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疾走するメロディー。人生を奏でていく【後編】

疾走するメロディー。人生を奏でていく【前編】はこちら

2018/05/26/Sat
Photo : Yu Jito Text : Ray Suzuki
永田 怜 / Rei Nagata

1993年、静岡県生まれ。看護師として県内の総合病院に勤務。3歳から始めたピアノは、ショパン国際ピアノコンクール全国大会に出場するほどの腕前。高校時代にFTMであると自覚、両親にカミングアウト。音楽演奏だけでなくスキューバダイビングやキャンプなど趣味もアクティブで幅広い。

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INDEX
01 性別適合手術を終えて、今・・・
02 音楽の才能を伸ばした子ども時代
03 のびのび、やんちゃな、生来の性質
04 ピアノのためならドレスも着る
05 心に立ち込めるモヤモヤは何?
==================(後編)========================
06 レズビアンという言葉に過剰反応
07 性同一性障害を知り、FTMとしての自分を取り戻す
08 カミングアウトまでの躊躇、逡巡
09 両親にカミングアウト、けじめの成人式、
10 医療現場でLGBTの「見える化」を

06レズビアンという言葉に過剰反応

後輩からのラブレター

「レズビアン」と思われたら、だめだ。

あのお泊まり会以来、強烈なタブー意識を持ってしまう。

でも、その頃一番好きだったのは、テニス部の後輩。2歳下の女の子だった。

すごく可愛くて、仲が良くて、すでに手紙の交換もしていた。

そんな彼女が、いつもの手紙とは少し違い、「好きです、つきあってください」とまっすぐな気持ちを書いたラブレターを渡してくれた。

中3になって、最後の部活のときだった。

正直、すごく嬉しかった。

だが、ほかの部員たちも、その場にいた。
ざわめきの中、「何それレズじゃん」という声が聞こえ、体が硬直した。

「その言葉がズシンって胸に刺さって。傷ついてしまいました」

「手紙はすごい嬉しかったし、できればつきあいたいって思ったんですけど、周りの目がやっぱり気になって、結局、彼女には返事もできなかったんです」

ほんとうに好きなのは彼女なのに、誰にも言えなかった。

「本当の気持ちを言えない。それが辛かったですね」

女として生きて行くのはもう嫌だ

高校は地域の進学校へ。共学だった。

ピアニストになる夢は、色あせていた。

「趣味でやればいい」と、心の整理はついていた。

両親には、「部活をやりたい」と言って、音楽系ではない進学先を納得してもらった。

高校でも、男の先輩が好意を寄せてくれたので、付き合ってみた。
でもやっぱり、無理だった。

身体を触られたことに、ゾっとした。

そして、心から感じた。

「絶対に無理。男の人と付き合うのも嫌だし、女として生きて行くのも嫌」

この経験で、自分のことがよくわかったのだ。

ある日、自分の性に関する認識が一気に変わるブログに出会った。

高校2年生になっていた。

07性同一性障害を知り、FTMとしての自分を取り戻す

もう女でなくてもいいんだ

「友だちの友だちに、男っぽいなあと感じる女性がいたんですが、その人のブログを見たところ、『性同一性障害』っていうリンクが貼ってあったんです」

「そこを開いて『こういう人がいるんだ!』っていうか、『自分と同じ人がいる!』って驚いて」

自分でも調べまくった。

性自認がはっきりしたことが嬉しく、ショックや戸惑いはなかった。

「ああ、こういう人がいてもいいんだなって思った瞬間、道が拓けた気持ちになりました」

このときから、女性であろうとすることに、別れを告げた。

「髪の毛をバッサリ切って、服装もメンズライク、ユニセックスなのを選ぶようにしたんです」

自分でも新たにブログを始めた。

これまでとは別のアカウントを作り、FTMの自分として、日々の出来事や心情を綴り始めた。

「俺」という一人称を使って。

「ただ、わかったからこそ、次の課題がいっぱい出てきて、どこからどうやっていけばいいんだろう、というのが悩みになってしまいました」

辛かった高校時代

ショートヘアにすると、高校でも「かっこいいね」と評判になった。

