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恋愛対象はゲイだけど、大切なのは性別じゃなくて、相手を思う気持ち。【後編】

恋愛対象はゲイだけど、大切なのは性別じゃなくて、相手を思う気持ち。【前編】はこちら

2018/01/10/Wed
Photo : Mayumi Suzuki Text : Ryosuke Aritake
木村 サスケ / Sasuke Kimura

1972年、千葉県生まれ。幼い頃に喘息を発症したが、中学時代に症状が治まり、高校時代にはテニスとボランティアに没頭。高校卒業後、郵便局に就職し、後に郵政省に勤める。36歳で郵政省を退職し、下着メーカー、保険会社などで働くかたわら、新宿二丁目のバーでアルバイトを続けた。2006年からゲイナイト「GLAMOROUS」をスタートし、現在も主宰する。

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INDEX
01 極貧だった幼少期と母の言葉
02 体が弱かった少年の変化
03 “女っぽい” という評価
04 時間を最大限活用した学生時代
05 嫌じゃなかった男同士の恋愛
==================(後編)========================
06 いち社会人として働く意味
07 彼女との別れ、彼との出会い
08 ゲイである自覚と人を好きになる気持ち
09 ゲイ向けイベントを続ける理由
10 “人のため” に自分ができること

06いち社会人として働く意味

お金を稼ぐこと

家が貧乏だったため、中学3年生の時からアルバイトを始める。

海沿いの街だったため、民宿で働いた。

時には海に潜り、伊勢エビやサザエなどの貝を採った。

「喘息でずっとプールに入れなかったから泳げなかったけど、素潜りは5mぐらいできました」

「採ったエビや貝は、魚屋さんが買い取ってくれるんですよ」

「サザエだと1個500円くらいになったから、中高生にとってはいいアルバイトでしたね」

高校1年生の時、カブトムシを100匹ほど捕まえて、売りに行ったこともある。

「友だちと『新宿に行ってみたいね』って話になって、各駅停車で時間をかけて行ったんですよ」

「その時、新宿の伊勢丹で『カブトムシを買ってください』って直談判したんです」

「無理かと思ったら、数万円で買い取ってくれたんです」

高校3年間は、部活と並行しながら、2~3個のアルバイトをこなした。

「3年分のバイト代で、300万円貯まったんです」

「そのお金は使わずに、全部お母さんにあげました」

お金で苦労してきた母の役に立ちたかった。

キャリアアップとキャリアチェンジ

高校を卒業するタイミングで、郵便局に就職した。

「高校の進路指導室に行った時に、国家公務員Ⅲ種の試験のお知らせを見かけたんです」

「特にしたい仕事もなかったから、受けてみよう、と思いました」

まったく勉強していなかったため、鉛筆を転がして選択肢を選ぶ古典的な方法で挑んだ。

「そうしたら、受かっちゃったんですよ(笑)」

郵便局に勤めながら、着実にキャリアアップしていった。

「郵便局内で、国家公務員Ⅰ種の試験が受けられたんです」

「次はちゃんと勉強して、少し鉛筆の力を借りながら、無事に合格しました」

郵政省に入り、35歳まで働いた。

「35歳の時に、千葉の実家の近くに家を建てたんです」

「僕は住んでいないけど、今はお母さんが住んでいます」

家を建てた直後に、職場でいやがらせに遭い、郵政省を辞めることになった。

そこから2年間、下着メーカーで販売の仕事をした。

「その頃、お父さんの認知症がひどくなってしまったんです」

「在宅介護だったので、お母さんを支えるために実家に戻って、地元の保険会社に勤め始めました」

数年後、父が他界してからは東京に戻ったが、保険会社の仕事を続けた。

学生時代は部活やアルバイトに没頭し、恋愛は二の次。

しかし、社会人になってからは、働きながら好きな人との愛を育んだ。

07彼女との別れ、彼との出会い

玉砕したプロポーズ

高校時代、3年間片思いをしていた女子がいた。

高校生活も終わりを迎える頃、告白をした。

「私も好きだった」と言ってもらえた。

「高3でつき合い始めて、就職してからは半同棲みたいになりました」

約8年間、交際は続いた。

「一度も浮気をしなかったくらい彼女のことが好きで、25歳の時にプロポーズしたんです」

「でも、『まだ仕事がしたい』って断られました」

予想していなかった答えに、驚きと憤りが溢れてその場で別れを切り出してしまった。

1人になった時、突然 “新宿二丁目” というワードが思い浮かんだ。

「一度も行ったことはなかったけど、行ってみよう、って思ったんです」

「多分、高校の時に見た『薔薇族』に載っていて、その記憶がよみがえったんだと思います」

コンビニで見つけた新宿の地図を頼りに辿り着いた二丁目は、人であふれていた。

「二丁目の交差点に立っていたら、9人くらいから『お兄さん、いくら?』って声をかけられたんです」

「最後の1人が『よかったら一緒に飲みに行かない』ってすごく紳士的で、ついていきました」

「4軒くらい飲み歩いたけど、その人は手も握らなければハグもしないし、メールも交換しませんでした」

