INTERVIEW
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「あなただから」と受け入れられた日から始まる、色鮮やかな世界【前編】

八丈島の豊かな自然とともに育った吉田美幸さん。第一印象は「快活」な人。けれど話を聞き進めると、強烈な個性の家族の中で、ずいぶんと気持ちがもやもやして、心が揺らいできた人なのだということがわかる。生きることがつらくて、楽になりたいと、トランスジェンダーだと思い込もうとしていた思春期。”自分が何者か” がわからない状態は、想像以上に、つらく苦しい。現在はバイセクシュアルを自認するが、実はまだ、ゆらゆら、ふわふわと落ち着かない。それでも、いまの吉田さんの顔は明るく、「納得したような」感がある。それは、苦しみ抜いてきた過去も含めて肯定してくれる人がいてくれるからだった。

2016/06/06/Mon
Photo : Mayumi Suzuki  Text : Momoko Yajima
吉田 美幸 / Miyuki Yoshida

1991年、東京都八丈島生まれ。子どもの頃から「女性らしく」ということに違和感を持ち、中学校には男性の制服で通う。自身を性同一性障害(GID)だと思う時期を経て、現在はレズビアン寄りのバイセクシュアルという認識を持つ。フリーランスの編集者として出版社で料理本の編集などを担当。

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INDEX
01 「男のかっこう」と「女のかっこう」
02 ずっと死にたいと思っていた
03 性同一性障害だと思い込んで楽になりたかった
04 “ふつう” じゃない母子関係
05 八丈島というコミュニティに生まれ育って
==================(後編)========================
06 勉強と恋愛相談で大人気の「吉田塾」
07 島からも家庭からも離れ、変化していく自分
08 パートナーと出逢えてガラリと世界が変わった
09 社会でのカミングアウトの微妙さ
10  LGBTについて考えることは、十人十色でいい

01「男のかっこう」と「女のかっこう」

「あなただから」と受け入れられた日から始まる、色鮮やかな世界【前編】,01「男のかっこう」と「女のかっこう」,吉田 美幸,バイセクシュアル、GID

その日によって「男子」「女子」を自分の中で使い分ける

「なぜだかは分からないのだけど、私の中で、〈女の子のかっこうをする日〉と〈男の子のかっこうをする日〉というのが、明確にあるんですよ」

10歳の頃だ、という写真を見る。

日に焼けた肌に黒い短髪の、健康的な少年が、サッカーのコーチの横で笑う。

別の写真、中学校の修学旅行の写真には、少しぽっちゃりとした、学ラン姿の男の子がピースサインで写る。

この頃のことを知っている人は、いま会えば「変わったね」と言う。
それはそうだ。

いまも昔も戸籍上は「女性」であるが、子どもの頃はまるで見た目も気持ちも、男の子だったから。

高校の写真では、目が隠れるぐらいの前髪で制服のスカートをはいている姿が、大学時代の写真には、中性的なかっこうや、露出の多いギャルファッションに身を包んだ姿がある。

どれも同じ人物のはずなのに、その見た目の変遷はめまぐるしい。

性別も名前もかっこうも「記号」である

「髪が長い時もあったんですけど、やっぱり女子っぽくて違和感があって。仕事の時は今日みたいに、ボブカットとか中性的な感じですけど、女子の買い物に行く時は、ロングへアのウィッグをかぶって短パンで足を出したりします」

