02 男の子とばかり遊んだ幼稚園時代
03 小学校では女子グループへ参入
04 野球をやりたくて隣の小学校へ
05 金八先生で「性同一性障害」を知る
==================(後編)========================
06 人気者の心には悩みがふくらんで
07 「彼女」とのお付き合いで初カミングアウト
08 母親へのカミングアウトは手紙に書いて
09 米国で見たプライドパレードに大感激!
10 誰かのロールモデルになれれば
06人気者の心には悩みがふくらんで
「トランスジェンダー」が腑に落ちた
「中学時代の自分は、超友だち大好き人間でうるさいほうの人だったかな」
先生にもよく注意されて目立っていた。
一方、心の中のもやもやは、前よりもふくらみ「悩み」と言えるくらいに大きくなっていた。
「最初、自分はレズビアンかなと思ったんだけど、女の子が女の子を好きになるのとは、違うなって思ったんです」
「その流れでインターネットで調べて、『トランスジェンダー』『性同一性障害』というキーワードにたどり着きました」
「小学校のときに見た『金八先生』と同じじゃないかってわかったら、なんか、“腑に落ちた” っていう感じでした」
性同一性障害は「障害」?
腑に落ちたけれど、その分、抱えるものがまた一つ増えた。
それまでは「自分は何者だろう?」という思いが強かったが、自分がトランスジェンダーだとわかっても、だれにも言えない。
「自分に『障害』があるって思いたくなかったし、自分一人だけではないかって」
何より、友だちの輪からはずれることが一番不安だった。
「いじめや仲間はずれの標的にされてしまうから、とにかく自分が思っていることを、だれかに知られてはいけない、と必死でした」
「好き」の気持ちは止められない
仲の良い女の子がいた。
でも、自分のセクシュアリティのことは口にできなかった。
「仲が良い分、本当の自分を知られたら、友だちの気持ちが離れてしまうんじゃないかって、頭がいっぱいになりました」
一番近くにいる子に知られたら、一緒の空間が無くなってしまう。
「だから黙っていないといけなかったんです。しかも、その子のことが好きでしたから」
「その子は男子からモテるので、ちょくちょく彼氏ができて、その度に恋の悩みを相談されるんですよ」
「めちゃくちゃ傷つきました」
「『○○くんと別れたい』とか言い出すと、早く別れればいいじゃん!って思ったし、口にも出しましたね(笑)」
「小学校時代の『好き』とはちょっと違う。『好きな気持ちを止められない』っていう感じでした」
自分の胸の内は “男として、親友を好きになった” のだ。
だけど、そんなことを言ったら、おかしいと思われてしまう。
でも、好きな気持ちは止められない。
自分の「好き」を追って、堂々巡りをせざるを得ない中学時代が終わった。
07「彼女」とのお付き合いで初カミングアウト
女子高に進んだ3つの理由
高校はあえて女子高を選んだ。
その理由は3つある。
「1つ目は、女子高に行けば男女に分けられることがない、っていうこと。そもそも男子はいないわけだから」
「中学のときは事あるごとに『男子はこれやって、女子はこっち』って指示されてたけど、それがすごく嫌だったんです」
2つ目の理由。
「これはSNSの掲示板とかで見たんで、うわさかもしれないけど、女子高にはLGBT当事者が多いって」
「少なからず、そういう人に会ってみたい、自分一人の問題じゃないって思いたかったからなんです」
そして、3つ目の理由。
「彼女が欲しかったから。女の子と付き合ってみたくて(笑)」
彼女ができたのは、高3の5月だった。
彼女のほうから「恋愛対象として好きかもしれない」と、告白された。
高3で初めて同じクラスになった女の子だ。
「自分は学校の中でも目立つ存在。でも彼女が告白してくるとは、想像してなかったです」
「自分から言いましたよ、『付き合ってみよう』って」
「映画を見に行ったり、普通にデートしたりしてました」
彼女の悩みからカミングアウトへ
そのころはまだ、だれにもカミングアウトしてなかった。
彼女も女の子を好きになったことを、悩んでいるみたいだった。
「その悩みを聞かされて、思わず『いや、自分はトランスジェンダーかもしれない』って。初めて付き合った人が、初めてカミングアウトした人になりました」
二人が付き合っていることは、周りには内緒にしていた。
彼女はけっこう積極的。休み時間のたびに近くにやって来て、スキンシップは濃厚だった。
「そういう場面を見ていた子たちからは、あの二人付き合ってるんじゃね、みたいにうわさが流れたんですよね・・・・・・」
彼女の次にカミングした相手は、「付き合ってるの?」と直接聞いてきたクラスメイトだった。
高校に入って最初にできた友だち。親しかった。
