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“クィア” で “ポリアモリー”、そんな私のアイデンティティ【前編】

日本とニュージーランドという、2か国の文化的な背景を持つ仁希さん。「セクシュアリティの枠組みに含まれるのか自分でもわからないけど、私は ポリアモラスなクィア 」。セクシュアルマイノリティの中でも、とりわけ日本ではまだ認知度の低い “ポリアモリー” と “クィア” とは、いったいどのようなアイデンティティなのだろうか。仁希さんが歩んできた 「フツーではない」人生を知ることは、多くの人にとって生きるヒントとなるかもしれない。

2017/05/21/Sun
Photo : Taku Katayama  Text : Hensyu-bu
キニマンス 塚本 仁希 / Nikki Tsukamoto Kininmonth

1985年、東京都生まれ。9歳までを日本、その後23歳までをニュージーランドで過ごす。オークランド大学で映像学と社会学を専攻し、卒業後日本へ単身帰国。人権擁護団体、動物保護NPO、フェアトレード啓発、美術モデルなど様々な職業を経て、現在は英語翻訳・通訳業を中心にフリーランスで活動中。

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INDEX
01 ハーフというだけで目立ってしまう
02 ニュージーランドの多様性
03 社会や政治に対する関心
04 ポリアモリーとの出会い
05 日本の空気に馴染めない
==================(後編)========================
06 “クィア” が一番しっくりくる
07 ふさぎ込んで、自分を見失って
08 アメリカを旅して
09 自分を偽らずに生きる
10 私みたいな人間だって、ちゃんと存在してるんだ

01ハーフというだけで目立ってしまう

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ニュージーランドと日本のハーフ

スコットランド系ニュージーランド人の父と日本人の母のもと、いわゆる “ハーフ” として生まれた。

「仁希」とは「両親2人の希望」という意味で、欧米でも通用する名前だ。

「 “ニコラ” や “ニコール” の愛称で、“ニッキー(Nikki)” っていうのは海外でもよくあるんです。名前自体が “Nikki” は珍しいですけどね」

母とは日本語、父とは英語で会話していて、幼い頃から家では2ヶ国語が飛び交っていた。

「日本で生まれて9歳まで東京に住んでて、そこから23歳までニュージーランドで暮らしていました」

「ハーフとして日本で育った私は、ただそこに立って息をしているだけで目立つ存在のようでした」

日本ではアメリカンスクールに通っていたが、学校から一歩外に出れば、「あ、外人だ」と言わんばかりの、異物でも見るような周囲からの視線を感じていた。

「ハーフっていうだけでチヤホヤされることもあったけど、良くも悪くも、日本ではつねにマイノリティでした」

自分がハーフに生まれたこと自体は嫌ではなかったけれど、ニュージーランド人の父が目立つことには抵抗があった。

「父は体も笑い声も態度も大きくて。子どもの頃は、父親の存在がときどき恥ずかしかったんです」

父が目立つと、自分まで一緒に周囲から浮いてしまうような気がしたから。

「日本人として認められたいっていう気持ちが、どこかにすごく強くあったんです」

「箸も使えるし漢字も読める。同年代の日本人がやっていることは何でもできるんだから、変に目立ちたくない!っていう。思春期特有の感情だったのかもしれないな」

日本からニュージーランドへ

9歳の時、家族そろってニュージーランドへ移住したが、そこでも最初は苦難の嵐だった。

「外見では目立たないんだけど、みんなと発音が違うから『なんだこいつ』って目で見られてた。お弁当におにぎりを持っていった時も、『なんてものを食ってんだ!』ってクラス中で騒がれて・・・・・・」

「それで、どうしたらいいかわからずトイレ飯してました(笑)」

感性も日本で培われたものだから、ニュージーランドでウケるジョークや流行語もわからない。

「最初の2、3年くらいは、とにかく日本が恋しかったです。日本の方が楽しいことがたくさんあるし、何倍もクールだと思ってました」

日本で愛読していた『なかよし』や、大好きだった『美少女戦士セーラームーン』などのアニメも、ニュージーランドにはない。

それまで自分の世界を囲んでいたものが全部、なくなってしまったような気がした。

「でも、3年ぐらいするとだんだんニュージーランドに馴染んできました。10代をずっとニュージーランドで過ごしたことで、価値観や世界観みたいなものの多くは、あっちで形成されたんだなって思います」

