02 生理がきて突きつけられた現実
03 スカートをはく日々の始まり
04 性同一性障害という言葉と概念を知って
05 突然、男子の制服を着て登校
==================(後編)========================
06 周囲の理解に支えられて
07 修学旅行での事件と母へのカミングアウト
08 「男」への階段を駆け上がる
09 初めて社会から否定される経験を経て
10 僕がカミングアウトする理由
01やんちゃな子ども時代と家族
シルバニアファミリーでヒーローごっこ
「小さなの頃から自分のことを男と思っていたのか、その辺は微妙というか曖昧なんです。でも、保育園の若くてかわいい先生を好きになったことは覚えています」
子どもの頃からいつも、近所の男の子たちと遊んでいた。
BB弾での打ち合いが大好き。女の子が好むような人形遊びには、ふざけて参加していた。
「シルバニアファミリーもヒーローに見立てて戦わせたり(笑)」
女の子らしさを強く求められるような家庭ではなかったが、7歳で七五三の女の子の着物を着させられた時には複雑な気持ちだった。
「なんでこれを着なきゃいけないんだろうって・・・・・・。袴の方がかっこよく見えて、どうやったらあっちが着られるのか考えたけど、無理だろうと諦めました」
仲のよい家族
家族は、母と妹が2人、それに別居中の父がいる。
自分が産まれたのは、母が二十歳、父が19歳の時だった。
「だから自分、父親の成人式に出席してたみたいです(笑)」
「小学校で家庭訪問の先生が来た時、先生が母に向かって『お母さんいますか?』って聞いていたのを覚えてます。お姉ちゃんかと思ってたんだそうです(笑)」
母は、祖母が経営していた居酒屋をその亡き後に継ぎ、今も続けている。明るくて、社交的な母を中心に、いつもふざけ合って笑っている、仲のよい家族だ。
自分が性別適合手術を終えた後も、母の接し方は何も変わらない。
ただ、呼び名が「りな」から「りく」に変わったぐらいだ。
父は大手のゼネコンで鳶として仕事をしている。家庭ではもともとそんなに口数は多くなく、おとなしいタイプだと思う。
小さい時から仕事ばかりで、日曜勤務や夜勤も多く、休みの日にどこかへ連れて行ってもらった記憶はあまりない。
だが、嫌いかというとそうではない。
母が店を継いだのをきっかけに、自分が高校3年生の頃に両親が別居したが、父は近くの実家に住んでいるので、連絡があれば会いに行く仲だ。
「まだ、なんだか薄い壁がある感じはしてますけど(笑)。やっぱりカミングアウトに一番苦戦したのは、父。別に反対はしなかったんですけど、別にそのまんまでもいいんじゃないの? 変える意味はなに? みたいな感じでしたね」
02生理がきて突き付けられた現実
スポーツが大好き
小学校の頃は毎日男の子たちと外でサッカーや野球をしていた。
「スポーツは大好きでしたね。今も時間があればやりたいぐらい」水泳、剣道、硬式テニスと、小学生の頃から高校生まで、スポーツで身体を動かした。
「母が、身体を動かすのは大事だと思っていたみたいで。『泳げないのはヤバい』って言ってましたから(笑)」
男の子用のズボンを選んでも買ってくれたし、スカートを履きなさいとも言われたこともない。
小学生の頃から見た目はボーイッシュだったので、女子トイレに入ると振り向かれることもあった。
小学校6年生の頃、女友だちに突然、「『りく』って名前、似合うよね」と言われ、そこから友だちに「りく」と呼ばれるようになる。
「確かに、『りく』って名前、嫌いじゃないな、と思いました(笑)」
汚れたパンツを引き出しに隠す
自分が「女じゃないな」と思い始めたのは、小6で生理がきた時だ。
「ショックというか、親にまず言えなかった。血は出てくるし、そのパンツをどうしようと困って、引き出しにしまった記憶があります」
周りには生理が始まっている女の子もいたため、生理自体は知っていた。だけど、自分にはこないかもしれないという期待もあった。
