INTERVIEW

LGBTに止まらず、あらゆる差別なき社会を【後編】

LGBTに止まらず、あらゆる差別なき社会を【前編】はこちら

2016/06/03/Fri
Photo : Mayumi Suzuki  Text : Koji Okano
阿井 束裟 / Tsukasa Ai

1986年、東京都生まれ。大学生の就職活動では、面接で自らがMTFであることをカミングアウトしながらも、数社から内定を獲得する。大手アミューズメント企業で正社員として、社会人生活をスタート。今は照明の専門商社の事務職として働く傍ら、休日は当事者やその家族の支援活動を行っている。

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INDEX
01 初恋は女の子、その次は男の子
02 心とは裏腹に、身体は大人びていく
03 テレビの中にあった自分の分身
04 インターネットが開いた社会への窓
05 男よりは、女として人生を歩みたい
==================(後編)========================
06 性同一性障害でバイセクシュアル
07 両親へのカミングアウトを前に
08 家族の支えを得て、いざタイへ
09 あるべき心と身体を得て社会人に
10 あらゆる差別なき社会を目指して

06性同一性障害でバイセクシュアル

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少しだけ自分を貫いて

「昔から裁縫や料理が好きだったから、家政学科のある大学に進学したかったんです。まずは母にそう、切り出してみました。けれどあっさり『男なのになんで?』と反対されて。ああこれは駄目だ、と諦めました」

「私が男である限り、どれだけ説明しても納得してはくれないだろう、と。うちの家庭では、まず母に相談して承諾してもらえなかったら、父も首を縦に振ってはくれないんです」

ならば心理学科を受験したい、と母に伝えた。

ちょうど進路を決める頃、高校3年生のときがセクシュアリティに関する悩みのピークで、同じような境遇の人を助けられるカウンセラーになりたいと考えたのだ。

「今度は『心理学科だと卒業後の生計を立てるのは難しい』と言われて。でも、もう譲れないと思いました。どうしたら少しでも興味がある道に進めるかを考え、福祉心理学科のある大学へ進学することに決めました」

福祉や介護の現場で働くには、心理学の知識も必要になってくる。

実用的な視点から人間心理を学べる大学だった。

「母も『介護だったら潰しが利くから』と、しぶしぶ進学を認めてくれました。けれど私は大学付属の高校に通っていたから、親としてはそのまま経済や法学部へ行って欲しい、というのが本音だったみたいなんです」

高校時代の人間関係を一度リセットしたい、という思いもあった。

本当の願いは叶わなかったけれど、状況をうまく整理して一手を打ち、自分の手で掴み取った進路だった。

性志向の確信

大学には千葉の自宅から通っていたため、学校環境以外で、大きく生活が変わった部分はない。

そのまま高校生から付き合っている彼女も存在した。

「だけど大学生になっても、やはり振られるのは私の方で。入学して半年後、また一方的に別れを告げられました」

失恋しても一時的に凹むものの、引きずるタイプではなかった。

いつも告白される側、受け身だったのが幸いしてか、恋に溺れることもない。

当時は「mixi」の全盛期。失恋の数ヶ月後、今度は ”マイミク” 男性から告白され、付き合うことになった。同性と付き合うのは、この時が初めてだ。

「なんてラクなんだ、と思いました。彼はゲイ、いわゆるタチの方で、全てにおいてリードしてくれたから。今まで付き合ってきた女性は男の風貌の私に、もちろん男らしさを求めるから、主導権を押しつけられて苦痛だったんです」

「初めての同性との付き合いでしたが、異性との交際と同じくらい、自分にしっくりくるものでした」

こうして自分はバイセクシュアルと認識したが、不思議とそこに迷いはなかった。

「ああそういえば小学生の頃、キムタクに似た男の子が好きだったな」と思い出して納得する、良い機会にもなった。

「でも、また振られるのは私なんです。しばらくしたら『思ったより女っぽい感じだから、相手は君じゃなかったかも』と、別れ話になって。女っぽいっていう指摘だけは、相変わらず嬉しいんですけど、やっぱり失恋は、そんなに経験したくないですよね」

その後、付き合ったのは女の子、また向こうから告白された。

どちらの性の人と肌を重ねても、不思議と違和感はない。

自分は男であると同時に、また女性の思考も兼ね備えている。

そう思うと、自らの性志向も整理して納得することができた。

「結局その女の子にも振られて、しばらくしたらまた、別の女の子から告白されたんです。大学でも女子との距離感が近かったから、私を見て『あっ、この人、自分のことが好きなのかな』と感じるみたいで。そうして付き合うことになるんですけど、また『もっと男らしくして欲しい』と振られて」

