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ゲイを隠しながら舞台に立った日々。いまは、シャンソンで愛を届けたい【後編】

ゲイを隠しながら舞台に立った日々。いまは、シャンソンで愛を届けたい【前編】はこちら

2019/11/16/Sat
Photo : Tomoki Suzuki Text : Shintaro Makino
範朗 /  Norio

1975年、茨城県生まれ。水戸市の老舗割烹旅館の長男として生まれる。旅館の婆やや、お手伝いさんなど大人の女性に囲まれて育つ。アイドルになりたい、という夢は叶わなかったが、中学生で観た演劇に目標を定め直す。ミュージカル俳優を経て、シャンソン歌手に転身。女性用のドレスをまとい、独自のスタイルで歌い続けている。

USERS LOVED LOVE IT! 18
INDEX
01 老舗割烹旅館の御曹司
02 なんてったって、アイドル!
03 演劇との出会いが転機となる
04 ミュージカル俳優を目指した高校時代
05 伝言ダイヤルで新しい世界を知る
==================(後編)========================
06 新宿二丁目デビュー、即、初めての夜
07 ゲイカップルの幸せと破局を体験
08 シャンソン歌手として再びデビュー
09 母へのカミングアウトは以心伝心
10 みんなに届け、「愛の権利」

06新宿二丁目デビュー、即、初めての夜

創作ミュージカルで好演

高校卒業後は、昭和音楽芸術学院(現、昭和音楽大学)ミュージカル科に進学。何かを表現したいという気持ちは強くなっていた。

「1学年に1クラス。女子30人に、男は私ひとりでした」

ここでもまた、女性ばかりのコミュニティだ。

「ミュージカル科なら何でも学べる、という期待がありました」

しかし、そう甘くはなかった。

同級生はプロ意識を持って入学してきた精鋭ばかり。かたや、自分はピアノも弾けない、声楽のレッスンも受けたことがない、とハンデを背負った。

「私だけ意識が違いましたね。高校のゆるい流れのままきちゃった感じで・・・・・・」

宿題を出されても一生懸命にやるエネルギーが沸かない。そんな真剣味に欠ける学生生活だった。

「それでも、ある創作ミュージカルでは主役に抜擢されたんです」

宮沢賢治の最期までの数日を描いたストーリー。
賢治が自分の作品の主人公と出会いながら、人生を振り返っていく。

「初めて生きる意味を考えるきっかけになりました」

演技も好評。訛りも克服して、セリフもはっきりと話せるようになっていた。

ついに新宿二丁目の扉を開ける

21歳のときに、初めて二丁目に足を踏み入れた。

「でもその時は、昼間に恐る恐るという感じで、あの一画を歩いただけでした」

2度目は、勇気を出して夜に出かけた。伝言ダイヤルで集めた情報をもとに、一軒の店に入った。

「カウンターに座って、お酒を飲み始めました」

すると、隣に座っていた男性が話しかけてきた。舞台美術の仕事をしている人だった。

そして、何も分からないまま、その人と初体験を済ませてしまった。

「淡々と終わったというか・・・・・・。気持ちがいいとは思わなかったですね」

自分にあったコンプレックスのせいもあり、解放感を味わうことはできなかった。

「その人とはその夜だけで、その後、いい友だちになりました」

07ゲイカップルの幸せと破局を体験

ピーターパンでデビュー

ミュージカル科を卒業して芸能事務所に所属した。

「初舞台は、新体操からエンターテインメントに入った沖本姉妹が主役の『ピーターパン』でした」

自分なりに踊れて芝居ができる、という手応えをつかむことができた。周囲からの評価もまずまず。

「両親も観にきてくれました。喜ぶよりも、私が失敗しないか、ハラハラしていたみたいです」

そうするうちに、ファミリーミュージカルの仕事がコンスタントに入るようになった。
東京、名古屋、大阪など、数週間ずつの公演が決まると、それなりの収入になった。

「それでも、部屋代は、まだ親に出してもらっていましたけどね」

ミュージカル俳優として離陸する準備が整い始めていた。

ゲイとしてのカミングアウトはできなかった

私生活でも大きな変化があった。初体験の相手からある男性を紹介されたのだ。

「大学を卒業して広告代理店に就職したばかりの人でした。すぐに、彼の部屋に通う半同棲生活になりました」

彼のために食事を作ったり、彼のクルマで海に出かけたり・・・・・・。
そんな恋愛が楽しかった。

