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自分を肯定して、人生を謳歌したい【後編】

自分を肯定して、人生を謳歌したい【前編】はこちら

2016/10/10/Mon
Photo : Mayumi Suzuki   Text : Koji Okano
白木 理 / Satoru Shiraki

1977年、兵庫県生まれ。女性として生まれた自分に疑問を持ち、17歳の時にカミングアウト。母親に拒絶されて一度は女性のまま生きることを決めるが、37歳の時のカミングアウトを経て、タイで性別適合手術を受け、戸籍も男性へ変更した。兵庫県の臨時教員や児童養護施設の指導員、通信制高校の教員を経て、現在は心理カウンセリングを行う傍ら、『FUN PROJECT』を始動中。ライブやトークショーなどを通して、自分らしく人生を楽しむコツを伝えたいと考えている。

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INDEX
01 古風な母親と愉快な兄貴
02 どうして男の子じゃないんだろう?
03 僕は理想の僕じゃない
04 初めてのカミングアウト
05 女として生きられるかもしれない
==================(後編)========================
06 とにかく母親を安心させたい
07 性同一性障害の診断書
08 心の声に耳を傾けて
09 再びのカミングアウト
10 誰でも人生を謳歌できる

06とにかく母親を安心させたい

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私、オンナになる!

「『オカン、ワタシ、女として生きていく』と母に告げました。そのときは本当に、女としてやっていける自信があったんです」

母親はもちろん、大喜びだ。

その言葉の勢いのまま、持っていた男性用の服は捨てた。

すると母親はさらに喜んで、かわいい服をたくさん買ってくれた。

「化粧なんかしたことないから、『どうやってするの?』って大学の女友達に聞いて、一から教えてもらったんです」

「話し方も、自分のことを『おいら』とか『おいち』って言っていたくらいだから。女性らしい言葉遣いって全然、わからないんです。『どうやって話したらいい?』って、これも大学の女友達に細かく聞いたんです」

それだけではない。家にいても、どうやって寛げばいいか分からない。

女の子らしい家での過ごし方ってなんだろう、そんなことばかり考えていた。

「友達とカフェにいても、スカートを履いているのに股を広げて座っていることがあって。20歳まで自分を男だと思って生きてきたんです。ついつい、地が出てしまうんですよね」

それでも少しずつ、仕草は女性らしくなり、メイクも上出来、レディース服も着こなせるようになってきた。

女性らしさが板についてくるにつけ、身体と心の不一致が解消されていく。

「身体への拒否感が薄らいで、楽になれました。そして、母が喜んでいてくれるのが、何より嬉しかった」

ようやく娘を取り戻した母の楽しそうな笑顔を見ては、これで良かったんだと信じていた。

性指向は同じ

母のために女として生きなければ、と思っていた。

が、性指向までは変えられなかった。

「やっぱり好きになるのは、女性なんです。女の格好はしているけど、好きな女性の前では、男の顔が出てしまうんでしょうね。僕から告白したり、されたり。ストレートの女性と付き合うこともあれば、バイセクシュアルの人と交際することもありました」

レズビアンの恋人ができることがなかったのは、やはり自分を男性として求めてほしい、という気持ちがあったからかもしれない。

「でも、女として生きると決めたなら、男性と付き合わなきゃ、と思ったこともありました。それで無理に交際したんですけど、ダメでした」

「いい人だなとは思っても、セクシュアルな魅力は全く感じられなくて。もうキスすら、気持ち悪くて無理なんです」

その後も女性との交際が続いた。

大学を卒業して就職した後、26歳からは彼女との同棲生活も始まった。
もちろん、事実は母親には知らせていなかった。

娘が女性と付き合っている。

せっかく自分が生まれ変わったと思っている母親を、再び悲しませたくなかったのだ。

07性同一性障害の診断書

結果はGID

しかし再び、心と身体の不一致に悩まされるようになる。

母親のために、と続けてきた女性としての生活。

しかし自分は、やはり男なのではないか、との疑念が再び首をもたげてきた。

「初めて同棲するようになって、彼女との関係性の中で、僕は男としての役割を意識している、と思ったんです。男である方が、ごく自然であるとも。それで、一度、病院へ行ってみようと思ったんです」

診断の結果は、性同一性障害だった。

やっぱりか、とホッとする思いだった。

ならばホルモン治療から始めて、いずれ性別適合手術という手段もあるだろうと思ったら、主治医の答えは「ノー」だった。

「親へのカミングアウトが済んでいない患者は治療できない、と言われたんです。あとでトラブルになると困るから、と。法律の問題ではなくて、昔、その病院が患者の親御さんと揉めたことがあったらしくて。以来そう決めている、と聞かされました」

