INTERVIEW
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多様性はイマジネーションの源。映画の世界では、性別も学歴もひどくない

中野理惠さんの言葉には、一貫して迷いがない。「周囲からの批判は気になりませんでしたか?」と質問したところ、「なんでまわりを気にする必要があるの?」と返された。確かにそうだ。自分は自分、人は人。当たり前のことながら、これを忘れて生活している日本人が大半なのではないだろうか。時代の流れ、海外の動向を含めて、中野さんの目に映った “日本” の姿に迫る。

2018/03/16/Fri
Photo : Rina Kawabata Text : Mana Kono
中野 理惠 / Rie Nakano

1950年、静岡県生まれ。大学卒業後、大手建築会社に就職。その後、映画配給会社「フランス映画社」に転職し、仕事の傍らウーマン・リブ活動に参画する。1987年に「株式会社パンドラ」を設立し、映画・映像の製作・配給、映画とジェンダー関連の書籍出版にも携わる。

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01映画業界では、学歴も性別もひどくない

大企業での激しい女性差別

大好きな映画を配給する仕事を始めて、もう40年以上になる。

とはいえ本当のところ、若い頃は新聞記者になりたいと思っていた。

「私が大学を卒業した当時、女性には職業選択の自由がなかったんです」

たとえ4年制大学を卒業していても、女性を採用する企業は少なく、業界も限られていたのだ。

「女性には出版社が人気で、まわりの学生の中でも、女で新聞記者を希望していたのは私ひとりでした」

しかし、希望していた新聞社も、自分の就職年だった1972年には女性記者の募集をしていなかった。

別の新聞社に勤める気もしなかったため、新聞記者の夢は諦めて、新卒で大手建築会社に就職することに。

だが、そこで待ち受けていたのは激しい女性差別だった・・・・・・。

女性は準社員としての採用で、正社員への登用試験を受けることすらできない。

さらに、準社員の定年は36歳。

給与は正社員の男性よりももちろん低く、その他の待遇もかなり悪かった。

「しかも、大企業だから男性社員はもちろんエリート。彼らは、『女性社員は結婚相手をさがすために入社してる』っていう態度だったの」

実際、「結婚相手を探すために入社した」と公言している女性社員も多く、そうした周囲とのギャップにどうしてもついていけなかった。

「それで、ノイローゼみたいになってしまいました。今で言う『うつ』よね(苦笑)」

当時はうつの認知度がまだ低かったこともあって、体調不良の原因がわからないまま、半年ほど病院に通い続けた。

だが、ある時、「会社を辞めたらもしかしたら快復するかもしれない」と思い、2年弱務めた建築会社の退職を決意。

「そうしたら、辞めたその日からケロッと治っちゃったのよね(笑)」

これからは、好きな映画の仕事をしよう。

そう心に決めて、映画業界に足を踏み入れたのだった。

映画の世界はなんでもあり!

