INTERVIEW
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「知る」から、「一緒にやる」へ。多様性を受け入れる社会を実現するために【前編】

障害科学の研究者であり、下垂体機能低下症という “見えない障害” の当事者でもある大部令絵さん。難病患者という “マイノリティ” にくくられてしまう側でありながら、障害やLGBT、外国人など、当たり前のように多様性が存在する大学という環境で、当事者として、また、研究者として、福祉や医療を見てきた。誰もが生きやすい社会、多様性が受け入れられる社会とは、マイノリティが特別扱いされずに、“当たり前のように” “ふつうに” そこにいることができる社会だ。それをどう実現するか、大部さんはアプローチの方法を探り続ける。

2018/03/29/Thu
Photo : Rina Kawabata Text : Momoko Yajima
大部 令絵 / Norie Obu

1982年、茨城県生まれ。日本女子大学人間社会学部社会福祉学科助教。祖父の介護、祖母の高齢者うつなどを経て福祉に関心を抱き、筑波大学で障害科学を専攻する。大学院博士課程後期在籍中の25歳の時、下垂体機能低下症という難病が発覚。高校生の頃から発症していた特発性過眠症と共に、病と付き合いながら研究を続ける。2013年5月から障害や病を持つ女性に向けたフリーマガジン『Co-Co Life女子部』の2代目編集長を約2年務める。現在、国交省の「交通事業者向け接遇ガイドライン作成等のための検討委員会」委員も務める。趣味は囲碁。

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INDEX
01 “見えない障害” 当事者として
02 難病を受容する
03 研究者としての焦り
04 セクシュアルマイノリティの人との出会い
==================(後編)========================
05 マイノリティを取り巻く社会
06 それは本当に当事者のためになっているか?
07 そろそろ次のステップへ
08 次世代の教育を通して、自分も生きやすい社会へ

01 “見えない障害” 当事者として

博士号を目指すも病に倒れ、難病患者に

「ちょっと待って。脳みそに影ある。帰さないで」

CTの画像を見た医師が放った言葉を覚えている。

筑波大学で障害科学の研究をするため博士課程に在籍していた2008年。25歳の時だった。

大学に入ってからなんとなく体調が悪かった。
風邪をひくと重症化しやすく、身体も疲れやすい。

「とにかく体調を崩したときがひどい。生理のときも歩けなくてうずくまっちゃうぐらい」

学部生の時には、特別支援学校の教員免許を取るため、通常学校と特別支援学校の2つに教育実習に行かなくてはならなかった。

しかし、体調不良で通常学校の実習はキャンセル。

「ちょっととてもじゃないけど行けないです、って言って」

もう少し学びたいという思いもあり、就職より大学院進学を選んだ。

身体の不安もあったが、まあなんとかなるだろうと考えて。

不調の原因は、修士課程が終わっても分からなかった。

その後、1年間の研究員を経て、大学院の博士課程後期に戻った時に、倒れた。

博士号を取ると意気込んで戻ってきて、ちょうど2ヶ月ぐらい。

公民館で勉強をしていた時に、トイレで倒れ、そのまま筑波大学附属病院の救急に運ばれた。

難病「下垂体機能低下症」

すぐには病名が分からず、検査のために1週間ほど入院。

様々な検査の結果、下垂体機能低下症というホルモンの病気であることが分かった。

「頭をボールに見立てると、ちょうど真ん中に、ホルモンを出してる下垂体って内分泌器官があるんです」

「そこにラトケ嚢胞って袋があって、その中に液体が溜まって、こぶみたいなおできっぽい感じになっていて、それが大きくなって下垂体を圧迫してるんです」

「ホルモンにもいろいろな種類があるんですけど、私の場合は体の体液の調整をしたり、体のエネルギーをコントロールしているホルモンである、副腎皮質ホルモンが足りなくて」