「それが、僕の新宿二丁目デビューです」

初めての彼氏

最後に連れていってもらったお店で、スタッフの送別パーティーが行われていた。

大阪に行ってしまうという男性スタッフを見て、かっこいい、と思った。

「小さい頃にシブがき隊が好きだったから、男性に憧れる気持ちは知っていたんです」

「その瞬間は、二丁目にもかっこいい男性がいるんだ、ってアイドルを見るのに近い感覚でした」

閉店のタイミングで、店のスタッフから「すき焼きパーティーするから、いらっしゃい」と誘われた。

スタッフの1人の家で、すき焼きを食べ、お酒を飲んだ。

大阪に旅立つ男性スタッフが寝ころんでいて、その隣が空いていた。

「僕も酔っ払っていたから、隣に寝っころがったんですよ」

「相手がキスをしてきて、流れでイチャイチャしながら『大阪に遊びにおいで』って言われたんです」

「その後、本当に大阪に行っちゃいました」

2泊3日、大阪で彼と一緒に過ごし、別れの時が来た。

新幹線のホームまで見送りに来てくれた彼に、「行かないで」と言われた。

「新幹線の扉が閉まる直前、『ついてこい』って彼の手を引っ張って乗せちゃったんです」

その勢いのまま、大阪へ引っ越したはずの男性と千葉で同棲生活を始めた。

恋人から友だちへ

彼が大阪に旅立った頃、出会った店でアルバイトを始めた。

「金曜日だけ店に入っていたんですけど、面白くて、ストレス解消になっていましたね」

その一方で、郵便局員としても働いていた。

同棲生活を始めてから、2年が経った頃、千葉から横浜の支局に異動することになった。

「2人で住んでいて引っ越すわけにいかなかったから、千葉から横浜まで通っていたんです」

「2人の生活リズムが合わなくなってしまったので、僕だけ横浜に引っ越したら、疎遠になってしまいました」

つき合い始めて7年が経った頃、別れることを決めた。

「ただ、彼とは今でも仲良くしているし、僕のお母さんとも仲良くしてくれているんですよ」

08ゲイである自覚と人を好きになる気持ち

大切なものは好きな気持ち

初めて男性と交際したことで、自分がゲイなのだと自覚した。

「女性とつき合っていた時は、自分が一生懸命リードしなきゃ、って気持ちがあったんです」

「男性とは、認め合ったりケンカしたり仲良くしたり、家族っぽい関係になれたんですよね」

ただ、大切なのは性別ではなく、相手のことを人としてどう見るか。

「ゲイとかレズビアンって言葉はあるけど、本来は必要ないと思います」

「僕の恋愛対象はゲイ(男性)だけど、今後誰とつき合うかってわからないじゃないですか」

「もしかしたら、FTMのゲイの子とつき合うかもしれない」

「ストレートだから苦手とか、そういう気持ちも一切ないし」

「相手のことが好きだったら、それで十分じゃないかって話ですよね」

ゲイだと打ち明けない選択

母には、ゲイであることを打ち明けていない。

元カレも「仲のいい友だち」として引き合わせた。

「墓場まで言わないでおこう、って同棲していたパートナーと決めているんです」

「年代もあるかもしれないけど、親の願いって、結婚して孫を見せてほしい、ってことだと思うんですよ、多分」

しかし、自分は結婚できなければ、子どもも望めない可能性が高い。

「僕が勇気を出してカミングアウトすればいいんですけど、決定打は打ちたくないんですよね」

「お母さんにはなんとなくバレてる気もするけど、わざわざ言わなくてもいいかなって」

二丁目で働いていた時、店にテレビ番組の突撃取材が来てしまった。

顔にモザイク処理を施してもらったが、声はそのまま放送された。

「放送された次の日の朝、お母さんから『新宿二丁目にいなかった?』って電話がかかってきたんです」

「あわてて『違うよ』って否定したけど、親って声だけでわかるんですね(苦笑)」

たまに実家にゲイの友だちを連れていくと、母は「オカマで集まって何やってんの!?」と冗談めかして言ってくる。

「最近は、お母さんから『結婚しろ』って言われなくなりました」

「でも、実家に帰ると必ず『貧しくても、ちゃんと生きるんだよ』って言われます」

「家を建てるだけじゃなくて、もっといろんなところにも連れていってあげたいですね」

09ゲイ向けイベントを続ける理由

成功したことのないイベント

ゲイナイト「GLAMOROUS」を始めたのは、11年前。

「友だち4人で『自分達でクラブイベント作りたいよね』って、ノリで作っちゃった感じ」

「僕以外の3人は仕事が忙しくて、だんだん離れちゃったんだけど、僕はずっとやっていきたかったんです」

「3人にはできる時に手伝ってもらいながら、イベントを続けて、気づいたら11年経ってました(笑)」

過去60回ほどのイベントを開催してきたが、一度も成功したと思ったことはない。

「例えばお客さんが400人来たとしても、その中の10人がつまらないと感じたら成功じゃないんですよ」

「1人でも泥酔者がいて、会場の一部が気まずい雰囲気になっていたら、とかね。それは失敗だと思ってます」

「その状況に、気づけなかった自分の責任なんですよね」

「イベントの精度を高めていきたいから、常に模索しているし、いろんな人に相談しています」

率先して焼く “余計なお世話”