「そしたらきちゃって・・・・・・。親は『おめでとう!』とか言うし、おばあちゃんも赤飯を炊くし。それが嫌でした」
それまではあまり深くセクシュアリティのことを考えずに生きてきたが、生理がきたことで、自分が女だということを突き付けられたのだった。
「ただ、周期が不定期だったので、生理がこない月もありました。いきなりくるのは嫌だったけど、だからといっていつくるかの予測もしたくなかった。どうやったらなくなるんだろうって考えてました」
03スカートをはく日々の始まり
中学入学式の前日、ひとり泣いた
中学校の制服は、ブレザーとスカートだ。中学校入学式の前日、ひとりで泣いた。
「スカートをはく生活が始まるって思ったら、本当に苦しくて・・・・・・。もう想像ができなかった。親にも言えないし、ひとりで泣いて」
親にはスカートが嫌だとは言っていたが、そこまで強くアピールはしなかった。仕方なく入学式は制服を着て行った。
実はその前に、小学校の卒業式もスカートで出席させられていた。
いつも男子に混じって一緒に遊んでたボーイッシュな女の子がいたのだが、彼女は卒業式にズボンのスーツで出席した。
それが、とても羨ましかった。
「その子は当時、自分のことを『おれ』って呼んでて、仲良かったんですよ。その友だちがスーツで出ると聞いたので、自分もスーツがいいって親に言ってみたんですけど、『ダメ、妹たちも着るんだから』って一蹴されました」
それ以上、抵抗はしなかった。
自分は何者?
中学では男女ともに友だちが多くできた。
学級委員に立候補するなど、割と目立ちたがりな方だったと思う。
「中学2年の時、同じ剣道部だった女の子と付き合ったんです。その子といつも一緒にいたので、周りも自分が女の子が好きってことは気づいてたと思います」
しかし、周囲から嫌なことを言われたりしたことはなかった。
それに関しては本当に、環境に恵まれていると思う。学校生活は、友だち関係で悩むこともなく楽しいものだった。
“自分が何者か” と、モヤモヤしたものさえなければ。
スカートは相変わらず嫌だったので、なるべくジャージを着ていたかったが、着替えていいのは体育の時間の前ぐらい。常にジャージでいることや、ジャージ登校は許されなかった。
「中学生の頃はほんとに自分が何者かわからなかったです。なんだろう、この感じ? みたいな」
「他の男子とも女子とも違うし、一体自分は何を目指してるの?っていう。将来どうなっているのかまったく想像がつかないし、中途半端というか、なんなんだろう、自分、って悩んでいて、この時期はだいぶつらかったです」
中学に入ると男女別に分けられる機会も多く、それも嫌だったが、仕方がないと諦めてもいた。
04性同一性障害という言葉と概念を知って
FTXの子との出会い
転機は、中学2年の時に訪れる。
「当時人気だった携帯ゲームで、プロフィールに ”FTX” と書かれた同じ歳の女の子に会って、何だこの言葉はって。地元も近かったので会ってみたんですよね」
最初に好きな女の子の話をして、「でもレズビアンではないんだよね」という感じの話から始まったのだと記憶している。
その後で、彼女から「じゃあ、自分の顔とか嫌だ?」という質問を受ける。
他人からそういう質問をされるのは初めてのことだった。
聞かれて改めて考えると、確かに、嫌なんだということが分かった。すると彼女は「性同一性障害っていうのがあるよ。それじゃない?」と伝えてきた。
そこで初めて、性同一性障害という言葉を聞き、自分でも調べ始めた結果、いろいろと知ることになる。
「その子の先輩にはもうホルモン注射をして、治療を始めている人がいると聞いて。そうすると声も低くなるし生理も止まるということを知りました」
「ホルモン注射にけっこうお金がかかると聞いたので『あ、じゃあ貯金しよう』と思って、それからお年玉も貯めるようになりました(笑)。胸を取る手術があるということも知りました」