「日本生まれだけど、メイド・イン・ニュージーランドみたいな感じ」

02ニュージーランドの多様性

家庭内の変化

「両親は、私が17歳の時に別れました」

常識や世間体を気にする母と、楽天的で自由奔放な父。言葉の壁以上に、価値観の違いが大きかった。

「母親はすごく教育熱心な人だったから、私も小さい頃から公文、進研ゼミ、ピアノにスイミングなど、習いごとは一式やらされていました」

「母としては、しっかりしたバイリンガルに育てたかったみたいです」

「子どもの頃は、パパはいつもジョークを言って人を笑わせていて、ママはいつもなんだか怒ってるような厳しい人っていうイメージだったな」

正反対な性格でも、昔はそれなりにうまくやれていた両親だったが、年を経るごとに衝突が増えていった。

日本を離れて異国の地で暮らすことは、母にとって大きなストレスだったのかもしれない。

「私はニュージーランドにどんどん馴染んでいったから、母は私が日本を忘れて、普通のニュージーランド人になるのが怖かったのかもしれないです」

日本とニュージーランドでは、家族のあり方にも大きな違いがある。

「向こうでは、例えば10代の妊娠や出産はよくある話。離婚もタブーではないし、事実婚や同性婚も法律的に認められている」

「多様な家族の形があって当たり前なんです」

離婚しても両親の仲がよく、隔週で父の家と母の家を行ったり来たりするようなクラスメートも多かった。

「友達の家に遊びにいったらおじさんがいるから、『あれってパパ?』って聞いたら、『ううん、ママのボーイフレンド』って返されて、なんだかドギマギしちゃったり(笑)」

「でも、子どもだからいろんなことをどんどん吸収するし、あっちのスタンダードにも馴染んでいく」

日本人であることに強いプライドを持っていた保守的な母とは、どんどん価値観のズレが広がっていった。

「夫とも子どもともわかり合えなくて、母は孤独だったのかなって。今はそういう風に思います」

両親の離婚

「離婚の直接的な理由は、父に好きな人ができたことなんです。『彼女と一緒にいたいから別れたい』みたいな感じでした」

「私はその時、少しびっくりしたけど、まぁ仕方ないんじゃない?って思ったんですよね」

その頃には夫婦仲も悪化していて、家の空気はかなり重たいものだった。

「両親はしょっちゅう怒鳴りあいのケンカをしていて、もうとにかく最悪でした。いっそ、私が離婚届をもらってきてやろうかって考えたぐらい」

「父が家を出てから、しばらくは不安もありました。でも心の片隅で、これでクラスにいるシングル家庭の子たちと仲良くなれるかも!って思ったんです」

「『うちも親が離婚したんだよー』って、話のネタにできるかなって(笑)」

あれから15年近く経ったが、父は今も同じパートナーと仲良く暮らしている。

「とはいえ突然の別れだったから、多分今でも家族全員が悲しみや葛藤を抱えていると思います」

「それでも、あのまま苦しみながら家族ごっこを続けていても、誰も幸せになれなかったと思うんです」

03社会や政治に対する関心

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リベラルな授業

「ニュージーランドの高校には、かなりリベラルな授業もありました。選択科目では美術史があったし、フェミニストアートやメディアリテラシーなども勉強しました」

企業のCMや広告を分析して、イメージの裏にどのような意図が隠されているのか読み解く授業もあった。

「例えば、『コカ・コーラの宣伝で女性が握っているボトルは男根の象徴か』みたいなことを議論していました」

そうやって隠された記号を見つけるのは、とても面白かった。

「学校では、自分の意見を理論的に主張することが重視されていたから、試験ではひたすら論文を書かされました。でも、私は小論文を書くのがものすごく下手で・・・・・・」

中学までは、公文や進研ゼミをやっていたから成績はそこそこいい方だった。

「高校からは、日本のような穴埋め問題ではなく、自分の頭で考えて答えを導く学習法になったから、苦労しっぱなしでした」

社会学への傾倒

高校卒業後は、ニュージーランドの大学に入学した。

映画やドキュメンタリーの制作をしたいと思い、専攻は映像メディア学に。

「でも、子どものころから社会問題に関心があったり、高校時代のリベラルな授業の影響もあって、社会的なことに興味を持ちはじめたんです。で、3年生の時に専攻を社会学に変えました」

「映像メディア学の単位が足りなかったのもあるんですけど、社会学の方がもっと現実に通用することが多いかな、って感じたんです」

「それで社会学やジェンダー学を学んでいくうちに、どんどんアナキズムとか反資本主義に目覚めていっちゃって(笑)」

パンクでヒッピーな仲間たちと勉強会に参加したり、デモをしたこともある。

そうして社会的な活動に没頭しつつも、大学は無事に卒業した。

「ニュージーランドでは、日本みたいに就職活動とかはないんですよ」

「だから、学生時代から働いていたフェアトレードのお店で仕事を続けつつ、バイトを掛け持ちしていました」

大学卒業後に就職しなかったからといって、周囲から「負け組」と思われたりすることもなかった。

04ポリアモリーとの出会い

ポリアモリーとは?