「そう言ってもらえたのが嬉しくて。これが本来の自分なんだなって」

とはいえ振り返ると、高校時代がやっぱり一番辛かった。

FTMであるという自覚は、本来の自分を解放してくれた。

だが、悩みがより具体的になり、「これから一体、どうするんだ?」と、自分で自分を追い詰め始めていた。

一方、周りには苦悩を見せていなかったのも事実だ。

部活に励み、文化祭の実行委員を務め、充実した高校生活を送っているように見えていた。

「うまく隠せてたみたいですね(笑)」

「でも内心は、ピア二ストになる夢も捨てたし、部活も勉強も身が入らない、自分は何を目指して生きているんだって」

次第に無口になり、家では不機嫌に過ごすようになった。

一人ベッドの中で、涙することも多くなった。

「どうしたらいいのか、ほんとうにわかんなくなって」

08カミングアウトまでの躊躇、逡巡

周囲の偏見が怖かった

怖かったのは、周囲の反応だ。

「自分がこれから、男として生きていくなら、まず親に言わないといけない。
周りにも言わなくちゃ、って思いました」

もし本当のことを言ったら、どうなってしまうんだろう。

これまで築いた大切なもの、この環境、身の回りのすべてが、崩れ去ってしまうのではないだろうか。

「葛藤がずっとありました。そこから一歩、踏み出せなかったんです」

言ってはいけない、バレてはいけない、というあの中学時代の抑圧と、同じだ。

「言ったらきっと、偏見の目にさらされる」

果てなく悪い方向に向かう想像が、自分を苦しめた。

自暴自棄になりそうだった。

ブログだけが、気兼ねなく自分をさらけ出せる場所だった。

保健室の先生に聞いてもらう

看護師になると決めたのは、高校2年生の頃だった。

小学生で入院したことや父母の通院など、病院の存在を身近に感じて来たからだ。

自らを性同一性障害だと自認したことも影響している。

進路を決めた高3の授業中、いつものように悶々とした悩みがループを描き、たまらず教室を出た。

このまま、いなくなりたい。そんな気持ちだった。

ふと思った。

保健室の先生だったら、話を聞いてくれるんじゃないか。

言うつもりはなかったのに、ふと思ったから、保健室に飛び込んだ。

「うち、もしかしたら、性同一性障害じゃないかと思うんです」

先生は、動じずに答えた。「そういう人、前にもいたよ」

それを聞いて、抑えていた言葉が、あふれてきた。

「親になんて言ったらいいのか、わからなくて」と口にした。

先生は、「親はね、自分の子どものことはちゃんと見てくれるから、だいじょうぶだよ」だと言ってくれた。

「そう言ってもらえて、うれしかったですね」

親から、頭ごなしに否定されることは、ないのかもしれない。

先生の助言で、恐怖に怯えていた心が、少しほどけた。

「このときは、やっと勇気を持てましたね」

あとは、いつ、どう言うかだ。
直接言うのは、とてもじゃないけど、無理。

それならば、手紙だ。

09両親にカミングアウト、けじめの成人式、

高校を卒業した春休みに

背中を押してくれたのは、保健室の先生だけではなかった。

ブログで知り合った同じFTMの友だち、そしてブログで出会い、初めてリアルで付き合うことになった彼女の存在も大きかった。

「専門学校に行く前に、親には言ったほうがいいよね」

自分が男としてふるまう、初めての “理想のデート” をした彼女。

自分のありのままを受け入れ、FTMに理解のある彼女の冷静な言葉も、自分の背中を押してくれた。

「タイミングとしても、高校を卒業した春休みの、今しかないと思いました」

便箋6枚に、思いをしたためた。

「辛かったことも書きつつ、自分は男として生きたいんだ、と書きました。理解してくれる彼女がいることも、伝えました」

本当は、死ぬほど辛かったよ。でも、親を責めているんじゃない。
本当に死にたかったわけじゃない。ただ、男として、生きたいんだよ。

そんな手紙を、両親の部屋にそっと置いた。

両親の部屋は、隣の部屋。
読む頃を見計らって、そっと壁に耳を当てて反応を探った。

手紙を読み終えた母のすすり泣く声。それを追いかけるように、父のすすり泣く声が聞こえた。

壁に押し当てた耳に、両親の交わす会話も聞こえてきた。

「玲奈は玲奈でかわりないし、これからもふつうに接していこうよ」

「クリニックに一緒に行って、ちゃんとみてもらおう」