大好きな映画の仕事をするために、転職活動中はひたすら映画の制作会社や出版会社に自分から電話をかけた。

その中で唯一対応してくれたのが、『キネマ旬報』の当時の編集長だった。

彼の紹介で、1974年、外国映画の配給会社に就職。

しかし、いざ仕事を始めるまで、映画の配給というものが一体どのような仕事なのかすら、知らない状態だった。

転職後しばらくは驚きと戸惑いの連続だったが、前職で抱いていたような違和感は綺麗さっぱり消えていた。

「映画の仕事っていうのは、なんでもありなんです」

業界に入るためには、学歴も性別もほとんど関係ない。

重視されるのは、実力や結果だけ。

「そもそも映画は興行の世界。しかもその配給会社で、私は経理をやっていたんです」

「経理は数字で結果が表れる仕事だから、すごく気持ちがいいのよ」

「映画」と聞くと、芸術や哲学的なものを想像する人も多いのではないだろうか。

しかし経理は、そうした観念的なイメージとは真逆の仕事だった。

業務量は多く、終電で帰る日もしばしば。

「それもうは、ドブさらいよね(笑)」

そうやって、社内の様々な仕事をこなしながら、配給のノウハウを身につけていったのだ。

02自分のやりたいことをやる、人の目なんて気にしない

配給会社「パンドラ」の立ち上げ

配給会社で10年以上勤めてから退職。

その後はフリーランスとして働きながら、1986年の暮れから翌年にかけて、ニューヨーク1で日々を過ごした。

別にニューヨークに格段興味があったわけではなく、現地に住んでいる親しい友人に会うことが目的だった。

だが、初めて訪れたニューヨークはとても刺激的な街で、「帰りたくない」と思ったほど。

そこで偶然鑑賞した映画が、ゲイのアメリカ人政治家を描いたドキュメンタリー『ハーヴェイ・ミルク』だった。

もちろん字幕もついていなかったため、英語の会話はほとんど理解できなかった。

だが、70年代のパワーや、ハーヴェイと共に活動する人たちの活き活きとした様子が伝わってきたのを覚えている。

本作が、のちにみずから立ち上げた配給会社「パンドラ」での、記念すべき第1本目の配給作品となる。

ニューヨークから帰国した1987年に、株式会社パンドラを設立。

会社を立ち上げたとはいえ、もともと独立を計画していたわけでもなかった。

「フリーランスの仕事を一緒に手伝ってくれている仲間の存在が大きかったんです」

「その人たちにちゃんとお給料を支払うために、きちんと会社にしようと思ったの」

「だから、みっともないけど、何か大きな覚悟があったわけではないし、立ち上げにあんまり自分の意思はないのよ」

会社立ち上げ当時は、配給会社の数自体がまだ少なかったこともあって、界隈で女性の社長は自分ひとりだけだった。

「でも、うちの社員はみんな女性だったので、私は特に何も思いませんでした」

現在では男性社員も抱えているが、立ち上げから20年ほどは女性社員のみで運営していた。

「女性が多かったっていうのは、業界の特殊性みたいなものも関係していたんだと思う」

そのため、映画業界に入ってからは、女性という性が原因で困ることはほとんどなかった。

自分の感性を信じて

“好き” から始めた映画の仕事。

「映画は産業としてはとても小さいし、逆に好きじゃないと仕事にできないくらいよ」

好きなことを仕事にすると後々苦労する、という話もよく聞くが、自分はそうしたストレスはあまり感じてこなかった。

基本的には、嫌な仕事はほとんどしてこなかった。

「そもそも、やりたくないことをやらないために自分の会社を作ったようなものだから」

これまで、映画配給以外にも、ジェンダー関連の書籍出版や、教育教材用の
DVD販売も多数手がけてきた。

だが、どの会社もそうだろうが、やはり資金のやり繰りにはいつも頭を悩ませてきた。

「どうやって30年も会社を続けられたのか、私もよくわからない(笑)」

これまでに、『ハーヴェイ・ミルク』をはじめ、元従軍慰安婦の女性たちを描いた『ナヌムの家』など、人権や平和問題をテーマとするような作品や、女性監督の作品にも数多く取り組んできた。