「その子にカミングアウトしたけど、すんなり受け入れてくれました」
「たかしはたかしでいいんじゃないの」と言ってくれた。
次の日からも態度は変わらなかった。
「カミングアウトしても意外と平気だな、と思えました」
重い荷を降ろしたと思えたけど
この人なら言ってもいいだろうと思える友だちには、少しずつカミングアウトするようになった。
毎回、緊張した。
「すっごく重い荷をおろした気分になりました」
付き合っている彼女は、インターネットで性同一性障害のことを調べてくれた。
「自分のことをわかろうと気を使ってくれて、うれしかったですね」
「友だちに恵まれていたし、たかが高3で、こんなに幸せでいいのか?! っていうぐらい」
彼女は将来のことをちゃんと考えている子だった。
しかし、順調に付き合っていたある日、彼女から思わぬ言葉を聞いて、衝撃を受けてしまった。
「将来、結婚して子ども産んで家族を持つだろうって、彼女は想像していたんです。『だけど、たかしと付き合っていたら、そういうことないんだな』って、言われて」
「確かにそうだなと思ったけど、すごいショックでした」
自分にとって衝撃だった以上に、彼女に対して申し訳ないっていう気持ちが大きかった。
「自分は子どもが好きじゃないから、いらないって思ってたけど、多くの人はやっぱり子どもを持ちたいんだな、って知ったんですよね」
当時は、養子縁組の制度や人工授精の知識がなかったし、まだ、自分の将来像が描けなかった。
「大人になってどう生きていけるのか、わかりませんでした」
08母親へのカミングアウトは手紙に書いて
留学経験から進路が決まった
高校2年のとき、オーストラリアへ2週間の短期留学を経験した。
「初めての海外経験は、すごく楽しかったです」
ただ、ホームステイ先の家族とは、単語でコミュニケーションをとるのが精いっぱい。
「初めて電子辞書で調べて話しかけてみたら、ちゃんと通じたのがめっちゃうれしかったです」
これがきっかけで、もっと英語を勉強したいと思えた。
「人生の分岐点と言っていいくらい大きな経験でした」
大学進学は、英語が学べる学科を選んだ。
両親は進路について口を挟むことはなかった。
「自分の好きにすればいいよ」と言ってくれた。
現実のLGBT当事者と会う
もう一つ、そのころの自分にとって次の一歩を踏む出来事があった。
SNSを通して、LGBTの当事者とつながり、当事者と会う機会が増えていった。
「当事者と会うことで、めっちゃ楽になりました」
「同じようなことに悩んでいる人がいると知って共感したし、初めて『同性感』を持てたんです」
「それまでは、男友だち、女友だち、どちらにもついていけない、わからない部分があるような感じでした」
「男性についていけないって思ったのは、特に性の話題で、やっぱり身体が違うからわからないことがあるな、って」
「FTMの友だちと一緒にいるときにだけ、『ああ、同性だ』と思えました」
「予感はしていたけど」と母親
大学1年の9月、親にカミングアウトすることにした。
母親の誕生日の夜、便せん4枚分の手紙を書いた。
前半の2枚は母親への感謝のおもいを。
後半2枚で自分がトランスジェンダーであること、治療したいことなど、あふれる言葉を振り絞った。
翌日、鏡台に手紙を置いて、授業へ出かけた。
「母は手紙を読んだら、きっとメールしてくるだろうなとわかっていたので、授業中、何度も携帯を手にとってチラチラ見てました」
「2限目が終わってやっと携帯を見たら、案の定、母からメールが入ってました」
携帯を開くと「見たよ。何となく予感はしていたけど、まだ心の準備ができていないので最後まで読めません」と続いていた。
ひとまずは安心した。
しかし、母親が勤め先から帰って来て「治療すれば治るんじゃない?」と、話しかけてきた。
「手紙を書くときは、母親だからわかってくれるだろう、という期待がちょっとあったんですけど、でも、いや、そんなもんじゃない、って思いました」
ただ、強く否定されることはなかったので良かったと思う。
「お父さんにはまだ、話さないでおこう」と約束した。
父親にカミングアウトしたのは、アメリカ留学が終わって1年後のことだった。
「誕生日に父から『おめでとう』のメッセージが来たので、その返信でカミングアウトしました」
返事を書くのにはいろいろと迷った。
2日後、ようやく返信して自分がトランスジェンダーであることを伝えた。
「父は『お前が治療したいなら、やっていこう』と、返事してくれました」
その後、父とセクシュアリティについて会話をしたことはほとんどないが、現在は両親とも治療や今後の生き方について、理解を示している。
「『好きにしなさい』って、背中を押してくれます」
09米国で見たプライドパレードに大感激!
