもらったんだ』って言うんです。『どうして?』と問い返したら、告白をしたかったから、って」
「『君のことが好きだ、付き合って欲しい』。そう言われ、私も断る理由がないので、交際することになりました。いやむしろ、今までの人生で経験したことのない、迸るような欲望を覚え、歓喜すらしていたかもしれません」
言えない恋
小学生の頃、マッチョを見て興奮を覚えた記憶からも、自分がゲイであることはなんとなく分かっていた。
だから先輩と付き合うのに、全く抵抗はなかった。
ただ両親はもちろん、学校の同級生や先生にも気づかれるわけにはいかない。
「中学生の頃はそうもいかなかったけれど、先輩が高校に上がってからは、行動範囲がグッと広がりました。電車で遠い場所に行って、デートを重ねることが多くなって。家や学校の近くで会っていると、すぐにバレてしまう」
「できるだけ自宅から離れた場所へ、一緒に行くようになりました。先輩が高校を卒業して社会人になってからは、自分が学校が休みのときに、車でドライブに行くようになって。もともと大人びた雰囲気のある先輩でしたが、もっと大人びて見えました」
そのまま系列の聾高校に進み、卒業間近、18の春を迎えても交際は順調そのものだった。
04秘められた恋の行方
永遠の別れ
高校卒業を控え、進路を選択するときが来た。
先生や両親からは、調理師や理容師のような、手に職をつけられる学校を勧められていた。
「私もそれには賛成でした。で、理容師になろうと思ったんです。けれども当時、障がい者を受け入れている理容学校が、仙台にしかなかったんです。生まれ故郷の東京を離れるということは、先輩と離ればなれになる、ということでもあったから」
先輩とは別れたくない、強くそう思っていた。
理容師の道を諦めるべきか、それとも先輩との遠距離恋愛を選択すべきか。
素直に先輩に相談したら、思わぬ答えがあった。
「『人生だから仕方がない』と言われました。それが人生だ、とも。まだ中学生の頃から、もう大人のような顔で別の世界を見つめていた、先輩らしい言葉です。遠距離恋愛じゃだめですか、なんて食い下がる余地もありませんでした」
迷わず自分の道を歩もう、と思った。
東京を離れて仙台へ。
でもまた東京に戻ったとき、先輩と付き合えばいい。それもまた人生だ、と。
「でも結局、それ以降、先輩と会うことはありませんでした。実家が引っ越してしまって、同じ番号に電話しても、繋がることがなかったんです。すれ違いも人生、今も先輩がいたら、そう言うかもしれません」
当時はまだ、携帯電話も普及していない。
それも人生、と受け入れざるを得なかったのだ。
先輩の存在感
「中学のときに先輩と出会わなかったら、自分のセクシュアリティを確信することはなかったと思います。ゲイかもしれないと思いながら、自分の周りに同じ性志向の人を見つけられないから、延々と悩んでいたような気がします」
「友達に自分がゲイだと言ったら嫌われるんじゃないか、両親にも恥ずかしくて言えないと迷いに迷って、引っ込み思案になっていたかもしれません」
高校で同級生に「彼女いないの?」とからかわれても、先輩ときちんと付き合っていたから、たとえそれを口にはできなくとも、堂々としていることができた。
「あと先輩は自分のことを、あえて『ゲイ』とは言いませんでした。それも私が、ことさら自分の性志向を気にしないで、自然体でいられた理由でした」
当時はピーターや美川憲一のような芸能人もテレビに出始めていた。
彼らの存在も、まるで同志のようで心強かったという。
05故郷を離れて
まるで違う
こうして18歳で一旦、生まれ故郷の東京を離れることになった。
仙台の理容学校の寮で、初めて親元を離れ、一人暮らしをすることになる。
「今までは聾の生徒しかいない学校でした。しかし今度はそうではなく、クラスには他の種類の障がいを持った人がいました。聾の同級生は私も含め3人だけです。まずクラスメイトとうまくコミュニケーションが取れず、苦労しました」
その聾のクラスメイトも、自分以外は東北の出身者。
口語に方言があるように、手話にも方言が存在する。
「たとえば東北の手話で『大丈夫』を意味するものは、東京では『かまわない』という意味になるんです。他にも意味が違うものがたくさんあって、聾の同級生ともうまくコミュニケーションが取れない。とにかく方言を覚えようと必死でしたね」
しかし方言を覚えたら覚えたで、今度は帰省で東京に戻ったときに、仙台での手話が出てしまい、高校の同級生に怪訝な顔をされる。
とにもかくにも、手話の奥深さを痛感させられる日々だった。
昔を懐かしむ
仙台の理容学校では、近くにある大学との交流会もあった。健聴者と手話や筆談でコミュニケーションするのは刺激的で楽しくもあるが、大学でキャンパスライフを謳歌している人たちを見て、少し寂しい思いがした。
「恋愛している人たちを見ると、いいなぁ、と心から思いました。そして先輩のことを思い出す。そんなときは一緒に映った写真を見て、懐かしいなぁ、今はどこにいるのかなぁ、と感慨に耽っていました」
仙台での学生時代、自らは恋愛をすることがなかった。そうしてあっという間に2年が過ぎる。
「卒業を前に、実際に理容の現場で働いてみて、ちょっと自分のやりたかったこととは違うかな、と思ったんです。その道には進みませんでした」
息子からの報告を聞いて、父親は怒り、母親は「やりたいことを見つけなさい」と言った。
「そう言われて思ったのが、聴覚障害者の権利を確保するための運動です。それに打ち込みたいと思いました」
いよいよ社会に踏み出す日が近づいていた。
<<<後編 2016/06/24/Fri>>>
INDEX
06 社会に出て味わう鬱の苦しみ
07 望まない結婚
08 離婚、そして息子との別れ
09 愛すべきパートナーとの出会い
10 少しずつでも距離を縮めて