「はたから見れば、一癖あるラインナップだと思われるかもしれない。でも、私はそういう映画をマイノリティだとは思っていないの」

「ただ自分が面白いと思って、ほかの人にも受け入れられるだろうって作品を選んでいるだけなんです」

自分では、取り上げる作品はどれも大衆性があると本気で信じている。

最初に『ハーヴェイ・ミルク』を配給した際には、マスコミや周囲から偏見の眼差しを向けられもした。

上映後の反応の中には、「どうしてミルクはゲイに生まれたのか?」という、質問もあった。

「その人は男性だったから、『じゃあ、あなたはなぜ男に生まれたんですか?』と聞き返したら、黙り込んでしまったけどね」

きっと、彼も悪気があっての発言だったわけではないのだろう。

それぐらい、LGBTに対する社会の理解がまったく追いついていない時代だったのだ。

「でも、作品を観た人はほぼ100パーセント『良かった』って言う。だからいいのよ、もちろん配給した私への配慮の言葉もあったと思うけれどね」

そうして今では、『ハーヴェイ・ミルク』は長く人々に記憶される映画となった。

人の目を気にする必要なんてない。

いい作品は、いつかは人々に受け入れられるはずだから。

03海外と日本の違い

日本は不思議な国

仕事でアジア諸国を訪れる機会も多かった。

「台湾や中国、ベトナムあたりにも行きました」

中でもとりわけ関心があったのは、韓国。

これまでに十数回と足を運んだ。

「日本は韓国を侵略していたのに、当時は教科書にもその記載がなかったから、逆に興味を持ったの」

朴正煕政権の時代、自分のように韓国を旅する日本人女性はとても少なかった。

「飛行機に乗っていたまわりの日本人男性の多くは、現地の愛人に会うために韓国に行っていたんです」

当時としてはかなり珍しい、韓国への女ひとり旅だったものの、危険な目に遭うこともなく、楽しい経験だらけだった。

「韓国の人ってラテン系で開放的だから、私と相性が良かったのよね」

そうやって色々な国を飛び回っているうちに、「日本は不思議な国だ」と考えるようになった。

「自分の主張をはっきり口にしないことが美徳とされている国は、珍しいと思いました」

「日本の差別は異質で、すべてが裏に隠れてる」

「表と裏が全然違うの」

また、LGBTをめぐる状況についても、日本は他国と比べてかなり遅れているだろう。

そのなかでも特に、レズビアンはLGBTの中でも最後まで差別されるのではないか。

というのも、セクシュアルマイノリティに限らずとも、女性差別がいまでも根強い問題として存在しているからだ。

ただでさえ女性差別が色濃いなかで、子どもを産むことができないとされているレズビアンは、いっそう激しく差別されるだろう。

「『女性が活躍する社会』って言ってはいるけど、子どもを育てる女性が働きやすい職場環境だって、まだ全然整備されていないじゃない?」

「労働環境の改善が一番重要でしょ。なのに、女性はなんにも大切にされてない」

また、首相や大統領など、女性が国のリーダーを務めている海外諸国も多いが、日本ではいまだに女性の首相は誕生していない。

「日本はほんと、男権主義国家よね」

区別と差別は別物

男性名詞、女性名詞のある言語は少なくないが、男言葉、女言葉がわかれているのは珍しい。

「私は、映画で字幕を作る時、『〜よね』『〜かしら』といった女言葉はなるべく使わないようにしています」

ほかにも、日本ではたとえば男性用トイレの表示は青、女性用トイレはピンクが一般的だ。

「日常生活の細部に至るまで、この国は男女の違いを意識させるようにできている」

「区別があっても差別がなければいいんだけど、今は日常生活のあらゆる面で女性が差別されているからね」

そうした状況に疑問を抱き、仕事と並行してウーマン・リブ活動にも熱を入れてきた。

それでも海外に移住せず、日本に住み続けたのは、やはり自分が日本人に生まれたからという理由が大きい。

母語が日本語である以上、細かいニュアンスを外国語で伝えるのは難しいだろうと思ったのだ。

「あとは、食べものよね。食べものはやっぱり日本料理が世界で一番!(笑)」

「出汁もおいしいし、やっぱり日本のお米が一番甘みがあっておいしいわ。『うまみ』って日本独特の味覚らしいわよね」

04LGBT? 社会には多様性があって当然

過ごしてきた多様である日常

ウーマン・リブ活動をしている仲間には、レズビアンも多かった。

「仲がいい人もほとんどレズビアンだったんですが、レズビアンに対する偏見はありませんでした」

その後、仕事を通じてバイセクシュアルやトランスジェンダーとも知り合う機会があったが、特に何も意識せず接していた。

「そうやって至って普通に接することができたのは、私の生育歴に起因してるんだと思う」