次に告白されたのは男だった。しかもいわゆるノンケだ。

「私、男だけどいいの?」と聞いても、それでいいのだ、と言う。

「身長が低くて、顔立ちもまだ、女性っぽい感じだったので。そこが彼に響いたみたいなんです。男性と付き合うと主導権を取らずに済むし、それに自分は女なんじゃないか、そう思える瞬間がたまに訪れるんです」

「女性と付き合っている時も、ふと相手と同化して、自分が女と思える瞬間が来る。自分が男女両方を好きになれるのは、そんな理由からくるのかもしれない。この頃には、そう考えられるようになりました」

そうであるなら、なおさら本来の自分、女性に生まれ変わらなければならない。

交際は順調。
肝炎で1ヶ月入院することになったが、病院にも療養中の自宅にも、彼氏は毎日のように見舞いに来てくれた。

ただ男の自分を見舞いに、男友達が頻繁に来る様子に、母親が訝しがり始めた。

カミングアウトと性別適合手術の相談。

その両方を親に持ちかける瞬間が訪れつつある、と感じてはいた。

07両親へのカミングアウトの前に

計画を実行へ

カミングアウトを経て、性同一性障害の治療に踏み切ろうと思ったのには、もう一つ理由があった。

「肝炎が完治したのが大学3年生の秋くらい。ホルモン投与の治療から1年が経たないと、たとえタイに飛んだとしても、性別適合手術はできません。施術後3ヶ月くらいは療養が必要なことも知りました。大学を卒業して社会人になれば、時間の制約で手術が受けられなくなると考えていたんです」

「逆算すると、すぐにでも治療を始める必要があったんです」

実は性別適合手術を見越して、大学入学後はアルバイトにも励み、すでに100万円の貯蓄があった。

「ただ当初の計画より、20万円ほど足りなかったんです。カミングアウトをして解り合えれば、社会人になったときに返すのを条件に、親がお金を貸してくれるかと思って。そういう意味でも、急がないといけなかったんです」

友達の後押し

しかし、なかなか親と向き合えず、無駄な時間が過ぎていく。

そんな自分の背中を押してくれたのは、ある友人の存在だった。

「大学1年生のとき、知人の紹介で出会った、少し年上の女友達で。そのときに彼女を連れていたから、ああこの人もバイセクシュアルなんだ、って分かりました。自分と同じ境遇だからか、一気に仲良くなって。大学には行かず、20歳で自分のお店もマンションも車も手に入れたような人で、すごく頼り甲斐もあったんです。で、出会ってしばらくして、彼女の家に泊まりに行ったとき、カミングアウトして全て打ち明けてみたんです。当時はまだ私も男の外見だったので、彼女はすごく驚いていました」

「バイセクシュアルはわかるけど、性同一性障害は、なかなか理解できなかったみたいです。でも打ち解けて、彼女はその後、メイクの仕方なんかを教えてくれました。もちろん私はまだ男だから、メイクして外を歩いたりはしなかったんですけど」

その友達の一言が、親へのカミングアウトに踏み切らせてくれたのだ。

「女として生きるようにしてみたら、って。シンプルな言葉だけど、真に分かり合えた友達に言われると、また違うんです。心に響いて、思わず頷いたら、今度は病院で診断を受けてみたら、って提案してくれて。親へカミングアウトしたら、治療を受けよう」

「彼女の後押しで、そう思えるようになったんです」

このとき自分の背中を押してくれた友人は、今でも一番の親友だ。

08家族の支えも得て、いざタイへ

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親と子の歪み

そして迎えたカミングアウトの日。

生活できるくらいにまとめた自分の荷物を持って、親友が家の外で車を止めて待ってくれていた。

カミングアウトの結果、親に「出ていけ」と言われたら『はい』と言って立ち去れるように、と思っていたからだ。

まずは母親に打ち明けてみた。

「性同一性障害でバイセクシュアルです、とそのまま言いました。彼氏が毎日、家に来るようなことがあったから、母は私がバイセクシュアルだということは、衝撃ながらにも受け入れることができたみたいです。でも性同一性障害だとは思っていなかった」

