02 人生初のゴール
03 思いも拠らぬ事件
04 日記と噂
05 これからの人生は、右肩上がりだ
==================(後編)========================
06 体への違和感
07 GIDの診断
08 23歳の決意
09 一番幸せな日
10 私の人生には、可能性がある
06体への違和感
自分のケースは稀だと思っていた
先生から性的強要を受けていた高校生の頃、自分と同じようなケースは稀だと思っていた。
大人になり、新聞を読んだりニュースを見たりするようになると、同じような被害を受けた人が、決して少なくないと知る。
「今この瞬間も、性被害に悩んでいる人がいるはず。それならば、自分が発信する意味は、きっとあると思いました」
セクシュアリティに関しても、同じことがいえる。
「自分はおかしいかもしれないって感じていた思春期の頃とは違い、今は、同じセクシュアリティの人が大勢いることを知ってます」
「性同一性障害である自分の経験を発信するで、今悩んでいる人の役に立てる可能性があると思うんです」
気付いてあげられなくてごめんね
25歳のとき、自叙伝を書きながら、セクシュアリティを意識し始めたのはいつだったか考えた。
体に違和感を覚え始めたのは、中学生のときだ。
中学校に入学してすぐに、生理がきた。
「初めて出血したときは、どうすればいいかわかりませんでした」
「小学生のときに授業を受けた覚えはあったんですけど、自分には関係ない話だと思ったんです」
母に相談する勇気もなく、自分で処理をして登校。
しかし、その日の授業が終わった後、保健室に呼び出された。
保健の先生から手渡されたのは、母からの届け物だった。
中を見てみると、ナプキンと一緒に「気付いてあげられなくてごめんね」と書かれた手紙が添えられていた。
「当時は、自分のセクシュアリティについて考えたこともなく、自分の体に起きたことも理解できない状態でした」
「母は何も悪くないのに謝っているし、体はおかしなことになっているし・・・・・・」
複雑としか言いようのない気持ちだった。
07性同一性障害の診断
恋人
中学でも、高校でも、体への違和感を誰にも話せずに過ごした。
「でも、大学のサッカー部に入ったら、同じように性同一性障害で悩む子たちがたくさんいたんです」
「そのことを隠す必要はなかったし、チームメイトの中には彼女がいる人もいました」
今までいた環境とは違い、自分らしく振る舞えるようになった。
そして大学1年生の秋、恋をした。
当時通っていた接骨院のスタッフと仲良くなり、皆で地元の高台まで流星群を見に行くことになった。
そのメンバーの中に、以前から気になっていた人がいた。
「流星群を一緒に見たことをきっかけに、彼女と仲良くなって、ご飯に行ったり、家を行き来したりする関係になりました」
「これからも彼女と一緒にいたいなら、はっきりしなければいけない。そう思って、彼女に気持ちを伝えたんです」
告白は成功。
「彼女は自分と出会うまで、性同一性障害に関して全く知らなかったけど、特に偏見もなく受け入れてくれました」
「好きな人と一緒に暮らす幸せも、なにげない毎日の喜びも、ケンカをした後の気まずさも、全部、彼女が教えてくれたものです」
性同一性障害と診断される
自叙伝を書きながら、あの頃を振り返ってみて思う。
サッカー部の仲間や彼女の存在があったからこそ、自分の違和感を肯定的に受け入れることができた。
彼らのおかげで、大学生の間に果たしたいと思っていた目標に向けて、行動することもできた。
「体と心が一致しないという問題を解決したい。そう考えて、病院に通うようになったんです」
「もらった診断書には『性同一性障害。生涯性自認が変わることはなく男性です』と書かれていました」
ホルモン治療などを進めるにはお金が必要だし、部活をやっている間は、治療はできない。
だから、卒業したらすぐに治療をしようと決意した。
「診断書をもらった後、このことを家族に伝えなければと思いました」
「まずは、2歳下の弟と、5歳下の妹に伝えたんです」
弟も妹も理解してくれた。
弟は「そう言われても何が変わるわけじゃない。お前はお前だからいいんじゃない」と言ってくれた。
「この話を一番切り出しにくかったのは母でした。私は大事なことに限って、いつも母に言えないんです」
大学4年生になったばかりの頃、母と都内で会うことになった。このチャンスを逃してはいけないと思い、話すことを決めた。