「逆にメンズの服を買いに行く時は、ショートカットのウィッグを被って、メンズっぽいかっこうをします」

話していると、”女子っぽい”、”男子っぽい”、という単語が多く出てくる。

自分の性別の自認として、男、女、特にどちらだとも思っていない。

だから女性のかっこうをするのは、女装している感覚に近い。

小さな頃から、美幸という名前が女の子らし過ぎて、その名前で呼ばれることに抵抗があった。

性別に関しても同じく、女子トイレに入りたくはないのに、入りなさいと言われるから入っているだけ、という思いがあった。

女、男、という「記号」に押し込められることへの反発心は、自分の中のセクシュアリティを、少し複雑で、不安定なものにした。

02ずっと死にたいと思っていた

自分のことは「僕」、サッカーもエロ本も男子と一緒

小学生の頃は、地元のサッカーチームに所属していた。

女子チームの人数が少なかったため、練習や試合は男子と一緒だ。

ショートカットで短パン、言葉遣いは「僕」、「オレ」を使う、そんなスポーツ少女だった。

「子どもって残酷だから、確かにいじめみたいなのはありました。女のくせに僕とかオレとか言って、サッカーやってるやつがいるぜって。でも、これはいまだと完全に痛い子なんですけど(笑)、いまでいうオタク的な『僕っ子』というかそんな感じの扱いで、特にいじめの種にはならず」

「それより太っていることでいじめられることはあったかな。小さい頃は両親に可愛がられたせいですごく太っていたんです(笑)」

学校に行かなかったり、保健室登校をしたこともあるが、大親友の女の子がいたおかげで孤立することはなかった。

他人のセクシュアルについて無関心、無頓着なその大親友は、小学校から高校までずっと精神的な拠り所だった。

男子の間でエロ本の貸し借りが流行っていた時は、その輪の中に入り、エロ本を読む。

狭い町で、書店は知り合いがやっている店である。
すぐに父親にバレて怒られた。

「どうして男が読むような、女の裸ばかりの漫画をお前が読んでるんだ!」

自分のセクシュアリティへの違和感から来る孤独を、一番感じていたのは、学校でも社会でもなく、実は家庭だった。

特に亭主関白で厳しい父の存在は、吉田さん自身の心に暗い影を落とす。

「女は女らしく、男は男らしく」の父への反抗心と諦めの念

父には「女として生まれたなら女らしくしろ。男みたいな言葉遣いやかっこうをするな」と、真っ向から否定され続けてきた。

父は昭和11年、つまり戦前生まれの人。

生まれ育った時代の価値観や社会的な背景を考えれば、その時代を生き抜いてきた父が自分の考えを曲げられないのは理解できる。

厳しく保守的な父からすれば、自分の子どもすらコントロールできないなんて、考えたこともなかったろう。

それでも、「あたし」と女性のように称することは、自分に嘘をつくようでできなかったし、中学校の女子のスカートの制服も、どうしても着られなかった。

相いれることのない、父と娘。

小学生の頃から長いこと、ずっと、死にたいと思っていた。

でもいつの日か、成人して自分で裁判をして身体も戸籍も変えられるようになるまでは、「うまいこと」この苦しい日々をすり抜けて生き延びようと思った。

死にたいのは、生きたいから。

「いつか死ぬ日の自分のために、いま生き延びたい」と、願っていたのだ。

03性同一性障害だと思い込んで楽になりたかった

「あなただから」と受け入れられた日から始まる、色鮮やかな世界【前編】,03性同一性障害だと思い込んで楽になりたかった,吉田 美幸,バイセクシュアル、GID

トランスジェンダーの先輩が切り拓いてくれた道

小学校まではサッカーも遊びも男女関係なく一緒だったのに、中学校では当然のようにスカートをはきなさいと言われる。

女子、男子と急に真っ二つに分けられることに納得できず、中学校の入学式当日、男子の制服を着ていった。

実は、男子の制服は、同じサッカーチームだったFTMトランスジェンダーの先輩からもらっていた。

スカートが嫌で不登校になり、学校と協議してズボンの男子用制服での登校が認められた人だ。

「自分も中学校でスカートをはきたくない」と先輩に相談したところ、入れ替わりに中学校を卒業する先輩が、余っている男子の制服を譲ってくれた。

「女の子が男子の制服を着て歩いていたら、絶対に後ろ指を指されるような、閉鎖的な田舎の社会です。そんなことわかっているのに、その先輩はズボンをくれて、一緒に男子の制服を着て歩いてくれたんです」