「もうダブルパンチで、本当に親不孝だったな、なんて今だから笑って振り返れます」

とはいえ母親は、すぐには納得してくれなかった。

それでも前に進もうと、今度は父親にもカミングアウトした。

「父親は『認めたくないし、認めるつもりもない』という感じで、無言でした。その後2年間は口も聞きませんでした。性同一性障害のことは『3年B組金八先生』を観て、知ってはいたようです」

結局、両親は拒絶こそはしなかったが、すぐに理解を示さなかった。

このカミングアウトの後、意を決して性同一性障害の治療をスタートさせるが、両親は息子の勘違いだと証明したかったのだろうか、勝手に自分が通院するクリニックに足を運んでしまう事態となった。

「でも医師の口から、息子さんは性同一性障害ですよ、と告げられただけでした。母親は事実を飲み込むしかない、と思ったようで。その後、ホルモン治療が始まりましたが、足りないお金を工面してくれるようになりました。父は私には言わないけれど、手術直前まで治療には反対していたようです」

和解するとき

そしてホルモン治療を始めて1年。

大学4年生の1月になり、タイの病院に性別適合手術へ行くことになった。

「私のカミングアウトが原因で前の年には行かなかったお正月の初詣に、年明け早々、家族全員で行くことになったんです。そうしたら例年とは異なり、通常のお詣りではなく、神内で祈祷してもらうことになって。『なぜ?』と思っていたら、『束裟』という改名した名前で呼ばれて、手術の安全祈願をすることになりました」

「母親に『これはお父さんの気持ちだから』って言われて、初めて父が理解してくれたことに気づいたんです」

『束裟』という名は母親が付けてくれたそうだ。

「もともとの名前は本家が勝手に決めたらしく『今度は私が決める!』と母が譲らなかったそうです。もともと家族全員、イニシャルがTAなので、それも変えないように、画数も考えてくれたみたいで。あとは『男だった自分もあなたでしょ』という思いを込めて、中性的な名前をつけてくれました」

両親が我が子の幸せを思う気持ちを、痛いほど味わった正月だった。

タイへ旅立つときも、母と妹が空港まで見送りに来た。

父の姿はなかったけれど、もう十分だった。

09あるべき心と身体を得て社会人に

再出発の時

実は日本を離れるのは初めてだった。

大学時代は勉強とアルバイトに明け暮れていて、海外旅行する余裕などなかったのだ。

「タイで性別適合手術を受けた、と言うと、みんな『大変そう』『痛そう』って沈んだような表情をするんですけど。これは手術を受けた人それぞれだと思うんですが、私は術後の痛みもあまりなくて、初海外を楽しんできた、という感想でしかないんです。もちろんタイ、そのあと日本に帰ってからの治療で、痛みを伴うものはありました。でも術前のホルモン治療も含め、幸い私は副作用も痛みも、それほどではなかったんです」

手術直後の身体を観た感想も、ああ女になったんだ、そういえばジーンスも履きやすいな、と淡々としたものだった。

それが実感と歓喜に変わったのが、帰国直後、空港で親友に迎えられた時だ。

そのままお祝いにお寿司を食べに行ったら、醤油の味わいが思いの外、身に沁みた。

「ああ私は日本で、女性として、初めの一歩を踏み出せるんだ」。

その歓びが、足の先から全身に込み上げた。

本音で話して

実は手術の前、大学4年生の就職活動は、自らが性同一性障害であることをカミングアウトして臨んだ。

「一生、ネクタイとスーツで働くのは嫌だと思って、踏み切った性別適合手術です。なのに就職して男性の格好を強いられたら、意味がありません。でもいきなり本命の会社の面接でカミングアウトするのも難しいので、最初は入社の気がない会社を受けて練習をしていました」

「今になっては、その会社の方々に申し訳ない思いはありますが、場数を踏むと慣れてくるんです。最後の方は本当にリラックスして面接に臨んでいました」

受け入れてくれる会社はあった。

数社から内定を得て、今度はその自信を周囲へのカミングアウトに繋げた。

だんだんと、本当の自分を理解してくれる輪が広がっていく。

「卒論はタイの病院から書いて提出して、無事入社式を迎えたのですが。戸籍変更が間に合わなかったんです。人事部等の一部の人には伝えたのですが、それ以外の人には、同期にも『女性です』と言って入社しました。戸籍が変わったのは6月くらいなんですけど、皆、性別適合手術を経た私を女性として自然に受け入れてくれました」