予想もしなかった両親のやりとりだった。

絶対、反対されると思っていたから。
手放しで受け入れられるとは、信じたくても、なかなか信じられなかったから。

「その晩は、嬉し泣きで朝まで寝られませんでした」

手紙での告白の翌朝、両親は優しかった。

真剣な表情の母が、語りかけた。

「びっくりしたけど、玲奈は私たちの子どもであることに変わりはないから。わたしたちが生きている間は、やれることはフォローするし、なんでも頼ってよ」

親は偉大だ・・・・・・。このとき、そう思った。

「親が受け入れてくれるということ。それは、愛なんだ、って思いました」

自分を不機嫌にしていた反抗期の呪縛が、このとき解けた気がした。

成人式は振袖で親孝行

カミングアウト以降、お父さんから直接の言葉はない。
一緒にキャッチボールやマラソンをしたお父さん。

かわいい娘として、自分のことが大好きなのも、知っている。

「あえて何も言ってこないですね。でも『その髪型いいじゃん』とか『その服いいね』とか言うんですよ。そういうふうに、包み込んでくれる父なんです」

しかし、父や母が本当に納得するまでには、少し時間を要した。

18歳で通い始めたクリニックにも一緒に来てくれた。

しかし、カウンセリングで女として生きるよう医者から説得されるのを、母は心のどこかで期待し続けていたようだ。

「自分の決意は変わらない。でも、親が受け入れるためには、それなりの時間が必要なんだ、って気付いたんです」

性同一性障害の当事者として、自分は幼少期からじわじわと、自分というものがわかってきた。

でも親は、自分を長いことずっと、娘として育てて来た。

今、急にカミングアウトされても、頭の中や気持ちを整理するには、親にだって時間が必要なのだ。

「だから僕、成人式は振袖で出たんですよ」

仲が良かった同級生たちと、振袖姿で微笑む写真を大切にしている。

「親と僕の間の、けじめっていうのかな。僕も親の意見を聞いて『治療は二十歳を過ぎてからにする』って決めたんです」

両親は、振袖姿を喜んでくれた。それがなによりだった。

そう、親孝行だ。

入学した看護の専門学校にも、性同一性障害のことは説明済みだった。

でも、治療は二十歳を過ぎてからにする、と付け加えていた

10医療現場でLGBTの「見える化」を

看護師として歩み始めて

専門学校時代が、一番楽しかった。

出会った友だちとは、深い絆で結ばれている。

親しくなると、タイミングを見て、FTMであると打ち明けていった。

「みんな、全部を受け入れてくれた友だちです。年齢的なものもあるのかな、大人として受け止めてくれました」

二十歳になるまで治療を進めないため、もどかしいこともあった。
初めての病院実習に臨む戴帽式では、女性用の白衣を着ざるを得なかった。

でも成人式のあとからは驚くほどすんなり、ことが運び始めた。
クリニックの医師の言葉も、両親の心を動かした。

「性同一性障害は脳の器質的な問題だから、気持ちの問題では解決できないんですよ、お母さん。娘さんは、身体を男性に変えるしかないんです」

医師のそんな説得に、お母さんは泣きながら「よろしくお願いします」と答えた。

一度動き始めたら、ことはどんどん動き始めた。
周りが、親が、どんどん受け入れているのが、よくわかる。

LGBTがテレビで話題になっていると話を振ってくれたり、新聞の切り抜きを置いていてくれたり。

兄も「これからは弟として接するよ」とすんなり受け止めてくれ、嬉しかった。

医療の現場で、自分の経験を生かしたい

就職は、第一志望の総合病院で、男性として勤務することになった。

同時に、ホルモン治療を開始。

改名は2016年、そして昨年の11月、24歳で性別適合手術を受けた。

今年の秋には、愛する人との結婚が控えている。

両親も「彼女が支えてくれるなら」と、2人の門出を喜んでいる。

まさに順風満帆だ。

「今こうなるとは、あのときは想像がつきませんでした。『なんであんなに悩んでいたんだ』って、あの頃の自分に言ってやりたいくらいですね(笑)」

ブログを通じて出会った、地元でゆるく繋がるLGBTのコミュニティも、自分を支えてくれる大きな存在だった。

「ホルモン注射のメリットやデメリットなど、ネットだけの知識では不安なものですが、当事者から直接話を聞けて、楽しい場も共有できました。治療に向けて、背中を押してくれたのも、このコミュニティでしたね」

