02 都会の学校でいじめにあう
03 自己表現を認めてくれた担任の先生
04 トランスジェンダーなのか? という不安
05 モヤモヤの中学時代。高校入学で一からやり直す!
==================(後編)========================
06 私の性別は「まさ」
07 レディ・ガガに憧れてアメリカ留学
08 初めてのパートナーはゲイのメキシコ系アメリカ人
09 失敗したカミングアウト
10 好きな言葉は、LOVE IS LOVE
06私の性別は 「まさ」
そうか、決めなくていいのか!
軽音楽部の部長は、同学年の女性だった。
「その子と、とても仲よくなって。彼女は私を “親友” と呼んでくれたんです。でも、中学時代の経験で、私は何だか怖くて呼べませんでしたね(笑)。」
何でも話せるほどの関係になったある日、「自分が男か女か分からないんだよ」とセクシュアリティの悩みを打ち明けた。
「そうしたら、その子が『まさは、まさでしょ。どっちかに決めなくてもいいやん』っていってくれたんです」
そうなのか、決めなくてもいいのか!
決めなくちゃいけないのかと思っていたよ!
まさに眼から大きな鱗が落ちた感じだった。
「それまでは、どっちなんだ? と意地悪で聞かれると、分からない、と答えていたんです。でも、それからは、私の性別は『まさ』に決めました」
クラスメイトも、「まさという性別」を面白がって歓迎してくれた。
「私の個性として捉えてくれました。ストンと落ちた感じで、ものすごく楽になりました」
親友の彼氏に恋心
学校生活はこれまでになく充実したものになったが、家庭での厳しい状況は続いていた。
「もちろん、セクシュアリティのことは家族に隠したままでした。その頃、母が病気になったり、父が単身赴任でいなくなったり、いろいろなことがありました」
そうするうちに、また好きな相手ができた。
「それが、軽音楽部の部長の彼氏だったんです。サッカー部に入ってる、いい意味でマイペースな男子でした」
恋愛相談を受けたり、3人で出かけたりするうちに、自然と彼に惹かれていった。
「でも、セクシュアリティの話もしなかったし、告白もしませんでした。ふたりのことが好きだったから、幸せになってほしい、と願ってましたから」
07レディ・ガガに憧れてアメリカ留学
大学生のノリについていけない
当初、家から通学できる神戸大学を目指したが、父がいた大阪の社宅に住めることになり、大阪市立大学に目標を変更する。
「起業家になりたいと話したら、市立大の商学部で経営学を勉強するのがいい、と勧められたんです」
いざ、入学してみると、大学生のノリに戸惑ってしまった。
「大学生ってこんなもんなんだって思いましたね。大学生活を楽しもうとは努力しましたけど・・・・・・」
意外にも先輩を立てる、煩わしい上下関係もあった。
「留学したいと思ってたんで、お金を貯めるためにバイトをたくさんしました」
留学の動機はレディ・ガガだ。『Born This Way』は、「自分らしく堂々と生きれば、それでいいんだ」と歌ったメッセージソングだった。
「いじめ撲滅、弱者を救済という、彼女のスピリチュアリティが大好きでした。ガガになりたい! って本気で思ってました(笑)」
LGBTに対する理解や自らのルーツがイタリア系であること。差別を受けた体験も隠さない。そんな力強い姿勢に大いに感銘を受けた。
バイトで留学資金を貯める
「バイトは本当にいろいろなことをしました」
スーパーのレジ、コールセンター、結婚式場、ホテル。さまざまな職場を経験した。
「勉強も頑張って、学費免除も受けることができました」
しかし、私費留学にはお金がかかる。バイト代だけでは、目標額に到達しなかった。そのときに思い当たったのが、母親が貯めていてくれた結婚資金だった。
「いつか、私が結婚するときのためのお金があったんです。でも、それはあり得ないことでしょ、結婚なんかしないんですから(笑)。頼み込んで、そのお金を使わせてもらいました」