「でも、誰にもカミングアウトはできませんでした。イチャイチャしていても、人がくると、さっと離れるみたいな」

そんな窮屈さを不満に思わなかったといえば嘘になるが、仕方がないことだと諦めていた。

もちろん、人前で手をつなぐこともあり得ない。

「彼も仕事柄、カミングアウトはしていませんでした」

一度、彼にキスマークをたくさんつけられたことがあった。

「楽屋でそれが見つかって、『女の子は、そんなに派手にキスマークなんかつけないだろう』って騒ぎになったことがありましたね(笑)」

もちろん、自分の周りにもゲイのカップルはいたはずだが、隠して生きることがルールという時代だった。

「ショービジネスの業界にも多かったはずなんですけどね。オープンにしている人は、ほとんどいなかったですね」

傷ついた心を二丁目で癒す

愛の生活に破局が訪れる。

「彼が、会社の人たちとグアムに旅行に行くといって出かけたんですよ」

その後、彼の部屋の掃除をしていると旅行の写真が出てきた。ところが、なぜか、どの写真も写っているのは彼ひとり。

どう考えても不自然だ。

「不審に思って、いつもは開けないドアを開けると、ほかの男とピースしている写真が出てきたんです」

いつの間にか、昔の男とよりを戻していたのだ。

「問い詰めると、すぐに昔の彼とは別れる、と言ってくれました。でも、関係がギクシャクしてしまって、元には戻れませんでした」

この世の終わりかと思うほど辛く、心はズタズタに傷ついた。

「仕事への情熱も失せてしまいました」

酒に溺れ、二丁目に行っては、刹那的な愛に身を任せた。

08シャンソン歌手として再びデビュー

美輪明宏の歌声に魅了される

傷心の日を過ごしているときに、ふと心地よい歌声が聞こえてきた。どこかのカフェにひとりでいるときだった。

「それが、エディット・ピアフの『愛の賛歌』でした」

心に染み入る歌声。
歌ってみたい、と素直に思った。

実はミュージカルの素晴らしさを感じる一方、集団で行うパフォーマンスに行き詰まりも感じていたのだ。

「美輪明宏さんの歌を聴いたのも偶然でした」

渋谷の街を歩いていると、ライブハウス「ジャンジャン」に長い列ができていた。何かも分からず並んでいると、美輪さんのコンサートだった。

「生の歌声を聴いて、こういう表現もあるのか、って衝撃を受けました」

なかでも感動したのが、「愛の権利」という曲だ。

「男と女が 女と女が 男と男が 年寄りと若者が 異国人同士が」と、その歌詞は綴られる。

愛し合うことの権利。それは誰にも平等に与えられるべきだ。

「自分の気持ちにピタリと一致しました」

偶然が重なったシャンソンとの出会い。

辛い経験を忘れて、切り替えようというエネルギーが湧いてきた。

素直な自分を表現できる女装のステージ衣装

友人に相談をすると、シャンソンのライブが聴ける「シャンパーニュ」という店を紹介された。

「その店に通いながら、我流で練習をしました」

そして、オーディションを受けて採用され、晴れてシャンソン歌手としてデビューを飾った。

29歳のときだった。

「歌いながら語ることは、ミュージカルと似ているんです。その経験が生きたと思います」

その後、シャンソン歌手から推理小説家、タレントとしても活躍した戸川昌子さんとの出会いも糧となった。

シャンソンの経験を積むうちに、自分のスタイルを確立していく。

「シャンソンは主義や主張が大切なんです。素顔のままの自分を表現したいと思っています」

ステージでは女性用のドレスを着て歌うのが一番、しっくりとする。

「きっちりしたスーツで歌ったこともありますけど、何かが違う。ドレスのほうが、やっぱり馴染みます」

09母へのカミングアウトは以心伝心

ビジュアルよりも中身が大事

2人目の恋人は、2歳年下の作家志望の男性だった。

「最初はプッシュされ続けていたんですが、だんだん私のほうから好きになってしまって」

好きな相手とは一緒にいたいが、自分ひとりの時間はどうしても必要。

朝まで一緒にいるのはイヤ。
夜は自分の部屋に帰ってほしい、と主張した。

「最初は驚いていましたけど、自己中心的な私を受け入れてくれました」

一緒にいて、とても気持ちのいい人だったが、10年間つき合って別れてしまった。

それも人生の機微だ。

「ルックスも大切ですけど、歳を重ねるにしたがって、中身が肝心と考えるようになりました」

最近、好きになる人は、自分の道を自分で切り開く力がある人。

「それと、愛を知っている人ですね。愛されて育った人と一緒にいると、自分も幸せになれる気がします」

結婚をして実家に戻って欲しかった