結局、治療は諦めた。またカミングアウトして、母親を泣かせるのは嫌だったからだ。

「あと不登校の生徒をサポートする学習塾への転職が決まっていたんです。FTMの先生が教壇に立つというのは、生徒が混乱する可能性があるかもしれない、とも思いました」

大学で中学・高校の社会科の教職免許を取り、兵庫県の臨時教員や児童養護施設の指導員の仕事を経験していた。

教師という職業にやりがいを感じ始めた時期でもあった。

「彼女も『あなたが男でも女でも、私はどちらでもいいよ』と言ってくれたので。引き続き、女として生きることにしました」

母親、仕事、彼女。様々なことを考えての決断だった。

恋愛もない

「20代後半は、もう女性として生きることの気楽さに慣れきっていました。どうせ自分らしく生きることはできない、と諦めてしまっていたんです」

結局、彼女とは同棲を解消し、別れた。

その後、5年間、恋人ができることはなかった。

女性として生きるうちに、誰を好きになればいいのか、迷いが生じたのかもしれない。

生まれてからずっと故郷の兵庫から離れたことはなかったが、31歳の時、香川の通信制高校で教師をやることになった。

「教師という仕事にやりがいを感じていました。でも、この仕事を選んだのには、他に理由があったん。母が安心してくれると思ったからです」

「うちの娘、教師なんよ〜」と誇らしげに近所の人と話す母の姿が思い浮かんだ。

それだけで親孝行できている気がしたのだ。

08心の声に耳を傾けて

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望まない見合い

香川に行って気づいたことがある。

地元の人からすると31歳で独身の自分は、相当な変わり者に見える、ということだ。

地方の女性は婚期が早いのか、この歳で独身であることに、まず驚かれるのだ。

「『いやー、先生みたいに素敵な女性が、なんで独身なの?』って、保護者の方や、近所の人に言われて。ひっきりなしに見合いを勧められるんです」

外見は女性の格好、教師として言葉遣いにも気をつけているので、礼儀正しく控えめな女性に映ったのかもしれない。

「結局、いろんな人に紹介されて、30人くらいとお見合いしました。もう女性として生きることに決めていたし、結婚したら、その生き方により納得できると思ったんです。それに、何よりお嫁さんになって、母を安心させてあげたかった」

しかし何回、見合いを繰り返しても、男性に惹かれることはなかった。無理に付き合おうとしたこともある。でも続かなかった。

「『もうお金目当てでもいいじゃん、結婚しよう』と思ったこともあります。でもできない。母に電話で『誰でもいいやん!結婚できたら』と言われました」

一度、母にポロッと「男の人とキスができないから、結婚は無理」とこぼしてしまったことがある。

「『チューなんて、できなくていいやん!』と言われました。もうオトコオンナに戻らないで欲しい、母の強い拒絶感が言葉から感じられました」

やっと気づく

何回お見合いが失敗しても、やっぱり母親のために結婚してあげたいと思った。

33歳で神戸の実家に戻り、婚活に専念する。

「でも仕事を辞めて出会いの回数を増やしても、自分が惹かれる人はいませんでした。母は急かすけど、仕方がなかったんです」

やはり仕事は続けようと、デーサービス施設の管理者の職を得る。会社が大阪にあったため、再び実家を離れた。

そんな中で出会ったのが、今の妻だ。

当時はまだ21歳で大学生。香川の通信制高校で教鞭を取っていた頃の生徒だ。

「彼女の実家の親御さんから連絡があって。娘がひとりで関西に住んでいるので、先生が大阪にいるなら、定期的に様子を見にいってほしい、と言われたんです」

「当時の僕は女性として生きていたし、ご両親にしたら安心に預けられる、と思ったんでしょうね」

こうして彼女と頻繁に会うようになった。

回を重ねるごとに、女性同志ではなく、まるで男女の関係のように距離感が縮まっていくことに気づく。

「彼女は恋愛感情があることを僕に打ち明けるようになりました。でも僕は、女性として生きると決めたんです。だから巻き込むわけにはいきません」

ただ初めから、これは運命的な出会いかもしれない、と感じていた。

仕事をしていても、常に彼女のことが脳裏から離れない。

会うたびに、惹かれていく。

女として生きる、ずっと貫いてきた信念が揺らぎ始め、また悩みの日々が始まった。

そんな時に目に止まったのが、ある有名な心理カウンセラーのブログでの一言だ。

「『自分がどうしたいか悩んだ時は、心と身体に聞きなさい』。その言葉に、視界が晴れた思いでした」

自分の心と身体に向き合って聞いてみる。

「自分が男だって受け入れられなかったのは、あなた自身だよね」と、澄んだ声が返ってきた。

09再びのカミングアウト

覚悟の電話

母親に、すぐに気持ちを伝えたいと思った。

心の声を聞いたときから、もう腹は括っていた。

「『オカンが認めてくれなくてもいい、死に目に会えんでもいい、僕は男として生きるよ』と電話で言いました」

「『それだけは嫌やった。だったら、死んでくれた方がよかった』。20年前と同じフレーズを言われました」

「でも、平然としている自分がいて。『だよね』って答えたんです。『だけどもう、僕も37歳、自分らしく生きるよ』とも言いました」

「親子の縁を切られて、両親の葬式にも行けないかもしれない、とも考えました。でも覚悟を決めたんです」

しかし語気を荒げていた母親の声音が、ある瞬間から変わる。

「『性別適合手術をすれば、戸籍変更もできるし、結婚もできる。場合によっては子どもも持てるんだよ』と説明しました。そうしたら『なんでもっと早く、教えてくれへんのよ!!』って、急に前のめりになって」