「ファミレスで母と向かい合って、診断書のことを伝えました」
「母は驚く様子もなく『自分のことは自分で決めなさい。私の人生じゃない。あなたの人生だから』と言ってくれました」
08 23歳の決意
家族を持つことへの憧れ
性同一性障害の診断を受けた直後は、大学を卒業したらすぐに治療を受けようと考えていた。
でも実際は、なかなか治療に踏み切れなかった。
「小学5年生のときに両親が離婚して以来、自分の家族を持つということに対して、夢や憧れを強く抱いてきました」
「子どものいる家庭というのが、自分にとっての理想の家族の姿だったんです」
自叙伝にはこう書いている。
「家族をつくるということは、僕が僕じゃなくて、女として生きていかなきゃいけないということだ」
たとえ他の人が産んだ子でも、愛情をかければ自分の子には変わりない。
それはわかっていたけれど、どうしても、自分で子どもを産み育てるというこだわりを捨てきれなかった。
「男の体になりたいという思いと、自分の子どもが欲しいという思いがせめぎあっていました」
保留期間
悩み抜いた末、23歳の夏に、ひとつの決断をした。
今すぐ治療はしない。
もし25歳になるまでに、自分の過去を受け入れてくれて、考えを理解してくれて、心を許してもいいと思える人が現れたら。
もしその人との間に子どもを授かるようなことがあったら。
流れに身を任せて進んでいこう。
もし、そういう人が現れなかったら、今生は子どもに縁がなかったと潔く諦めて生きていこう。
「すごく覚悟のいる決断でしたが、自分にとって一番納得のいく方法でした」
パートナーとの出会い
大学卒業後に就いたのは、配送の仕事だった。
しかし、上司とのいざこざが原因で、その会社を辞めることになった。
その後、新しく入社した先は経営難で辞めることになった。
「再び就職活動を始め、やっぱりやりたい仕事に就こうと思って、配送の仕事に戻ることにしたんです」
古巣に戻ってから2ヵ月後、時期外れの異動が発表された。
厳しくて有名な人が次期部長として入ってくることになったのだ。
「噂で聞くほど、嫌な人には見えませんでした」
「他のドライバーたちは陰で文句を言ってましたが、私は新しい部長にも積極的に話しかけました」
新しい部長が異動してきて3ヵ月後、ご飯に誘われた。
そこで意気投合し、飲みに行ったり、ゴルフの練習に行ったりするようになる。
「そうやって関わる中で、この人なら、自分の望みをわかってくれるかもしれないという期待が生まれ始めました」
飲みに行ったとき、思い切って、自分のセクシュアリティの話をしてみた。
もしこれで距離を置かれたら、ショックだけど仕方ない、と覚悟の上で。
彼は「よくわからないけど、いろんな可能性があっていいんじゃないの」とだけ言ってくれた。
「今まで耳にしたことのない答えで、驚きました」
「その話をして以降も、彼の態度は変わりませんでした」
「だから、自分の過去や、子どもがほしいという思いも、すべて話してみようと思ったんです」
09一番幸せな日
覚悟を決めた夜
彼に子どものことを打ち明けると、最初は「君の過去のことを思うと、とてもじゃないけど・・・・・・」と断られた。
しかし、過去の事件からは立ち直っていると話すと「君がそれを望むなら」と承諾してくれた。
受け入れてくれる相手をやっと見つけた。
次は、自分の心を整理する番だった。
「覚悟は決めていましたが、やっぱり心のどこかで、男の人と関係を持つことに抵抗がありました」
「もしフラッシュバックが起きたらどうしようという不安や、行為自体に耐えられるかという自分への疑いも残っていました」
自問自答を繰り返したが、後悔は残したくなかった。
だからその夜、覚悟を決めた。
それから数週間後、私は体調を崩す。
「体調の悪さは2週間経っても治りませんでした。もしかしてと思って、薬局に行き、妊娠検査薬を買ったんです」
「結果は陽性でした」
確証を得たくて、翌日、産婦人科を訪れた。
24歳の5月、お腹には赤ちゃんが宿っていた。
母とのすれ違い
子どもを授かった後、母にどう話すかが、一番の悩みだった。
「GIDとカミングアウトして数年も経っていないのに、驚くだろう」
「どう話せば、賛成してもらえるだろう」
逡巡しているうちに時間は過ぎ、そのうちに母のほうから連絡があった。
「子どもができた」
母との電話の中で、そう伝えた。
「母には、自分の設定したタイムリミットのことも、いろいろ悩んだ上での決断であることも話していませんでした」