自分の疲れやすさや、風邪が重症化しやすいのも、ホルモンの影響があることがあとで分かった。

下垂体機能低下症は症例も少なく、自然に治癒することもまれであり、国の難病に指定されている。

手術もしたが、機能としてはそれほど戻らなかった。

投薬でホルモンを補充する治療を続けて、もう10年になる。

最近はそんなに薬が必要ではなくなってきた。

「いまは自分が病気と付き合えるようになって、少し楽になりました」

そして実はもうひとつ、「特発性過眠症」という睡眠発作の病気も見つかった。

「高1からいきなり居眠りするようになったんです」

「睡眠発作って “抗えない眠り” と言われていて、本当にいきなりくるんですよ」

当時は理由がまったく分からず、めまいだと思っていた。

「なんか、ちょくちょくめまいがするなぁって。病気が判明する31、2歳ぐらいまでずっとめまいだと思ってたんです」

駅のホームから落ちそうになったこともあり、さすがにこれはまずいと思う。

先に下垂体機能低下症が分かっていたので、それと関係があるのかと思ったが、どうやらホルモンの病気とは関係がない。

いろいろな検査をした結果、特発性過眠症であることが判明したのだった。

02難病を受容する

障害のロールモデルがたくさんいる環境で

生涯治療が必要な難病だと分かったとき、感じたのは困難より、むしろ、納得感。

「ああ、そっかぁって」

大学4年生の頃から体調が悪く、教育実習を辞めたりしていたが、どうして体調が悪いのか分からないため、人に説明することができない。

「説明できなくて申し訳ないと思うと、やっぱり先生の目とか、自分で勝手にきつく感じることがあって」

「体調不良の原因が分かったことで、クイズの正解が分かったような快感がありました」

また、大学の専門は障害科学。

学科や大学院でも、 “当事者” といわれる特別のニーズのある友人が何人もおり、ロールモデルが身近にあったことも幸いした。

「精神的に戸惑うというよりは、『じゃあ、まずは制度を調べよう』みたいな感じでしたね」

「『研究をどうしよう』という、具体的なことで悩んでいる方が多かったです」

大学には留学生もたくさんいた。

周囲には当たり前のように多様性があり、その状況が何年も続くと、自分にとって “ふつう” になっていく。

「障害のある友人同様、私も薬を飲む時間が確保できないと困るとか、周りに配慮してほしいことがあるので、その根拠として、病気のことを伝えるようにしています」

表面上は障害があるように見えない。

「これは怠けているわけではありません」と自ら言わないと、健常者と呼ばれる人たちには伝わらない、ということも分かっていた。

「病気や障害の勉強をしていたのも、私にとっては幸いだったと思います」

いつか絶対ネタにしてやる!医療者とのおもしろやりとり

それに、もともとの性格もあり、どんな状況も楽しんでしまおうとする自分もいた。

「医療関係については、いつかどこかでネタにしてやろうって思うことが多々ありました(笑)」

たとえば、まだ確定診断が下りる前、倒れて入院しているときのこと。

病室を訪ねてきた女性の医師に「性欲がなくて困ったことはありますか?」と訊かれ仰天した。

診断が下りたときにようやく、医師の頭の中で疑っているホルモン系の病気があったのだとわかった。

おそらく性ホルモンに関するチェックリストの項目を、そのまま訊いてしまったのだろうと理解したが、当時は自分もまだ25歳。

「多少の恥じらいはあったし、もう大混乱(笑)。なんでそれ聞くの?って」

大学院ではインドネシアの障害者イメージについての研究をしていたが、術後は、思うように身体が動かない。

「それで、2010年に焦ってインドネシアに行ったら、デング熱に感染してしまったんです」

その頃、日本でデング熱はかなり希少な例。

「通常よりもやっぱり症状がひどく出たんですよね。帰国後に発症して、感染症内科の先生に大変喜ばれました(笑)」

「『君の血、アメリカに送っといたから。輸送費は気にしなくていいよ』って。思わず、気にしてないけど!って思いました(笑)」

難病患者である上に、希少な感染症を発症。

医療において貴重なサンプルとなってしまう経験だった。

03研究者としての焦り

思うように研究ができないジレンマ

難病発覚と手術は、博士課程後期1年生のとき。

研究のための奨学金や助成金を探し、やる気がみなぎっていたところだった。

術後2年ほどは、やはり体力が落ちたのか、思うように動けない日々が続く。

風邪を引けば、肺炎のように重症化してしまう。

「まず、大学院を続けるかどうかという話になってしまいました」
「続けたいけど、研究どうしよう・・・・・・という思いもありつつ」