「母は娘の置かれている状況を知りたい、けど怖くて、GIDの本なども読めなかったみたいで。知識が全くないから『男になりたい』とまた言い出したら、我が子は日陰で生きるしかない、かわいそうだと思い込んでいたようです」

「もっと早くに僕がしっかり説明しておけば、こんなに長くいがみ合わなくてもよかった。でも時間がかかったからこそ、より互いのことを理解しあえた、と今は思っています」

最強の味方

昨年2015年3月、タイに性別適合手術へ向かう前日、両親と3人で食事したときに、彼女がいることも伝えた。

「以前、母は僕と一緒にいる彼女を見かけたことがあって。『あの時の子と付き合ってるねん』って伝えたんです」

「『あの子、めっちゃいいやん。絶対、結婚するんやで!』と、母はすごく彼女のことを気に入っていて。なんなら私が彼女と僕をくっつけた、くらいの勢いなんです(笑)。あのカミングアウト以来、すっかり母は僕の味方になりました」

手術も無事に終わって、その年のうちに戸籍変更も済ませた。

激動の一年を親族に伝えることだけが億劫だったが、それも母親が解決してくれた。

「法事があって。既に見た目が男になっているから、いろいろ説明が面倒で僕は初めから、出席する気はなかったんです」

「でも母が『私がええって言うんやから、来たらええ』って強引で。もちろん法事の席で僕を見て、親戚一同、ドン引きしてるんですけど。お経の時間が終わったら、『あんた、ちょっと買い物に行って!』と母が指図したんです」

「で、戻ってきたら『娘、息子になってん!』って、全部、説明してくれていたみたいで。親戚の人たちも『もっと早く相談してくれたらええのに』って、優しい言葉を投げかけてくれました」

長い葛藤の時を経て、本当の親子、母と息子になれた。

10誰でも人生を謳歌できる

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夫になる

今年、彼女と入籍した。13歳離れた、年の差婚だ。

自分が男として生きると告げたとき、彼女から返ってきた言葉は「ああ、私、レズビアンじゃなかったんだ」だった。

彼女も彼女で、自分のセクシュアリティに迷いながら、自分と向き合ってくれていたと感じた。

「入籍するより前、同棲するときに彼女のお母さんにも挨拶に行きました。少女院でお仕事されていたときGIDの人と接したことがあるらしく、ずいぶん知識もあって」

「でも、自分の娘の伴侶となると、やはり戸惑いは大きかったようです。『素直に応援する気にはなれないけど、一番の願いは娘の幸せ。娘の意志を尊重します』と、言葉をもらいました」

入籍を聞いて、最も喜んだのは、やはり母親だ。

これから、式も挙げるつもりなので、そのときの笑顔が今から楽しみだ。

生きる楽しさ

自分の経験から、生きづらさを感じている人を助けたい、と思っている。

「僕もそうだったんですが、悩んでいるときは、答えを外に探す傾向があると思うんです。自分より不幸な人を探して、安心したりして」

「でも実は、答えは自分の中にあると思うんです。それを見つけて、自分で自分の味方になることが大事なんじゃないかって」

今はフリーランスで心理カウンセリングをしながら、悩みを超えたところ、楽しく生きることを発信している。

「ライブしたり、書を認めたり、トークショーも開催したり。僕が楽しく、いきいきしているところを見ていただくことで、誰かに元気を届けたいと思うんです」

「だから職業を聞かれたら『FUN PROJECT』って答えます。 FTMでも、こんなに楽しく生きられるんだということを知ってほしいんです。できるだけ有名になって、たくさんの人に生きる楽しさを伝えていければ、と思っています」

17年近くの長い期間、自らを押し隠して生きてきたからこそ、今はより生きる楽しさに貪欲になのかもしれない。深く長い悩みは、人生をより味わい深くすることもある。白木さんの道のりは、そんなことを物語っている。

あとがき
鮮やかなピンク色のシャツに視線がいくと、「いい色でしょ!」と、理さんは軽快な笑顔を向けてくれた。まるで先週も長話しした旧友のような、なんて気取りのない人なのか■理さんの顔が涙で歪んだ。それは、お母さんとの思いで話−−− お互いがぶつけ合った言葉たちは、月日を重ねて溶けていった。理さんが自分の未来を信じられた時、それはお母さんが笑顔の息子を未来に描けた時でもあった■親の心配はただ一つ。子供が幸せに生きていけるのか、ただそれだけ。(編集部)

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