留学に反対だった母の理解を得るのは大変だったが、なんとか拝み倒した。
「留学先はカナダを考えていましたが、日本人が多いと聞いて候補から外しました。度胸をつけたかったんで、日本人が少ないところがいいなと思って」
選んだ先は、アメリカのアリゾナ州ツーソン。大学2年の秋、砂漠の中の美しい町に旅立つことが決まった。
08初めてのパートナーはゲイのメキシコ系アメリカ人
異国で体験する初めての恋
「ツーソンは素晴らしいところでした。夢を見てるようでしたね。これって、まるで映画の中の世界じゃん! って感激しました」
しかし、さすがに本場の英語は受験英語とはまるで違って、とにかく難しかった。あまりに通じなくて、眠れなくなるほどショックを受ける。
「日本語禁止、日本人と会うこと禁止、を自分で決めて頑張りました」
その甲斐あって、数カ月で、何とか日常会話に困らないまでに上達することができた。
「その代わり、関西弁が話せなくなってました(笑)」
留学生活が軌道に乗った頃、ひとつの出会いがあった。
「彼は7つ年上のメキシコ系アメリカ人で、英語の先生でした。研修で知りあって、向こうからいわれました」
英語の先生なので、こちらがいいたいことを察して理解してくれる。それもふたりのコミュニケーションをスムーズにした。
「最初は、タイプじゃないなぁ、と思っていたんですが、一緒にいるうちに、だんだん好きになっていきました」
ゲイであることは秘密
異国の地で経験する初めての恋愛。戸惑うことも多かった。彼の家に行くと、そこではスペイン語が公用語だった。
「彼はゲイであることを、家族にも職場でもオープンにはしてませんでしたけど、二人きりになると、とにかく愛情表現が豊かなんです」
初めのうちは楽しいことばかりだったが、次第に噛み合わない部分も見えてきた。
「私は、少女漫画みたいな恋愛を思い描いてたんです(笑)。めちゃくちゃ愛されて、どんなときも離れない。どんなことがあっても、この人と一緒にいるんだ、みたいな」
ところが、彼のほうは「試しにつき合ってみた」というスタンスだった。
「一緒に住むところまではいったんですが、カルチャーの違いも大きくて・・・・・・」
つき合い方に悩むうち、感情のアップダウンが激しくなってしまった。
「飲んでいた薬が合わなかったりして、辛い時期もありました。でも、彼には本当に助けてもらいました」
乗り越えられると信じて過ごすうちに、1年間の留学はタイムアップとなった。
09失敗したカミングアウト
パートナーとの破局
自分は日本に戻り、彼は英語教師として中国に赴任した。
「私も一度、中国に会いに行きました」
そして、今度は彼が日本に来ることになり、滞在する10日間のうちに、今後どうするかを決着しよう、ということになった。
「じっくりと話し合ったんですが、結局、別れるしかない、とふたりで泣いて結論を出しました」
中国へ帰る前に、彼が実家に来てくれた。
「家族には、アメリカでよくしてくれた仲のいい友だち、としか紹介してなかったんです。でも、みんなで話しているうちに、伝えたい気持ちが膨らんでしまって、このタイミングならうまくいくかもしれない、と」
最初からそのつもりではなかったが、結果的に母親にカミングアウトすることになってしまった。
「そのときは頷いて聞いていたんですが、翌朝、起きてみたら、家族は誰もいなくなってました」
完全な拒絶反応
空港で彼と最後のお別れをするために大阪にいるとき、母親から電話がかかってきた。
「電話口で、いろんなことをブワッといわれました。完全な拒否反応でした」
「裏切られた」
「嘘をつかれた」
「留学なんかいかせるんじゃなかった」
「気持ち悪い」
「セクシュアリティなんか分からん」
「アメリカで辛いときに助けてくれた人なんだ」と、いくら説明しても分かってもらえなかった。
「私だって母の愚痴聞き役を何年もしてきたのに、人間の尊厳を否定するようないい方は許せない、と逆恨みしてしまいました」