LGBTの祭典に驚き
大学1年の2月から、アメリカに語学留学した。
オレゴン州にある大学で10カ月間、寮生活を過ごす間、衝撃的なイベントに立ち会った。
サンフランシスコで行われたプライドパレードだ。
LGBT当事者を中心に、支援者たちが道にあふれて行進する。
「めっちゃ大規模な集まりで、有名な大企業が賛同していたのにも驚きました」
「同性同士で結婚したことをアピールする人がいたり、それを祝福する雄叫びが沿道から湧き上がったりで、最高に盛り上がって」
「日本もこうあるべきだ、と思いました」
当時は、日本でも同じようなパレードがあるとは知らなかった。
「こういう空間があるんだって新鮮だったし、日本でもやりたいという思いが、じわじわこみ上げてきました」
帰国後、支援団体に参加
日本に戻ってきて、LGBTを支援する団体があることを知った。
ゴールデンウィークに開催していたイベントに行き、代表者に直接「自分も参加したい」と告げる。
「今では学校や企業、役所とかに行って、出張授業をやったりしています」
「代表がLGBTの基礎知識を話した後に、自分たちがLGBTの当事者としてどう思って生きてきたか、っていう話をするんです」
どこかで生きている、LGBT当事者の希望になりたいと思った。
「当事者同士で行動するときは “本当の自分” を隠す必要がないから」
「それまでは、新しい学校に入るときや新しいバイトを始めるときに、自分が女子と見られても、男子と見られても、自分が何かを隠しているようで、不安を感じていました」
「どっちにしろ、辻褄が合わないと隠し事をしている感覚になっているわけだから・・・・・・」
活動している間は、そういう後ろめたい気持ちがまったくない。
安心していられた。
10誰かのロールモデルになれれば
就活を控え治療をスタート
性同一性障害と診断されたのは、高校在学中。
ジェンダークリニックに行ったが、その時点では診断書はもらわなかった。
「治療するときは来てね」と言われていたから。
就活までにはなんとか整えておこうと思ったので、大学3年の終わりごろからホルモン治療を始めた。
20日ごとにホルモン注射を1本打つ。
「母親には、そろそろ治療を始めるかも、とだけ言っておきました」
「少し時間がたって声が低くなって来たら『あんた薬飲んでるの?』って聞くから、『薬は飲んでないけど注射をしてるよ』って答えたんです」
少しずつステップをふんで
友だちとタイへ渡航し、乳腺摘出手術を行った。
次は名前を変更したい。
将来好きな人ができて結婚することになったら、他の手術や戸籍変更についても考えようと思っている。
「自分は『これやりたい!』と思ったら、やらないと気が済まないタイプ。来るときが来たら、また次のステップに進もうと思ってます」
「とりあえず、一人旅から帰ってきてからいろいろ考えようかな」
今の気持ちを数字に表すと、幸せ8割、不安2割かなと思う。
この割合は、どんどん変わっていくだろう。
それはいろいろな可能性があるということ。
何かに縛られずに、自由に生きていきたい。
「今までも何か迷うと直感に従って生きてきました」
大学を卒業して、就職して、結婚して、家族を持って、というロールモデルは自分にはない。
「3年後の自分を想像しても、今はわからないですね。でも、LGBTにかぎらず、自分の生き方全部がだれかにとって、一つのロールモデルになれればいいなって思います」