思い描いた通り、スーツやネクタイと縁のない、女性として社会での一歩を踏み出せたのだ。

10あらゆる差別なき社会を目指して

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私にできること

しかし就職活動に性別適合手術、戸籍変更と、さすがに目まぐるしい1年。

社会人になったものの、どこか燃え尽きたような感覚を覚えた。

そんな自分を奮い立たせようと、自社の店長職の試験を受けて見事一回目で合格するが、実際に経験してみて、自分はマネジメント側には向いていない人間だと悟る。

「アシスタント的な仕事の方が向いていると、自分の頭の中で整理が付いたんです。その後、営業職や介護職を経て、今は照明の専門商社の事務職として働いています。今が一番、力を発揮できていると実感していて。もちろん営業職をサポートする仕事なんですけど、だからこそ外から客観視して、提案できることもあるんです」

休日はLGBTの仲間達とともに、過去の自分と同じように悩む当事者やその家族への支援活動を行っている。

「今は有志で活動している感じですけど、いずれは企業として活動できるようにしたい。そう仲間と話し合っています。どこからも援助を受けなくても、LGBT当事者が会社を立ち上げ、いきいきと働いたうえで報酬を得られる。それが普通になれば、どんな企業でもLGBTが、自分らしく働けるはずなんです」

「だからそのロールモデルになりたくて」

公私の充実を支えてくれるのが、パートナーの存在だ。

相手はストレート男性だが、自分、そしてLGBTに対して深い理解を示し「俺が必要なら、いくらでも活動に協力するよ」と、いつも応援してくれている。

本来の自分の性、女として生まれ変われて、本当に良かった。

今はただ毎日が楽しい。

言い訳にしない

「性別適合手術を経て、女になりましたって話すと、『さぞ辛い人生だったんでしょうね』って言われることもあるんですけど。不思議と私、あまり悩まずに苦しまずに、ここまでやって来れたんです。昔から、どこか自分を客観視できる部分があって、性別適合手術にしても雲のようなふんわりした夢ではなかった。すぐに女性にはなれなくても、まずはできること、できないこと、したいこと、したくないことを頭の中で整理整頓して、実現できることから行動に移しました」

「自分がLGBTだということを言い訳にしたくなかったから。それに人が夢を叶えるためには、必ず努力しないといけない。それはLGBTも、そうじゃない人も同じだと思うから」

そうして自分のあるべき姿を手に入れられたからこそ、伝えたいメッセージがある。

「よく『私はLGBTだから』と自分で自分に枷をかけている人の相談を受けます。でも世の中って、そんなに『LGBT』に対して厳しいでしょうか。例えば私は就職活動を通して、企業は面接中に『この子は企業理念を理解し、目標に向かって成果を出せるか?その伸びしろがあるか』を見ているだけだ、と思いました。もちろん全ての会社に言えることではありませんが、そこにLGBTかどうかという判断基準は、あまりなかったように感じています」

LGBTを取り巻く現状に対して思うのは、自分たち当事者が、世の中に対して卑屈になってはいないか、ということだ。

「私の好きな本の中に、有川浩さんの『レインツリーの国』という作品があります。主人公は健聴者の男性で、難聴を抱えた女性と交流を重ねていく物語なのですが、互いを理解する上で大切なことは、まず自分の壁を取り払うこと、次に ”分かってほしい” ではなく、”分かってもらおうと歩み寄ること” だと、この本を通して学びました」

「LGBTの問題も『どうして分かってくれないんだ』や『差別される苦しみを知ってほしい』では、駄目だと思うんです。どうすれば当事者以外に理解してもらえるか。その視点を大切にすれば、自分がLGBTか否かすら気にならない社会が訪れるんじゃないか、と本気で思っているんです」

「それはきっと、あらゆる差別のない社会です」

自分がLGBTだと、カミングアウトする必要すらない社会。それは確かに、あらゆる差別のない社会なのかもしれない。その実現、相互理解を深めるためには、現状を受け入れて整理する力、阿井さんのような客観的に物事を捉える視点が大切なのかもしれない。

あとがき
「成熟した個性」。束裟さんの第一印象だ。淀みのない話し、軽やかな笑い声は、荷物をまとめてからお母さんにカミングアウトしたシーンを忘れさせるほど■進学、就職−−− 男性はまだまだ「立身出世」を望まれるのか。家政大学を希望した束裟さん、心配なく生きて欲しいと純粋に願う親心、身にしみた■生きていく上で生まれる悩みは、複雑。でもそれを嘆くだけではなくて・・・・・・ 私たちが受け取った束裟さんからのメッセージだった。(編集部)