ただ、人間として認めてもらいたい。希望はそれだけだった。
「父親にも泣かれましたね。でも、父のほうは比較的早く、落ち着いてくれましたけど」
カミングアウトの難しさ、家族に理解してもらえないことの辛さを痛切に感じた出来事だった。
10好きな言葉は、LOVE IS LOVE
気軽にふらっと寄ってもらうのが理想
彼との別れとカミングアウト失敗のダブルショックで落ち込んでいたとき、ふとユース支援のアイデアが浮かぶ。
「自分自身が中学のときから性の悩みを持っていたのに、誰にも相談できなかった・・・・・・。若い子たちが悩みを話せる場所があったら、生きやすくなるだろうな、と思ったんです」
そう考えると、大阪にはしんどいときに助けてくれる場所がなかった。
「でも、活動を始める資金がありません。大学の親友に相談すると、クラウドファンディングというアイデアが出たんです」
お酒を飲みながらの雑談で出たアイデアだったが、申し込んでみると、翌日、すぐに担当者から電話がかかってきた。
「それからは、トントン拍子に話が進んで、2020年1月に『プライドプロジェクト』が立ち上がりました」
尊厳が守られた状態だから何をしゃべってもいいんだよ、というコンセプトを前面に出した。
「ゲームをしながらとか、季節感のあるテーマを設定したりとか、なるべくみんなが入りやすい環境を心がけています」
中学生、高校生にとっては、学校、家庭の次のサードプレイスとして立ち寄ってもらいたい。
「気軽にふらっと、お茶でも飲みに行く感覚で来てもらうのが理想です」
もし、すぐに足を運べなくても、打ち明けられる場所がある、と覚えておいてもらうだけでも意味があると感じている。
人との繋がりが広がった
プライドプロジェクトを始めると、驚くほどたくさんの出会いに恵まれた。
「活動家の方たちはじめ、いろいろな人と知り合う機会がありました。想像してなかった喜びでしたね」
尼崎市で活動をするMixRainbowでは、副代表を任された。
「井餘田みのりさんが代表を務めるMixRainbowは、尼崎市の教育関係と連携を取っているので、ほかの地域の行政の人たちがモデルにしたいと見学に来ることもあるんです」
講演会は、現在、月に1、2回の依頼がある。
「学校や自治体が主催するイベントのプロジェクトメンバーとして、ほかの活動家の人に声をかけてもらうことも多いですね。私と同年代で活動をしている人、が少ないからかもしれません」
若いLGBT当事者の話を聞くと、より身近に感じる人も多いだろう。
「相談で多いのは、カミングアウト、性自認、親との関係ですね。デートDVや妊娠相談もあります」
生きているだけで偉いよ
活動をしていくためには、自分のことを発信して知ってもらうことも大切だと気づいた。
「私がどんな人物なのか分からないと、みんなも信用できないと思うんです。裏づけっていうんですかね。ラジオでの配信もそれが目的です」
立ち上げ時に京都新聞のネットニュースに取り上げられたのも大きかった。
「実は、私がメディアに取り上げられることで、母もだんだん理解してくれるようになりました。これだけ頑張っているのか、と思って勉強もしてくれたみたいです」
これからは、カウンセラーの資格を取って活動の幅を広げていくつもりだ。
「今、考えている最大の目標は、同性婚を実現させることです。私の考える同性婚の定義は、誰でも愛する人と結婚する権利、です」
障害者と比べても、性的マイノリティに対する国の支援はぜい弱だ。少しでも弱者の助けになりたい。
「自分がしんどかったときに、頑張れっていわれるのが、逆に辛かったんです。だから、それはいわないようにしてます」
「相談に来てくれた子に必ずいうことが2つあるんです。ひとつは、親のいうことは聞いたほうがいいけど、どうするかは自分で決めるんだよ、ということです」
もうひとつは、「生きているだけで偉いよ」。
好きな言葉は、LOVE IS LOVE。
「私は、出会った子たちのために生きようって思います」