02 頑張ってこの性を演じる
03 僕はFTMだったんだ
04 高校時代のカミングアウト
05 母親の涙と理解
==================(後編)========================
06 ゴール、そして発信へ
07 企業セミナーに登壇して
08 性別適合手術の前と後
09 ツイッターでアウトプット
10 これからの自分
01スポーツ万能のいい子
いかにマジョリティに染まるか
他人からどう見られているかをすごく気にする子どもだった。
「いかにマジョリティに染まるか、普通を装うかっていうのを、いつも考えてましたね」
「親や先生に反抗することもなく、部活も勉強もちゃんとやってたし、めちゃめちゃいい子だと思われてました」
「めちゃめちゃ優等生(笑)」
幼い頃からスカートや長い髪、おままごとの母親役など、女性性にはまるのが嫌だった記憶はある。
「それでもやっぱり、お母さんが女の子として育てるじゃないですか。だから、髪の毛長くしなくちゃいけないな、って」
「周りに縛られてる感は強かったですね」
「女の子として生まれてきて、女の子として育てられてると、頭では理解してたから、頑張ってこの性を演じるしかない、って考えてましたね」
幼稚園から小2ぐらいまでは、園や学校に行くのが嫌で毎日泣いていた。3歳上の兄に連れていってもらって、やっと教室に入れる。
かといって、園や学校が嫌いで引っ込み思案な子だったのかというと、そうでもない。
クラス全員とみんな友だちで、誰とでも仲良くしていた。
「クラスの中心で騒いでいるタイプですね」
「ボーイッシュさも影響してたのか、男女隔てなく仲良くできてたので、何かっていうと『田代!』って呼ばれる便利な仲介役(笑)」
「自己主張するより、聞き役でした。平等そうに見えるからか、打ち明け話を聞いたり、相談に乗ったりすることが多かったですね」
皆に頼られる存在だった。
ドッヂボールと野球
父、母、3歳上の兄との4人家族。家族や周囲の人からは「かわいい、かわいい」と言われることが多かった。
低学年の頃一番はまっていた遊びは、ドッヂボール。下校時間ギリギリまで校庭に残って遊んでいた。
「ドッヂボールって道具もいらないし、誰でもできるじゃないですか。やろう! って言ったら大抵の子が集まってきました」
「ボール1個で延々とみんなで遊べる、それが好きだったんでしょうね。もう毎日ガンガン、ボール当てまくっていました(笑)」
小4からは学校のクラブで野球を始める。きっかけは学校の体力測定だった。
「僕、運動能力の成績がめちゃめちゃ良くて、それを見た友だちが僕を野球に誘ってきたんです」
「お父さんが野球好きだったから多少はやってたんだけど、じゃ、本格的にやってみよっかなーって」
そこからは野球一色の生活になった。
「男子は低学年と高学年で出られる試合が分かれるんだけど、女子はどっちも出られたんで、選手としての需要が高かったんですよ」
「ポジションもいろいろやらせてもらえました」
「足も早かったし、筋力もあったから、男子にも全然見劣りしなくて、小学校の間は負け無しでしたね(笑)」
それまでも家族全員でスキーに行ったり、アウトドアを楽しむ仲の良い家族だった。
「野球を始めたら、お父さんは同じチームのコーチになって、お母さんは欠かさず試合を見に来てくれました」
同時期に中学に進学した兄も野球を始めて、家族ぐるみで野球に没頭する野球一家になった。
02頑張ってこの性を演じる
「4月からどうしよう」
野球を始めたことで、髪を短く切って、Tシャツと短パンで過ごす言い訳ができたのは嬉しかった。
「雪降ってても、『野球やるから』って半袖短パン。学年に一人二人はいるじゃないですか」
「とにかく半袖短パンで外で遊びたい子。まさにそのタイプ(笑)」
ところが中学に進学する段階で、制服という壁に直面する。
卒業式の後、春休みにセーラー服が家に届いてからは、入学式まで家で毎日泣いていた。
「もう地獄。僕は4月からどうしようって。好きな女の子に制服姿を見られて『あ、田代ってやっぱり女の子なんじゃん!』って思われるのもたまらなかった」
相談できる人もいないので、一人で悶々とする毎日。
「それでもしゃあないな、って3年間着ているうちに耐性がつきました(笑)」
スカートの下に短パンをはき、ヒラヒラしているけれどこれはただの飾りだ、と折り合いをつけた。
「高校でも、そのままスカートをはいて通いました」
もともと人にあまり相談もしない。他人に影響を受けることは少なく、全て自分で考えて自分で解決するタイプだ。