最初は当然のごとく「結婚もしていないし、準備もなくやっていくのは大変だから」と、反対された。
「母からすれば、付き合っている人の紹介も、結婚を考えているという話し合いもなく、いきなり妊娠したという報告を受けたんです」
「産まれてきても祝福できないし、産むなら絶縁すると言われました」
母がそこまで怒るのは珍しいことだった。
「それを目の当たりにして、やっと、それまでの経緯や理由を話すことを決めたんです」
「何年もかけて話し合うようなことを、母は数ヵ月で受け入れなきゃいけなかったんだから、混乱して当然ですよね」
話を聞いて、母は涙ながらにこう言った。
「あなたが悩みながらだした答えを、私は今までなにも知らなかった。一人でつらい思いをさせた」
「親として何もしてあげられなかった」
その後2〜3ヵ月かけて、パートナーと一緒に母を説得。
その中で、普段はあまり自分の思いを口にしない、パートナーのまっすぐな気持ちを知った。
「2人で頑張りなさい。その子のために」
母は、最終的にそう言ってくれた。
「これからは大事なことはしっかり相談してほしい。家族なんだから」と約束もした。
私たちのところに子どもが来てくれたことで、結果的に、家族の絆がより深まった。
まだ産まれていない子どもから、すでに多くのギフトをもらっていた。
2016年1月6日
職場では、子どもができたことを一部の上司にしか伝えていなかった。
つわりがきてつらかったが、周りに悟られないよう耐えた。
そんな姿を見たパートナーから、体を気遣うメールが頻繁に届いた。驚いたと同時に、心配してくれる人がいるという安心感も覚えた。
「配送の仕事は、重い荷物を運ぶこともあります」
「ちょうど妊娠6ヵ月になったときに仕事を辞めることにしました」
年が明けて2016年。
1月6日早朝に、お腹の張りと腰の痛さで目が覚めた。
10時に出血。「おしるし」だった。
それから、次第に痛みは強くなっていき、13時に2回目のおしるし。
2016年1月6日17時18分。
元気な女の子が産まれた。
今まであんなにお腹が出ていたのに、もう空っぽなのが不思議だった。
「その日は、寝るまでたくさんのことを考えました。女性はこんなに必死な思いをして、子どもを産んで育てているんだって」
「これで少しは女性の大変さがわかった。いずれきっと、何かの役に立つだろう」
この日の日記には、「今までの人生で一番幸せな日」と記した。
10私の人生には、可能性がある
理解し尽くさなくてもいい
子どもを授かったとき、パートナーから「結局、俺の前にいるのは(女性?男性?)どっちなの?」と言われた。
子どもに言うかどうか、という話もした。
「世間一般的には女性として見られてOKと答えました」
「あなたの目の前にいるのも、女性だと思ってくれて構わないと言いましたね」
世間一般の夫婦と同じように、相手を理解できないことが、1つや2つあってもいい。
我が家の場合は、セクシュアリティがその一つだったというだけだ。
「最近は、SNSなどを通じて知り合ったFTMのお母さんと交流することもあるんです」
「今この現状を周囲にカミングアウトしているのかとか、なぜ産むことを決断したのかとか、そういう話をします」
「夫(パートナー)はそれを知っているのか、理解しているのかについても話しますね。もちろん、普通に子育ての悩みも話しますよ」
2児の母として生きる
「25歳のときに書いた自叙伝には、性被害のことも、PTSDのことも、GIDの診断のことも、包み隠さず書きました」
「自分は被害者だと訴えたかったわけではありません」
「同じ悩みを抱えている人がいると知ることで、救われる人がいるかもしれないって思いました」
「つらい思いを抱えている子どもがいるかもしれないことを、教育者側にも知ってほしいんです」
自分と同じようなことで苦しむ子が、少しでも減りますように。
2児の母となった今、ますます強くそう思う。
手放したもの
20〜40代は、体力的にも経済的にも、自分のやりたいことができる時期だろう。
自分はその期間、子どもを産むことを引き換えに、望む性で生きることを手放した。
「子育てがひと段落した後どうするかは、まだ決めていません」
「そのときの家族の状況によって、あらためて考える日がくるだろうって予感がします」
心は男で、体は女。
「いつか、なりたい体になるために治療をする日がくるかもしれません」
「子どもを産んだから終わりではないんです。私の人生には、まだまだたくさんの可能性が待っています」