「私を男扱いも女扱いも、トランス扱いもせず、ただ人間として一緒にいてくれるような人は、島のような狭い社会では珍しかったと思います」

彼という前例があったことで、学校もある程度柔軟に対応することができた。

ある日、学校から呼び出された母親が帰ってきて言った。
「中学はズボンで大丈夫だって」

以来、中学校の3年間は基本的に男子の制服で通った。

「トランスジェンダーかもしれない」という思いに身を寄せて

ずっと自分のことをトランスジェンダーだと思っていた。

きっかけはテレビドラマ『3年B組金八先生』で上戸彩さん演じる性同一性障害の中学生が登場したことだ。

いま思えば、10代の頃はドラマの中の上戸彩さんがかっこよくて、憧れていたのかもしれない。

「その頃はトランスジェンダーしか知らなかったんです。自分の性の、このなんだかよく分からない感じも、性同一性障害だからだと思い込めば、その後生きるのが楽なんじゃないかと思って。性同一性障害との境い目ギリギリにいた感じです」

レズビアン、バイセクシュアルという言葉も知らず、「自分は男の子になりたいんだ」と、自分を思い込ませていたようにも思う。

しかし、小学生の頃から、好きになるのは女の子のこともあれば、男の子のこともあった。

小学生の時、男子に告白したこともある。

「嫌だったと思いますよ。男のかっこうしたやつから好きだって告白されたら、相当戸惑うでしょうね(笑)。でもその男の子、『ごめん、そういう気持ちで見られない』ってちゃんと言ってくれて。自分が悪くもないのにごめんって言えるなんて、いい人ですよね(笑)」

結局、男性と付き合うことはなかったが男性も好きになれることは自覚していた。

逆に女子と同じ部屋での着替えや女子トイレの利用には「この場にいちゃってすみません」という、男子目線での申し訳なさや恥ずかしさがあった。

図書室でLGBT関連の書籍も探した。

小学校には1冊、高校には3冊あった。
中学校には1冊もなかった。

トランスジェンダーとして生きていくことで落ち着いていたけれど、本を読むと、どうも自分は少し違うのではないかと思い始める。

それがわかってきたのは、高校生になってからだった。

04 “ふつう” じゃない母子関係

父と正反対、個性的で強烈なアーティストの母

吉田さんのセクシュアリティの揺れは、母の存在を抜きにしては語れない。

母は、保守的な父とは正反対の、男や女という区分けがどうでもいいタイプの人だ。

ひと言でいえば変わり者。

見た目は “男らしい” 女性で、いつもハチマキを巻いていたり、身内の葬儀にも男性の喪服で参列する。

「保育園のお迎えに、おお、みゆきーって言って、お父さんみたいな人が来るんですよ(笑)。友だちが『美幸ちゃんって、お父さんしかいないの? お父さんが2人いるの?』と聞くんだけど、母が『そうだよー』って言うもんだから、その子が他の子に『本当だってよ!』って走って言いに行くんです」

「そんなのねえ、小さい頃は嫌で仕方がなかったですよ」
母は芸術家。

美大に行くお金がなかった若い頃は、なけなしの貯金でスペインに行き、安アパートで絵を描いていたような人である。

アーティストの間では性はすでに使い古されたテーマだ。

アーティストにはゲイもいればレズビアンもバイセクシュアルもいる。

性別を超越したところで切磋琢磨する世界に生きてきた母は、そもそも物事を計るものさしや、器の大きさがまったく違う。

当然、娘の性についてもこだわりがなかった。

母のセクシュアリティについて考える

高校は町に1つだけある都立校に通った。

中学校のように男子の制服で通いたいと生活指導の教諭に相談したが、町立の中学校と違い、東京都の規定か何かで、残念ながら認められなかった。

その時に母に説得された言葉はいまでも覚えている。

「お母さんも高校の時、スカートの制服が嫌で不登校になりかけたけど、これは『スカート』ではなく『セイフク』であると思って乗り切った。制服というひとつのテンプレート、型だから、スカートだと思わずに気にせず着て行けばいいんだ」

一応、納得をして、3年間我慢してスカートの制服を着た。

それはどこか、仮装している感覚でもあった。

性別も、名前も、衣服も、ただの「記号」であるのなら、思い込めばやれないことはなかった。

母もまた、自分のセクシュアリティでの苦悩があったのだろう。
ある時、部屋の片づけをしていて、長らく開けられていない段ボールの中に、母のスペイン時代の日記を見つけてしまった。