「制服に対する違和感はありましたけど、これが普通なんだろうなって」
頑張って女性を演じる毎日だった。
「レズビアン?」いや違う
中2ぐらいから体が女の子らしく変わっていく。
体に対して、違和感や嫌悪感が増す日々だった。
「これって何なんだろう、ってセクシュアリティについて考え出すようになりました」
「それまでは、僕は女の子の体だけど、みんなのように女の子として成長はしないんじゃないかなと、ちょっと勝手な期待をしてました」
「でも現実は厳しくて・・・・・・。周りの男子は身長が伸びて体もたくましくなって、僕がたどりたかったストーリーをたどってて」
現実を知り、また一人で泣いた。
「その頃すごく好きな女の子もいたんです。だから最初は、自分はレズビアンなんだろうと考えてました」
当時は性同一性障害、GIDという言葉をまだ知らない。
「“同性愛” は知っていたので、携帯で一生懸命検索したり本を読んだりして調べましたね。でも何か自分とは違うって感じるんです」
03僕はFTMだったんだ
性同一性障害、「これや!」
ある日、テレビドラマ「3年B組金八先生」の再放送で、上戸彩演じる “鶴本直” を観る。
「これや!」
そこで初めて性同一性障害を知った。
「それまでは、自分がおかしいだけで、他にこんな人はいないと思ってたんです」
「いろいろな情報を調べるうちに、ああ、こういう言い方もするんだ、こんな人もいるんだ、ってだんだん知識を増やしていきました」
金八先生を入り口に、とことん調べ倒して自分の頭でひたすら考えた。
中3の頃には、自分は性同一性障害なんだ、とスッキリ納得するに至る。
「人に相談するのが苦手だから、自分で解答を探さざるを得ないんですね。人に言えないからこそ、自分で考える癖がつきました」
「それがいい方向に行ったから、迷いがなかったんだと思います」
計画立てて一直線
「高1時には、SRSをすることをもう自分の中で決めてました」
決めてからは一直線。迷いはまったくなかった。
「大学卒業するまでにSRSを終わらせようと決めて、じゃ費用の100万円はバイトして貯めなきゃって」
― 手術をするには、カウンセリングを受けなければならないんだな。
― 親の同伴がいる? じゃあカミングアウトしなければならないな。
―18歳ぐらいからカウンセリングに通おう。
―20歳にはホルモン注射を始めたいから、高校卒業までには親に言おう。
逆算して計画を立てた。
「とりあえず今の自分にできることは? って考えて、高1の冬に一旦は入部した陸上部をやめて、バイトを始めました」
朝は4時半に起きて、週6日マックでアルバイト。
高2から部活でソフトボールを始めたが、週6回ある部活の参加を3、4回にして、下校後もバイトをする毎日だった。
「それでも僕は、ソフトボールでレギュラーの座を譲らなかったんです。部活もやるって決めたからには、やっぱり絶対レギュラーじゃないと」
「今振り返ると、ちょっと部員に迷惑かけたかなとも思うけど、その頃はお金もレギュラーも、欲しいものは全て欲しかったんです(笑)」
親には、部活費用を稼ぐためのアルバイトだと説明した。
部員たちとは元々仲が良かったし、ソフトボールの実力と持ち前のコミュニケーション力のおかげで、活動回数が少なくても文句を言われることはなかった。
「技術がすべてで、周りより上手ければいいんだって思ってたので、一歩間違えば嫌な奴ですよね(笑)」
「でもそんなことは悟られないように、周囲の目を気にしながら生活してました」
「それに、僕、女子にはなんせモテていたので。ファンの子らからは “神対応の田代” って呼ばれてました(笑)」
04高校時代のカミングアウト
「ありがとう」と言った先生
アルバイトで部活を休む都合上、顧問の先生に最初にカミングアウトした。
「僕はこういう理由で将来手術するんで、その治療費を貯めることが今一番大事なんです、って言いました」
「先生は初めてそういう子に出くわして、最初は戸惑ってたと思いますよ。でも最終的には『ありがとう』って」
「『俺は今までそういうの知らなかったけど、これからまた同じような子に出会うかもしれない。だから田代がいろいろ教えてくれて良かった』って言ってくれました」
同じ頃、すごく好きな子ができた。
高2の時に告白して付き合うことになる。
トランスジェンダーの場合、好きな子への告白は性自認のことと、好きだという気持ちを同時に伝えなければならないことが多い。
「もう、両方一緒に直接言っちゃいました」