今、音楽療法に興味がある。

入社したときから年に1度の院内コンサートを担当し、クラシックだけでなく患者さんが一緒に歌えるよう民謡なども弾いている。

音楽が得意な同僚とともに院内での活動の可能性を語り合っている。

「LGBTと、看護と、音楽と。繋げられたらいいと模索中です」

ある患者さんが伝えくれた気持ち

働き始めて感じたこともある。
日本の医療の現場が、性同一性障害に十分に対応しているとは言えない現実だ。

ある入院患者さんは、50歳代のMTFだった。
女性名を使っていたが、男性として入院することを余儀なくされていた。

「現場の空気は、変な意味で、興味津々でしたね」

好奇の目にさらされているのが、如実に感じられた。

「患者さんのことを、そんなふうに噂したり話したりするのは、よくないよ」

働く仲間に対し、そう言いたかったが、実際に声を上げることはできなかった。

自分もまだ、治療中。
当事者であることを、職場でオープンにしていたわけではなかったから。

それでも、その患者さんが退院する前に、勇気を出して打ち明けた。

「僕も、性同一性障害なんですよ」

するとその患者さんは、「FTMなんだね、話をしようか・・・・・・」と言って、院内の談話室に誘ってくれた。

薬を服用しているが、まだ、それほどの効果がないという。
年齢を考えて、手術は諦めた。でも、ふだんは女性として暮らしているという。

「君はまだ若いから、夢を諦めないでね」と言ってくれ、握手を交わした。

「その方は、男性部屋の大部屋にいました。きっと苦しい思いをしたと思うんです」

「誰もが、自分らしく生きたい。それだけなのに・・・・・・」

この出来事を機に、黙っていてはいけない、と思うようになる。

そして、地元でLGBTに対する理解を深めるための講演活動を始めた。

「見えないと、いないことにされるんです」

LGBTの「見える化」を

看護の現場にいて感じているのは、性同一性障害を「見える化」することの重要性だ。

本来なら、そういう方が入院した場合は、ちゃんと話をして、入院生活で対応できることやできないことを、きちんと話し合うべきだ。

「それだけでも、本人の気持ちがずいぶん違ってくるはずです」

こういう人たちが、いるんだよ。それを知ってほしい。
医療現場では、なおさらだ。

「看護者の倫理要綱第二条に『看護者は国籍、人種・民族、宗教、信条、年齢、性別及び性的指向、社会的地位、経済的状態、ライフスタイル、健康問題の性質にかかわらず、対象となる人々に平等に看護を提供する』とありますから」

「でもやっぱり、言わないとわからないことがあるんですね」

「本当は、変にカテゴリ分けするより、みんながそのままの自分を出して、生きていける世の中になればいいなと思っています」

快調に滑り出した人生。
もちろんこの先も、解決しなくてはならない課題がきっと出てくるだろう。

「結婚します、子どもができました。そういうLGBTの方も多いけど、その先どうなるのか。まだ前例が決して多くないだけに、自分もちょっと不安です」

でも、きっと大丈夫。
そのときには、また新しい味方がそばにいてくれるはずだ。

あとがき
「・・・ただ男として生きたいんだよ」。ご両親へ綴った手紙。聞こえてきた涙声。怜さんが壁越しに聞いた言葉よりもたくさんの会話が、ご両親の間で交わされたに違いない。それもちゃんと受け取っていた怜さん■[旋律]の言葉を辞書でひいてみた。音楽を構成する最も基本になる要素が、旋律。それは怜さんだ。旋律は、変化を伴って連なる。友だち、保健の先生、両親、パートナー・・・優しいリズムが連結されて、明日も新しいメロディーが生まれる。(編集部)

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