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答えは自分の内側にしかない【後編】

答えは自分の内側にしかない【前編】はこちら

2016/11/14/Mon
Photo : Taku Katayama  Text : Mana Kono
藤原 直 / Nao Fujiwara

1978年、大阪府生まれ。3人兄妹の長女として生まれるが、幼い頃から自身の性に疑問を抱きながら育つ。ワーキングホリデーでニュージーランドへの渡航を経験し、27歳の時に当時パートナーだった女性に初のカミングアウト。帰国後にGIDと診断され、2011年からホルモン治療をスタート。翌年、戸籍変更に至る。保育士や保険会社でのファイナンシャルプランナーの仕事を経て、2016年10月より独立。現在は、インターネットラジオ番組「ゆめのたねラジオ」でパーソナリティーを務めるほか、LGBT向けのライフビジョンコーチングも行うなど、フリーランスとして幅広く活動している。

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INDEX
01 幼い頃から抱いていた違和感
02 言いたいことが言えなかった
03 真面目ないい子を演じよう
04 恋愛にはまだまだ奥手
05 男と女、どっちなの?
==================(後編)========================
06 心機一転、ニュージーランドへ
07 恋人と家族へのカミングアウト
08 父からの意外なメッセージ
09 自分は自分でいいんだ
10 ようやく掴んだ明るい未来

06心機一転、ニュージーランドへ

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環境を変えよう

20歳を過ぎてからは、テレビなどでも「性同一性障害」というワードをよく見かけるようになった。

そして、その頃流行していたSNS「mixi」で、初めて自分以外のセクシュアルマイノリティとコミュニケーションを取ることに。

「そこで初めて、自分の居場所はあるんだ、ということに気づいて楽になりました。情報交換をする中で、すでに性転換手術を終えて男性になった方にも会ったんです」

自分はこれでいいんだ。

そう思えるようになったものの、性転換手術やホルモン注射はまだこわい。

ネット上には、「性転換手術をすると、平均寿命が43歳になる」という噂も出回っていた。

「親のことや世間体もあったので、できるならやっぱり生まれ持った体で、自分の思考や感情だけを変えられたら一番いいんじゃないかって思っていました」

保育士の仕事は楽しかったが、自分に対するモヤモヤとした想いは一向に晴れないまま。

環境を変えて、どこか違う場所に行きたい。 そう思った。

「環境を変えたら違う自分になれるんじゃないか、って。環境を変えても変わらなかったら、自分はもう一生女性が好きなんだろうなと思いました」

そんな思いから、保育士の仕事を1年間休職し、ワーキングホリデーでニュージーランドへ渡航することを決意する。

25歳。

海外に行けば、普通の女の子になれるかもしれない。

ニュージーランドでの生活

一念発起して訪れたニュージーランド。

この土地は想像以上に居心地がよくて、休職中だった保育士の仕事を辞めて、最終的には5年もの歳月を海外で過ごすこととなる。

勤務先は五つ星ホテル。

最初は清掃の仕事をしていたが、コミュニケーション力を買われてか、すぐにスーパーバイザーに着任する。

さまざまな人種が集まるチームをまとめたり、新しくオープンするホテルの立ち上げ事業にも参加した。

生き生きと仕事をしながらも、プライベートでは友人に「ナオってすごく話しやすいしノリもいいんだけど、どこか表面的だね」「人生6割くらいで生きている感じがする」と言われる毎日。

「自分が女性を好きになってしまう気持ちや、男性の格好をしたいという気持ちを抑えている40パーセントの部分を、まわりは感じていたんでしょうね」

環境を変えたところで、人はそう簡単に変われるものではないのかもしれない。

07恋人と家族へのカミングアウト

恋人への告白

運命の出会いは、27歳。

シェアハウスで知り合った年上の日本人女性に告白され、彼女と恋人関係になった。

「彼女はそれまでは男性としか付き合ったことがなかったそうで、私に対して抱いていた感情も、男性に対する好意と同じようなものだったそうです。『女性同士っていうのはわかってるんだけど』と告白されて」

そして、彼女に “自分が男性の心を持っていること” をカミングアウトする。

彼女からの言葉は、「直ちゃんは直ちゃんで変わらないよ。言ってくれてありがとう」。

愛する彼女にあたたかく受け入れてもらえたことで、その後は親しい友人たちにもカミングアウトの輪を広げるようになっていった。

「海外にいる方って、多様性を認めるタイプが多いので。『ナオはナオだよね』って受け入れてもらえて、どんどん楽になっていきました」

じつは、ニュージーランドはLGBT先進国。国内では同性婚も認められている。

「ニュージーランドでは、窮屈さはまったくなかったです。ゲイの友達もいましたし、街もそれを受け入れているような感じでした。女性らしさを強制されるということもなく、住みやすかったです」