読み進めるうちに、頻繁に登場するアルファベットの人物が同性であることに気づく。

ハッキリとした記述はないまでも、その女性に対しての、母の息苦しいほどの思いや困惑が、伝わってきた。

「あー、なるほどなぁ、だから私のことも何も言わないんだなと、思いました」

当時はいまのように風通しのよい時代ではないから、障がいや性的マイノリティなどに対して、もっと偏見があって大変だったろう。

05八丈島というコミュニティに生まれ育って

「あなただから」と受け入れられた日から始まる、色鮮やかな世界【前編】,05八丈島というコミュニティに生まれ育って,吉田 美幸,バイセクシュアル、GID

人情に厚い「情け島」であり、周囲との距離が近すぎる町

八丈島は、人口約8200人(平成22年調査)ほどが暮す、東京都でも大島に次ぐ2番目に大きな島である。

島に伝わる民謡では、「沖で見たときゃ鬼島と見たが 来てみりゃ八丈は情け島」と謡われ、江戸時代には流刑になった罪人の多くが流れ着いたことで知られている。

遠くから見ると岩肌をさらした恐ろしい島だが、実は人情豊かな島だった、という意味のようだ。

「移住してきた人でも、いったんコミュニティに入ると、しつこいぐらいにおせっかいを焼くのが島の人。でも田舎らしく、たとえば男の子と歩いていたらその日の夕方には親のところに話が伝わっていて、帰って玄関を開けた瞬間に、『男できたんだって?』と言われるような狭い町です」

島には当時小学校が5つ、中学校が3つ、高校は1つあり、全地区が高校で一緒になる。

小さい頃にいじめられていた子も、いじめていた子とずっと同じ学校に通うため、どんな怨恨があったとしても高校まではそれを表に出さずに過ごすしかない。

そんな、島生まれ島育ちだからこそ感じる閉塞感と逃げ場のなさも影響していたのだろうか。

中学校を卒業する頃には「島を出たい」という思いが強くなった。

18歳までは親元に―― 初めての、母からの反対

父は相変わらず、言葉遣いや服装について怒鳴り散らして反対する。

一方、母はまったく自分の考えも押しつけず娘にも「対人間」として接するが、やはり変わり者である。

一般的にイメージされる「母と娘」という枠には収まらない関係性だ。

「両親はいつも酒を飲んではケンカしているし、殴りあったりね。怖かったですよ。もう何なんだよこの家! みたいな感じ。いま思い返せば、お互いすごく酔っ払っている状態で何も生まれるわけがないのに、と笑えますが、あの頃はなんというか、他人と住んでいる感覚で」

「家にいるのがものすごくつらかった」

家族と、誰かと一緒に住むというのが、自分には合わないと思った。

中学校を卒業したら働くので東京に行きたい。

そう、母に伝えた。返ってきた答えは「NO」だった。

「その理由が、なんだかアーティストっぽい表現の仕方だと思ったんですけど(笑)。高校までは親が監督するが、それ以降の長い人生は全部好きにしていい。逆に18年しか子どもと一緒にいられないのだから、それまでは自分たちから親として子育てする楽しみを奪わないでくれ」

「18歳までは、せめて家族として子と一緒にいさせてくれ。そういう言い方をされたんです」

あなたのため、などとは言わない。

自分のためと、はっきり、正直に言う母。

そして18歳以降は解放すると言っているのだ。

これまで何事にも反対されたことはなかったが、これが初めての、母の反発だった。

「そう言われたら、ほぉぅ……まあそうだよね、18歳までしか一緒にいられないもんね、って思っちゃったし、それくらい我慢してやるか、ってね(笑)」

そして、島内にある唯一の都立高校に入学した。

<<<後編 2016/06/08/Wed>>>
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06 勉強と恋愛相談で大人気の「吉田塾」
07 島からも家庭からも離れ、変化していく自分
08 パートナーと出逢えてガラリと世界が変わった
09 社会でのカミングアウトの微妙さ
10 LGBTについて考えることは、十人十色でいい

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