イベント中は、会場全体を上から見るようにしている。

「大勢で来ている人もいれば、1人でポツンと端っこに立っている人もいるんですよね」

「『GLAMOROUS』に来る人って、きっと非日常を味わいたいし、人と話したいんだと思うんです」

「だから、イベントスタッフに『あそこの1人でいる人を引っ張って、あっちのグループとつなげてあげて』って指示するんです」

スタッフが会場を動き回り、積極的に出会いのきっかけを作っていく。

「余計なお世話かもしれないけど、人と出会うことで、何かが起こるかもしれないじゃないですか」

「相手が好みのタイプかもしれないし、ドギマギ感が未来につながっていくかもしれない」

いつかのイベントで、50歳くらいの男性に後ろから抱きしめられた。

「その男性は、僕の肩で急に泣き始めたんですよ」

「どうしたの?」と聞くと、「お願い、今日は泣かせて。お姉ちゃんが死んだの」と告げられた。

「泣き止むまで肩を貸したら、その人は元気になって帰っていったんです」

「その時、僕が拒否して1人で泣かせていたら、違う人生を辿っていたかもしれない」

「楽しみで来る人もいるし、日々の嫌なことを発散しに来る人もいるんですよね」

「何かを持ち帰ってもらえるイベントにしたいな、って思っています」

イベントを開催する意義

イベントが活気を増して、知名度が上がれば、批判されることも増える。

「昔は僕も人を批判していましたけど、あーだこーだ言った分だけ、自分も言われるんですよ」

「だから、今は一切言わないようにしているし、単なる噂や誤解されている情報が耳に入っても放っておきます」

「正しいことをしていれば、わかってくれる人はいるから」

イベントに来たお客様から「このイベントはサスケが『やる』って言わなかったら、存在しなかったイベントだよ」と言われたことがある。

「サスケがやる! とボタンを押さない限り、次はないし、これだけの人が持ち帰れるものもないんだよ」と。

「イベントを開催することで、来た人が持ち帰るものは何かっていうのは、永遠の課題です」

「それはきっと誰にも答えることができないけど、自分が動けば、いろんなものが変わっていくことは感じていますね」

10 “人のため” に自分ができること

生み出した成果を社会に還元

いっとき「GLAMOROUS」の売上は、すべてバンコクのエイズ孤児施設「バーンロムサイ」に寄付していた。

「最近は赤字続きで、寄付できていないんですけど(苦笑)」

「イベントを始めて6年間くらいは、寄付を続けていました」

ある時、保育士をしながらDJをしている女性と出会った。

自分のイベントに出演してもらい、謝礼を渡した時に「福岡の保育園に全額寄付している」という話を聞いた。

「その話を聞いた時に、うちも何かしなきゃ、って思ったんです」

学生時代のボランティア活動を思い出し、寄付することを決めた。

セクシュアリティに関係なく活躍できる場

将来的には、LGBTでもストレートでも関係なく、高齢者が活躍できる場所を作りたいと考えている。

「うちのお母さんはヘルパーの資格を持っているけど、70歳を超えているから老人ホームで働けないんですよ」

「だったら、地元で70歳以上でも働ける介護カフェを作ろうって、話しをしているんです」

「その中では、LGBTの人もストレートの人も関係ないようにしていきたい」

「『ゲイだから』『LGBTだから』って囲えば囲うほど、壁ができてしまうから」

すべての原点は “母” の存在

人のために動くことが好きだ。

その原点は、母の存在にある。

「小さい頃、お母さんがおんぶして千葉県中の病院を巡ってくれた時に、僕が何かしてあげなきゃ、って思ったんです」

母は「お前たちが育つまでは絶対に離婚しない」と、父に付き添い続けた。

父に殴られても、決して別れることはなかった。

父が認知症になった時も、母は在宅介護に励んだ。

「お母さんは、介護をしながらヘルパーの資格を取ったんだけど、取った瞬間にお父さんが死んだんです」

「今は在宅介護の経験を活かして、認知症に関する講演をしています」

「振り返ると、お母さんあっての僕というところは大きいですね」

「お母さんが、すべての原動力かもしれない」

家族のために、身を粉にしてきた母の姿が、自分を奮い立たせる。

母のために、お客様のために、誰かのために力になれる存在でありたい。

あとがき
ちょっとした出会いを忘れずに、気さくに話してくれた再会のとき。これが “サスケさん” なのだと実感した。時間を共にするほど、イベント主催者の華やかなイメージは飛んでしまう人懐っこさ■有名税を払ってもまだ、妬みがやまないことがある。「マイナスの噂話しを知らせてくれる人がいるけど、訂正を入れたりはしないですね」。謙虚に反省すること、万人の味方を望まないこと。その釣り合いは、強い気持ちを手にすることに似ている。(編集部)

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