インドネシアに長期間滞在することを前提にして研究計画を立てていたが、いまの自分の身体では難しいことは明らかだった。

テーマから全部変えるか、やり方を変えるか。
考え直す時間が必要だった。

学会発表は1年見送り、体調を見ながら研究を続けていくため、博士論文も遅れた。

結局、1ヶ月程度の滞在であればと主治医の許可が出る。

観光ビザでも行けるため、方法を見直すことにして研究を続けた。

「インタビュー調査から質問紙調査に切り替えて、インドネシアの障害のない大学生さんたちに、いろんな障害のイメージを書いてもらい、それを統計処理する方法にしました」

正式に博士論文を出せたのは2014年、31歳のとき。

間に休学も挟んだので、7年かかっての博論提出だった。

うつうつとした時期に同期が勧めてくれた「読者モデル」

その間、大学院生をやっていただけではない。
通信制高校での非常勤の教員や、聾学校での事務の仕事、『Co-Co Life女子部』という障害を持つ女性のための雑誌にも関わった。

「『Co-Co Life女子部』は、最初は読者モデルとして参加したんです」

難病が分かってから2年後の2010年。
研究も進まず、自分の身体もつかみきれない時期。

指導教員の心理実験室に一日中こもり、うつうつとしている自分を見かねた大学院の同期が、読者モデルの募集を教えてくれた。

「ぐだぐだしているのは、あんまりよくないと思ったんでしょうね(笑)」

「まったく違うことをやってみたら? ということだったのか。『こんなのあるよ』って勧めてくれて」

ファッションに興味があったわけでもなかったが、何かきっかけになればと思い、応募。

次第に編集に関わるようになり、最終的には編集長も任された。

自分が障害の “当事者” になり、マイノリティの側に行ったからこそ、分かること、見えることがある。

自分も難病であるけれど、様々な人たちとの出会いを経て、マイノリティであることが、ネガティブな側面だけではないことを感じている。

04セクシュアルマイノリティの人との出会い

将棋部のMTFとの出会い

高校時代から囲碁を打っていたこともあり、大学では囲碁部に入ることにした。
囲碁部に見学に行くと、ちょうど囲碁部員が誰もいない時間だった。

その代わり、同じスペースで将棋部の人たちが将棋を指していた。

「黒づくめのサングラスの男性と、緑のパーカーのショートカットの女性が対局していました」

黙って見ていたところ、対局が終わり、「検討」の時間になった。

指した手がどうだったか、お互いに話す時間だ。

「その瞬間、ショートカットの女性の声が低かったんです。え? と思ったら、身体的には男性で心は女性の人だったんですね」

はじめての、性同一性障害の人との出会いだった。

囲碁部に入部した後、その女性と囲碁の大会に出たことがある。

「その人は囲碁も打てる人だったので、大会の団体戦の女子の部に一緒に出てくれて」

囲碁の素晴らしいところは、相手が誰でも、どんなバックグラウンドを持っていてもいいところだ。

「若い人からお年寄りまで、本当に小さい子でも、強い子は強い。盤上で向かい合わせになったら、誰でもOKなんです」

「囲碁が、いろんな出会いを生んでくれたのだと、いまは思っています」

後輩からの告白に、自分のセクシュアリティを自覚

その人との出会いを機に、多様性のひとつの形という観点で、セクシュアルマイノリティの人たちに目が向くようになった。

また、アルバイト先の後輩の女性に告白されたこともある。

「倒れる2年前ぐらいだから、22、3歳の頃だと思います」

「そのときはじめて、『あ、自分はストレートなんだ』と自覚したんです」

自分は、彼女の告白を受け入れられるだろうか。真剣に考えた。

「それまでは考えもしなかったんですけどね。結局、『ごめんなさい』って言って」

囲碁部のMTFの人とは「一緒に何かをする」という関係とは違った。

自分がセクシュアリティの恋愛関係の当事者となるのははじめてのこと。

「びっくりしつつも、その場で一生懸命考えて、私なりに誠実に答えを返せたかとは思ってます」

その頃はまだ、LGBTの認知度もいまより高くはなかった。
それでも特段、同性から告白されることに抵抗は感じなかった。

将棋部の彼女が何者か知りたくて自分で調べていたり、そういう経験の積み重ねがあったから、「ああそうか」と思うことができたのだと思う。

「やっぱり、環境が私を育ててくれたんだと思います」


<<<後編 2018/04/01/Sun>>>
INDEX

05 マイノリティを取り巻く社会
06 それは本当に当事者のためになっているか?
07 そろそろ次のステップへ
08 次世代の教育を通して、自分も生きやすい社会へ

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