今なら母に言えるかも

家族へのカミングアウトは、ひょんなことがきっかけだった。

ホテル勤務の休憩時間、ふと日本から送ってほしいものがあることを思い出し、母へ国際電話することに。

「なぜかその時に、今なら言える、今言おうって思ったんですよね」

現在付き合っている女性がいること。これまで自分自身をずっと男性だと思っていたこと。

将来的にも男性になって、彼女と結婚したいと思っていること。

この3つを、勢いに任せて電話越しの母へ伝えた。

母は驚きつつも、あっさり、「小さい頃からそうじゃないかと思っていた」と返した。

小さい頃から男の子向けの服や遊びを好んでいた娘の姿を見て、母も薄々感づいていたようだ。

そして、冷静に「お兄ちゃんと妹には言っておくけど、お父さんはちょっと難しいかもしれへんから、ちょっと置いとこう」と提案される。

「わー、やっと言えたわー! バレとったんならもっと早く言えばよかったわー! と思いました(笑)」

その後、妹から送られてきたメールも、拍子抜けしてしまう内容だった。

「妹からのメールは、『ねーちゃんじゃなくてにーちゃんだったんだね! オッケー!』みたいな、軽いノリで。あまりにサラっとしているので、この20数年間は何だったんだという気持ちになりました」

08父からの意外なメッセージ

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答えは外側にはない

シェアハウスで出会った彼女とは、残念ながら2年ほどで別れてしう。

そして、それとほぼ同時期に日本の病院でGIDカウンセリングを受けられることが決まり、5年間の海外生活に終止符を打つことに。

「結局、海外でどんな景色を見ても誰といても、自分の違和感は変わらない。答えは外側にはない。いつまでも自分と向かいあわずに逃げていたら、結局は何も変わらないんだとわかったんです」

帰国後は、幼少期から慣れ親しんだ大阪で一人暮らしをスタート。GID外来でのカウンセリングにも通い始めた。

「それまでは、まだ自分が男として生きていくべきなのか、踏ん切りがついていませんでした。だから、早くGIDという診断をしてもらいたかった。自分が何者かわからない時間が一番しんどかったですね」

カウンセリングの結果は、やはりGID。

ホッとしたのもつかの間、また新たな問題が浮上する。

「その先の治療をどうしようか、迷いが出てきました。1回ホルモン注射を打ち始めると血栓ができやすくなったり、副作用や体への負担も現れるから心配で」

体はそのままで、心だけ男性として生きていくべきなのか。治療を受けて、ゆくゆくは社会的にも男性として生きていくのか。

簡単には決められなかった。

父からの手紙

時間をかけて悩んだ末に、ホルモン治療を決意する。

しかし、それまでにひとつ、どうしてもすませておきたいことがあった。

それは、父へのカミングアウト。

「治療をはじめたら、一年後には男性として就職しようとも考えていたので、その展望も父に伝えておきたかったんです」

母や兄妹へのカミングアウトからは、5年もの月日が経っていた。

「父は、妻子に対してあまり干渉してこないタイプだったので、どことなく距離を感じていて。受け入れてもらえるか自信がなかったんです」

まずは母に連絡を入れ、実家で家族会議が開かれることとなった。

母からは「それまでにお父さんに話しておくね」と言われたが、やはり自分の言葉で想いを綴りたい。

「性同一性障害とは何か」「どういう治療段階か」、そして「小さい頃から現在に至るまでの自分の想い」を手紙に書いて、父へ送った。

「父に安心してもらえるように、これからの仕事や恋愛、治療計画といったライフプランを表にまとめて。結局、便せん9枚になっちゃいました」

そして、いよいよ迎えた家族会議。

日曜日の昼下がり、母の手料理を食べながらテーブルを囲む。

父は何食わぬ顔で席について、「新婚さんいらっしゃい!」を見入っている。きっと、番組が終わったら会議がはじまるんだろう、と思った。

だが、「新婚さんいらっしゃい!」が終わって次の番組になっても、父はテレビを見ているばかり。なかなか家族会議が始まらない・・・・・・。

「お互い気まずくて、どう切り出していいかわからない。そわそわした空気が続いて、結局夕方になってしまって。 『そろそろ帰るか』みたいな雰囲気になって、えっ、今日家族会議するんじゃないの⁉ って思いました(笑)」

と、突如父が、「手紙を読んだ」と口火を切り、胸ポケットからくしゃくしゃの紙を取り出した。

そして、「俺がお前に言いたいことは2つだけだ」と言い、手紙を読みはじめる。

“ 今、性同一性障害というものはあまり知られていないから、周囲からの差別や偏見があっても、きちんと自分で対処していけるか。そこが心配だ ”

“ どうしても親は先に亡くなってしまう。だからその時に一人になってしまわないように、きちんとそばにいてくれる人を見つけてほしい ”