シャンソン歌手としてデビューして、ようやく実家からの仕送りが終わった。いわゆる経済的自立だ。

「とはいっても、アルバイトをしながら、なんとか生活していける程度でしたけどね」

母親から、「結婚はしないの?」と聞かれたことが一度だけあった。

「そのときは、いつか好きな人ができたらね、とごまかしました」

両親にはカミングアウトをしたことはない。でも、以心伝心というか、きっと分かってくれていると信じている。

「2009年に美川憲一さんのプロデュースで、『オダマリーず』という三人組のユニットで売り出したことがあったんです」

キャッチフレーズは「おねえ三人組」。そのプロモーション記事が新聞に大きく掲載された。

「一応、母親に電話で伝えたんですが、本当はもう見ているはずなのに、知らないフリをしたんです」

母は実家に戻って商売を継いでほしいと思っていたはずだ。でも、そのことを直接、言われたことはない。

「オカマなんて言われて、いじめられていない?」。そんな優しい言葉をかけてくれたこともあった。

たっぷりの愛情を注いでくれた母親は昨年、亡くなった。

「好きなように生きなさい。範朗は範朗だから」

最期まで、そう励ましてくれたようだった。

10みんなに届け、「愛の権利」

ボイストレーニングの講師を務める

実家の割烹旅館は、留学先のロンドンから帰国した妹が母親を手伝っていたが、数年前に代替わりを終えた。

水戸の本館は、母の弟の息子が継いでいる。当面は安泰だ。

一方、ブレイクを期待した「オダマリーず」だったが、活動はまったくの鳴かず飛ばずに終わった。

「『オカマっぽい』というだけで寄せ集めた3人で、何をやればいいのかも明確じゃなかったんです。美川さんの名前は、ただの客寄せでした」

「無理して続けるより、それぞれがやりたいことをやろうよ、という結論になりました」

事務所にそれを伝えると、「それなら」という簡単な返事で解散となった。

「オダマリーずを解散してから、またシャンソンに戻りました。キャリアは、もう15年になりますね」

5年前から水戸のカルチャーセンターで基礎のボイストレーニングの講師を引き受けている。近年、東京でもレッスンを始めた。

「楽譜どおりに歌うんじゃなくて、一人一人の個性を生かす歌い方を指導してます。希望する人には、演劇的なドラマチックな発声法も教えますよ」

10人いれば、10通りの声があり歌がある。
声の出し方を習うと元気になる、と好評だ。

「生徒さんは40歳以上の方が多いですね。『シャンソン、面白そう』という好奇心で入ってくる人もいます」

個人レッスンや仲間同士のグループレッスンも受けつけている。

「生徒が十人十色なら、先生も十人十色。私なりの教え方で指導しています」

人と触れ合う仕事に喜びを見出している。

シャンソンは円熟味を増す

シャンソンは、フランス語と日本語、2通りの歌い方がある。

「私は主に日本語で歌っています。ワルツのリズムに、うまく日本語を乗せて歌うのが醍醐味ですね」

ときには、歌詞を書くことも。

「シャンソンは歌詞がすごく大切なんです。既存の訳詞では自分を十分に表現できない、と感じたときは、自分で歌詞をつけ直します」

「歌い続けると、いつも発見があります。新しく見つけたことを実感しながら歌うのが、シャンソン歌手の使命です」

こうして、自分流のシャンソンは円熟味を増している。

母は晩年、「好きなことをやりきってください」という言葉を残してくれた。自分のシャンソンを極めることが、母の愛情に報いることだと思っている。

「最近、NPOの活動にも興味が沸いてきたんです。これまでは、一切、関わったことがなかったんですけどね」

性別は、誰かが分かりやすく人間をカテゴリー分けしただけのこと。同じセクシュアリティだけで固まる必要もない。

「悩んでいる人のために、微力ながら貢献できれば、と思っています」

範朗流の「愛の権利」が、たくさんの人に届けばいい。

あとがき
取材場まで汗をかきながら駆けつけてくれた範朗さん。初対面とは思えない軽快さで、一気に和んだ■お母さんは言った。「のりおは、のりお。人は人よ」。簡単にはいかない? 人の目が気になる? 確かにそんなつぶやきもうなずける。でも、[自分の人生を生きなさい]と聞こえるその言葉は、何度も心に押し寄せた■範朗さんは、幸せそうにこう訳す。「自分というセクシュアリティは、オンリーワン」。愛の唄を、懐かしい唄を、口ずさむように味わって見せた。(編集部)

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