ここ数年で、日本でもようやく「ポリアモリー」という言葉がメディアで取り上げられるようになった。それでも、一般の認知度はまだ低い。

「ポリアモリー」とは、日本語では「複数愛」と訳されることが多い。

「恋愛は1対1でするものだっていうのが一般的な認識ですよね」

「でも、ポリアモリーは複数のパートナーと同時に恋愛関係を持つことがあります。もちろん全員が合意の上で、お互いを支え合いながら、幸せをわかち合える関係性を築くんです」

ポリアモリーがセクシュアリティの枠組みに入るかについては、賛否両論がある。

「LGBTのカテゴリーには入らないけど、“誰をどのように好きになるか” っていう枠で捉えたら、近いものなのなんじゃないかな」

自分にはポリアモリーの要素があるかもしれない。そう気付いたのは、23歳の時だった。

「当時、大好きな彼氏がいたんですけど、ほかにも好きな人ができてしまったんです」

「ほかの人も好きになったからといって、彼氏と別れるのは嫌だった。悩んでいるうちに、なんで好きな人が2人いちゃいけないんだろう?って思うようになったのがきっかけでした」

その少し前に、「ポリアモリーというライフスタイルが、アメリカを中心に広まっている」という記事を読んだ。

「その時は、へーそうなんだ、ぐらいにしか思っていませんでした」

そのことを思い出し、「もしかしたら自分が求めているのはポリアモリーなのかもしれない」と思って、ネットの情報や本を読みあさった。

三角関係

当時付き合っていた彼は、ニュージーランドで生まれ育った日本人。

生い立ちや趣味が似ていることから仲良くなり、徐々に惹かれていった。

「彼氏とは2年半くらい仲良く付き合ってたんですけど、私はニュージーランドに住み続けることに迷いを感じていて、日本への帰国を決めていたんです」

帰国まであと半年。

その間、2人で思い出をいっぱい作ろうと語り合っていた矢先に、ほかにも気になる男性が現れた。

相手は、ポーカーで生計を立てていたギャンブラー。

付き合っている彼氏とは正反対で、これまで会ったことがないタイプの人間だった。

「バイト先にお客さんとしてやってきたその男性に、電話番号を聞かれたんです。そのときは『すいません、私彼氏いるんで』って笑って済ませましたけど」

最初はなんとも思っていなかった。

その日、家に帰って彼氏に「今日こんな人が店に来たんだよ」と笑って報告したくらいだ。

「でも、何度も店に来られるうちに、まあ友達ならいっかって感じで連絡先を交換したんです。そうしたら、どんどんその人のことが気になるようになっていって・・・・・・」

真面目でほんわかとした彼氏と比べて、肉食系でグイグイくるタイプの彼。

「わがままなのはわかっていたんですけど、自分の気持ちを言わずにこのままズルズルするのが怖かったので、彼氏に相談したんです」

「あの人のこと、少し好きになってるんだよね」と告白し、自分はポリアモリーかもしれないということも正直に話した。

「仁希の気持ちの整理がつくまで待っている」と言ってくれた彼氏。

しかし、その後3人の関係はどんどん泥沼化していった。

「最終的には、日本に帰国後どっちとも自然消滅になっちゃいました」

「でも、その出来ごとがポリアモリーを自認するきっかけでした。当時は自分の思いやりが足りなすぎたと後悔していますが・・・・・・(苦笑)」

「自分に嘘をつきたくない」と言っていたが、心のどこかで彼氏がオープンな三角関係を認めてくれるんじゃないかと期待もしていたと思う。

「今でも、彼氏のことを考えると心が痛みます。あの時は本当に申し訳なかったなって」

傷つけたくない、失いたくないと思いながらも、大切な人を傷つけてしまった。

それが、人生最初のポリアモリー体験だった。

05日本の空気に馴染めない

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日本名への戸惑い

「23年間ずっと『キニマンス』姓で生活していたのですが、日本の戸籍では『塚本』なんです」

帰国直前に、母からは「塚本と名乗るように」と言われた。

急に新しい苗字を使わなければいけないことに対して、戸惑いを感じた。

「帰国してしばらくは、ちゃんと日本人なんだって証明してやる!って意地になってました」

ちょっとでも言葉や漢字を間違えたりすると、「ハーフだからしょうがない」と言われることがすごく悔しかった。

政治を語りにくい風潮

日本で過ごしていて違和感を抱くことがあった。

「ニュージーランドでは仲間たちとデモに参加したり、気軽に哲学や政治を語れる風潮がありました」

「でも、日本では突っ込んだ議論をしようとすると、『イタイ人』と思われる空気を感じましたね」

日本の友達との会話は、芸能人の話やコンビニのお菓子についてなど、他愛もないものばかり。

「自分が本当に関心を持っていることについて語り合える日本人が少なくて。そこでまた、異質的なものを自分に感じたりもしました」

「一番語りたいのに誰とも共有できない政治や社会のこととか、哲学やジェンダーのことなど、話し相手のいないフラストレーションを、mixiやブログにぶつけてました(笑)」

「今思えば、自分は何も行動してないのに偉そうなことばっかネットに書いていましたね」

「何ができるかわからないっていう無力感もあって、吠え続けていたのかも」

自分の価値観にマッチしないものは排除する。そんな周囲の空気も嫌だった。

「これまでまったく知らなかった概念に触れた時に、『何それ、変!』って拒絶する人っているじゃないですか?そういう風にはなりたくないんです」

偏見や無知に溺れず、様々な価値観を理解したい。

それは、自分がつねにまわりから偏見の眼差しを向けられていたからかもしれない。


<<<後編 2017/05/23/Tue>>>
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06 “クィア” が一番しっくりくる
07 ふさぎ込んで、自分を見失って
08 アメリカを旅して
09 自分を偽らずに生きる
10 私みたいな人間だって、ちゃんと存在してるんだ

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