反対されるに違いないと思っていた父から告げられた、意外なメッセージ。

渡された手紙には、何度も繰り返し書き直した跡があった。

「その手紙を読んで、LGBT関係なく、どの親も子どもに対して思うことはきっと一緒なんだろうなと思いました」

もしかしたら、自分も父を誤解して生きていたのかもしれない。

今でも、この日のことを思い出すと思わず涙が溢れだしてしまう。

09自分は自分でいいんだ

体も名前も男性に

こうして家族全員へのカミングアウトを終え、いよいよ治療を開始することとなった。

ホルモン注射を始めると、体には着々と変化が現れた。3ヶ月ほどで声が低くなり、筋肉もつきやすくなった。

「うれしかったですね。治療前は怖かったですけど、やり始めてから後悔したことは一度もないです」

2012年。戸籍変更を経て、念願だった男としての道を歩み始める。

そして、かねてより勉強していたファイナンシャルプランナーのキャリアをスタートさせるため、転職活動を開始。

「新しく就職するにあたって、体も名前も男性で履歴書を書きたいという想いがあったんです」

転職活動はスムーズに進み、保険会社でファイナンシャルプランナーとして働くことが決まった。

仕事のストレスから休職へ

ところが、実際に入社するとノルマも多く、厳しい現実に打ちのめされる。

「仕事がどうしても好きになれなくて、精神的に参ってしまったんです」

売上のストレスや不規則な生活。

頻繁に帯状疱疹を患ったり、体重が15キロも増加するなど、負担は体にも現れるようになった。

そんな矢先、医者から肺結核疑惑の診断を下され、今年8月から出勤停止を余儀なくされることに。

「休職中、しばらくは熱もあってつらかったんですけど、それが落ち着いてからは結構時間があって。いい機会だしと思って、お墓まいりに行ったんです」

「そこでお墓を整えていると、ふと声が聞こえたんですよ。『このまま今の仕事を続けていて、明日死んで後悔しないか?』って」

この生き方をしていたら、絶対に後悔する。もう仕事を続けられないと思った。

じつは、仕事を始めてから慢性的な頭痛と肩こりにも悩まされていた。様々な病院を渡り歩き、心療内科で下された診断は “適応障害による心身症”。

会社に心療内科での診断についても話した結果、今年9月に退職することになった。

37歳。

この歳で転職は、なかなか難しいだろう。LGBTとして雇ってくれる会社も少ないかもしれない。

4年前から交際しているパートナー女性にも、おそるおそる退職の旨を伝える。返された言葉は、「やっと気づいたー!いつ気づくかなと思ってたけど、もう、好きなことしてください!」。

「まわりから見たら、やっぱり相当無理していたみたいで。でも、好き嫌いで決めていいし、自分の気持ちをもっと解放して生きていいと思えたら、すごく楽になって。自分は自分でいいんだって、はじめて思えたのかもしれないですね」

10ようやく掴んだ明るい未来

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フリーランスとしての第1歩

今年9月に退職してから、まだ1か月ほどだ。しかし、着々と前へと歩き出している。

「今は前向きです。悩むことといえば、色々とやりたいことがあるので、どれから手をつけようかっていう」

現在は、インターネットラジオ番組でパーソナリティを務めている。今後はコーチングの仕事や、ホテルのコンサルティング業も始めることになりそうだ。

これからは、会社には属さず、”藤原直” というひとりの人間として何ができるかを追求していきたい。

「仕事を辞めることになったのも、ギフトだと思っています」

ひとつの区切りがあったことで、自分の嫌な部分も受け止めることができたのだ。

これからは誰かの役に立ちたい

自分が苦難を乗り越えたことで、まわりに悩みを打ち明けられずに悩んでいるLGBTにも、前向きな人生を送ってほしいと考えるようになった。

「最初は仲間とつながってほしいですね。一人で悩まないでほしいということが一番です。リアルが難しかったら、今はSNSのようなネットのツールもたくさんありますし」

そうはいっても、自分を認められるようになったのは、つい最近のことだ。

ここに至るまでに、何十年も苦み続けた。

しかし、だからこそ今は胸を張って生きていくことができるのだと思う。

「今までの人生で一番時間を費やしてきたことこそ、誰かの役に立つんじゃないかと思っています。それが、私の場合は “自分を好きになって自分らしい生き方をすること” だったんです」

自分自身が多くの苦悩を経験してきた分、これからは少しでも悩める人たちの手助けができたら。藤原さんは、そう笑顔で語った。

あとがき
子供への親のおもいは、祈りのようだと感じた。お父さんが書き消ししながら、直さんに渡したメモ「どうしても親は先に亡くなってしまう。だからその時に一人になってしまわないように、きちんとそばにいてくれる人を見つけてほしい」。心が強く揺さぶられる■取材スタッフに投げかける直さんの質問は、とても謙虚だった。直さんの光る持ちものは、弱さを認められるしなやかさ・・・・・・今また世界へ飛び出す。見つめる世界は、きっと平らで優しい。(編集部)

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