父が住職で、実家はお寺。

そのお寺には、家族以外にも色々な事情の人が居候していた。

「両親、祖父母、兄弟、あとは裏山に住んでいたホームレスが時々おりてくることもあったし、ホームレスの人がウチに下働きとして住んでいたこともありました」

親族以外の他人がいて当たり前の環境。

いつも10人ほどの大人数で食卓を囲んでいた。

幼い頃からそうやって育ってきたために、「自分とは異なる人間」に対する障壁がなかったのだ。

「今思うと、すごくいい環境だったんじゃないかな」

あまりわかってはいない、LGBTを取り巻く社会

自分のまわりには、セクシュアルマイノリティに対して差別的な発言をする人はほとんどいない。

「そのためか、今のLGBTを取り巻く社会の状況がどういう風になっているのか、私はあんまりわからないんです」

もしかしたら、身近に差別的な感情を抱いている人がいるかもしれない。

「でも、私がこういう人間だってわかってるからか、私の前で差別的な発言をする人はいないわね(笑)」

逆に、多種多様な人々がいて当たり前な社会の中で、なぜその多様性を受け入れられない人がいるのだろう。

自分としては、その「受け入れられない」という感覚が、いまいちピンとこないのだ。

05多様性はイマジネーションの源

他人の嗜好に口を出すのはおこがましい

そもそも、「マイノリティ」という区分は、外部の人間、つまりマジョリティが決めるものだ。

そして、セクシュアルマイノリティに限らず、社会にはさまざまなマイノリティが存在している。

たとえば、関東ではあまり聞くことはないが、関西では未だに部落差別が激しい地域もある。

「いろんな人がいて当たり前な世の中になればいいなと思います」

とはいえ、「映画の力で社会を変えよう!」ともまったく考えていない。

「だって、そんなのおこがましいじゃない(笑)」

「映画は個人の嗜好品だし、嗜好は自由なものだと思うんです」

結局のところ、嗜好は自由意思で選ぶものだ。

外からとやかく言ったところで、思想を強制するのは難しいだろう。

「ただ、映画作品を学校用教材として使うのはいいと思う。『ハーヴェイ・ミルク』は、学校用の教材としてもすごく最適よね」

文化の多様性を守るために

自分は自分、他人の意見は気にしない。

周囲に何か言われて傷ついた経験はもちろんあるが、あまり細かくは覚えていない。

「時々すごく根に持つことはあるんですよ(笑)」

「でも、そんなに根に持ってもいられないから、どんどん忘れていっちゃうのよね」

そうはいっても、これまでの人生を振り返ると後悔もたくさんある。

「一番後悔しているのは、勉強しなかったこと」

「やっぱり、10代って脳みそが柔らかい時期なのよね。あの時期になんにも勉強しなかったのは一番後悔してる(苦笑)」

もっと勉強していれば、今とはまったく違う人生を歩んでいただろう。

ほかにも、嫌な仕事はほとんどしてこなかったとはいえ、会社の運営で苦労したことも多い。

「これからは、もちろんお金のことも考えて、好きな映画かつ、ちゃんとヒットする作品をやらなくちゃね!」

デジタルの発達やネットの配信サービスによって、映画を作って上映するコストが下がり、作品の公開本数は年々増加している。

「どんどん増えているってことは、それだけ競争が激しくなっているということでもあります」

「だけど、実際には映画を見る人の数は減っていってるんです」

大手シネコンが幅をきかせるなか、単館上映作品の映画館はどうやって生き残っていくべきか。

難しい問題だ。

「単館上映の映画館がなくなるのは、イコール文化の多様性がなくなることでもあるわよね。それを一番危惧しなきゃいけないんです」

「だって、多様性があればあるほど、イマジネーションが広がるじゃない?」

今後どうやって、自分たちが配給しているような作品を展開していくべきか。

「考えなきゃいけないと思っています」

「考えれば、いろんな道は開けるんですよ」

課題はまだ山積みだが、今年は、自分にとっておそらく変革の一年となるだろう。

「だけど、まわりから見ればきっとそれほど変わらないんだろうな(笑)」


あとがき
中野さんが立ち上げた株式会社パンドラは、今年創業31年。その長きにどんなことがあったのか。共に歩んでこられた方々含め、「継続」にある様々を想像した■困ったなと思えるアクシデントさえ、どんどん取り込める人。中野さんの軌跡は、弱音が顔をだす最近の心を静かにゆすって下さった■ままならないと思えることも、本当はそうじゃないことが多いんだ。そうだ。「考えれば道はひらける」と、明るく話す中野さんの言葉がこだまする。(編集部)

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