「話しても大丈夫な子じゃないかな、って感じてたし、僕のことを性別関係なく、人として好きでいてくれるような気がしたから」
「めっちゃいい子で、100%受け入れてくれました」
「小学校の時に、FTMの子が学校にいたらしくて、ある程度理解があったんだと思います」
「あまり男・女とか言わなくて、『田代は田代だから。そんな田代が好きだから』って言ってもらえたのは、すごく嬉しかったですね」
「その子への気持ちは、愛があふれちゃって(笑)友だちにもばれていました」
しかし付き合っていることまでは、どうしても周囲に言えなかった。
「友だちと恋バナになったら、『恋愛? 僕はソフトボールが恋人だよ』ってごまかして(笑)」
初めての彼女とは、その後2年半ぐらい交際を続ける。
「付き合っていればいろいろあるんで、まあ最後の方は・・・・・・(笑)」
「いい思い出しかないですね。その子に傷つけられたような思い出は、まったくないです」
カミングアウトは自分だけのためじゃない
女の子が好きだということは皆に知られていても、セクシュアリティについて自分から告げるのは怖さがあった。
「友だちにFTMだってカミングアウトするのは、高3になってからでした」
仲の良い幼なじみや部活の子に話した。
「ほとんどの子は「田代は田代だしね。関係ないよ」って受け入れてくれました」
「男同士だとおちゃらけてて、真面目な話をするのは気恥ずかしかったんです。だから打ち明けたのは、主に女の子の友だちでしたね」
態度が変わる子はいなかった。
逆に治療のことなど、たくさんの質問をされた。
それがお互いにとって、とても良かったと思っている。
「結局カミングアウトは、自分一人のためだけでなかったんですね。その子たちの理解につながるならいいな」
「次にまたトランスの人に会った時に、僕っていうモデルを知っていれば、その人の味方になってくれるだろうって」
カミングアウトには、そんな期待も込めていたのかもしれない。
05母親の涙と理解
大泣きした母親
友だちの次は親だ。
高校卒業の頃に、まず母親に打ち明けた。
「まったく否定的。大泣きされました。なんかボーイッシュな女子ぐらいに思ってたって」
「孫の顔も見たいし、体にメスを入れるなんて、そこまでする必要があるのかとも言われました」
「お父さんはいまだに、いいとも悪いとも何にも言わないんです。お父さん、何考えてるんだろう(笑)」
兄は薬学部だったこともあり、むしろ好奇心のほうが強かった。
「ホルモン注射の話なんかすると、すごく食いついてきちゃって、『何それ、どうなんの? 副作用あるの?』なんて、学問的興味が強い(笑)」
母親には思春期の気の迷いかもしれないから、カウンセリングに行ってみればと言われる。
「こっちは、よしよし、これで病院に行ける。病院に行けばこっちの勝ちだって」
「それで『じゃ、お母さんがそう言うなら病院に行って、先生と相談してちゃんと考えるね』ってカウンセリングに通い始めました」
「方便ですよ(笑)」
すぐに理解されないのは当たり前
大学入学と同時にカウンセリングに通い始める。
20歳で、性同一性障害と診断が下りた。
「その間に親との関係が気まずくなって、家を出て1年間くらい一人暮らしもしました」
「家に戻った頃には、お母さんもだいぶ折れてくれてました」
「離れ離れで生活してお互いの存在の大切さもわかったし、お母さんもLGBTの映画を見たりいろいろ勉強して」
「うちの子はうちの子らしくしていてほしいと、思ってくれたんじゃないかなと思います」
「診断書が出る頃には『どうせあなたは好きに生きていくんでしょ』ってなかば諦めてました。ただ治療自体は20歳から始めてほしいって言われました」
今では母親もママ友に僕のことを話しているようだ。
職場にMTFらしい人が来たよ、なんて教えてくれることもある。
やはり、時間をかけて理解してもらうことが何よりも大事だなと思う。
「僕らがこんなに悩んで時間をかけて自分の答えを出しているのに、他人に速攻で理解してもらうのが難しいのは当然なんです」
「ただ当事者になると自分の気持ちばっかり先走っちゃうから、『なんでマジョリティは』とか『なんで親は』とかになりやすいんです」
「でも、自分が自分の性自認を理解するまでに、どれだけの時間がかかったか、よく考えればわかるはずですよね」
<<<後編 2020/07/02/Thu>>>
INDEX
06 ゴール、そして発信へ
07 企業セミナーに登壇して
08 性別適合手術の前と後
09 ツイッターでアウトプット
10 これからの自分