ナベシャツを得た喜び
「そのFTXの子と出会ったことで、自分だけじゃない、他にも同じ悩みを抱えている人がいるということが分かって、安心しました。それまでは自分のモヤモヤの理由もよく分からなかったので、スッキリしました」
その頃の自分にとって、セクシュアリティのことを相談できる唯一の相手だった。
その子がいなかったら、今頃、自分はどうなっていたのだろうと思う。気づきが遅くなり、つらい時期が長引いていたかもしれない。
その子にはナベシャツも譲ってもらった。それまではBカップほどあった胸をどうにか小さくしようと、筋トレすると脂肪が落ちるなどの巷の噂をすべて試してみていたが、まったく効果はなかった。
「着てみたら、胸がつぶれてたんですよ。『あ、ない~』って、すごく嬉しくて、鏡をずっと見てました(笑)」
母親にばれないよう、ナベシャツは自分で手洗いをして、見えないように自室の窓の外に干したり、隠れてドライヤーで乾かして使った。
もちろん、学校にも着て行った。
「ナベシャツの上にTシャツを着てから、その上に体操着、みたいな。ダブルTシャツです。暑かったです(笑)」
05突然、男子の制服を着て登校
高校の制服と、カミングアウト
進学した高校も女子の制服はスカートだったが、持ち前の性格と行動力で、結果的には学校も巻き込み、変えていくことになる。
「制服のスカートをはいた翌日ぐらいかな。新入生歓迎会みたいなのがあったんですけど、ステージの上にいる女性の先輩のスカート丈が、パンツ見えそうなぐらい短くて」
「これは学年が上がるごとに短くしなければいけないのだろうか」と焦り、入学した次の日に保健の先生のところに行って、自分のことをカミングアウトしながら、「スカートが嫌なんです」「ジャージで行ってもいいですか?」と相談した。
結局、「先生は目をつぶっておくから上手くやって」というようなことを言われ、1年はずっとジャージで過ごした。
「だからスカートはすごいきれいなまま残っているので、丈を切り過ぎて怒られちゃう女友だちとかに貸してあげたりしてました(笑)」
高2でいきなり男子の制服
以来、保健の先生には何かと話を聞いてもらい、他の先生たちとの窓口の役割を果たしてくれるなど、陰ながらサポートしてくれた。
高校2年生では、進級してすぐに、いきなり男子の制服を着て学校に行った。
しかし先生たちは特に何も言わなかった。
おそらく保健の先生が共有してくれていたのだと思う。
「制服は、女友だちの彼氏が年上で、卒業しちゃったので、お願いして譲ってもらいました。みんなも、そっちの方が似合ってんじゃん~、みたいな感じで。だから本当にそういうところでは恵まれた環境でしたね」
学年が上がるタイミングで、制服がもらえる機会を狙ってもいた。
ずっと、制服は着たかったのだ。
この頃にはもう、世の中には自分と同じような悩みを持つ女性が、男子の制服で通学を認められている事例があるということを知っていた。
「だったら、自分も通えるかなと思って。最初に、生徒手帳とか全部読んで、校則で禁止されていることがあるのか確認しました。そしたら『異装届け』というのがあって、先生にこれは何かと聞いたんです。そしたらそれはケガとかした時の、特別な場合のためのものだと言われて、じゃあダメかと」
あまり覚えていないが、おそらく担任には男子の制服を着ることを事前に宣言したのかもしれない。
だが何も言ってこなかったので、受け入れてくれたものと思っている。
母には「先生がいいって言った」という風に、少しだけ嘘をついた。
きちんと伝えたことはなかったが、自分が男子の制服を着たいと思っていることは恐らく分かっていたと思う。
<<<後編 2016/09/28/Wed>>>
INDEX
06 周囲の理解に支えられて
07 修学旅行での事件と母へのカミングアウト
08 「男」への階段を駆け上がる
09 初めて社会から否定される経験を経て
10 僕がカミングアウトする理由