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クエスチョニングだっていい、悩んでいる自分を受け入れていこう【後編】

クエスチョニングだっていい、悩んでいる自分を受け入れていこう【前編】はこちら

2017/08/29/Tue
Photo : Mayumi Suzuki Text : Mana Kono
渡辺 メアリー 博美 / Mary Hiromi Watanabe

1977年、東京都生まれ。日本人の母とニュージーランド人の父を持つ。千葉大学教育学部在学中に、休学を経て4年間ニュージーランドへ。現地では専門学校に通いながら、調理士免許を取得する。帰国して大学を卒業。現在はフリーランスとして、テープトランスクライバー、アロマアドバイザー、調理士、英語の塾講師など、さまざまな仕事に携わる。

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INDEX
01 多様性に囲まれて
02 同性を好きになっていいなんて知らなかった
03 コンプレックスから拒食気味に
04 自分の心に向き合って
05 ニュージーランドでの出会い
==================(後編)========================
06 第3者からのカミングアウト
07 心のバランスを求めて
08 自分の現状を受け入れる
09 セクシュアリティはまだ探求中
10 自分も他者も癒し続けるのがライフワーク

06 第3者からのカミングアウト

シェアハウスでの事件

ニュージーランドに渡って半年ほど経った頃、彼女とシェアハウスで一緒に暮らすことになった。

しかし、事件が起こる。

「家主が私と彼女の関係性を聞きつけて、うちの両親に報告してしまったんです」

「娘が女性と付き合っている」と知って驚いた両親は、日本からすぐにニュージーランドに駆けつけた。

そうして、両親と自分と彼女の4人で話し合いの場が持たれたのだった。

「両親は、その時すごく怒ってました」

「でも、怒りのエネルギーはあるけど、うまく言葉にはならないようでした。きっと、向こうもどうすればいいのかわからなかったんでしょうね」

その後両親同伴でカウンセリングにも行ったが、お互いの言い分がかみ合うことはなかった。

そして結局、両親は納得しないまま帰国。

「もしも、これがニュージーランド生活終盤あたりだったら、無理やり日本に帰されていたかもしれません」

「でも、まだ半年しか経っていないこともあって、あっちに残してくれたんだと思います」

父は自分が「ニュージーランドに行け」と言い出したから、中途半端な状態で帰国させることはできなかったんだろう。

結果、お互い不完全燃焼のような形でふたたび離れることになってしまった。

当時はそうするしかなかったのだ。

彼女との別れ

両親のニュージーランド弾丸来訪以降、生活には特に荒波も立たず、彼女とも相思相愛の日々が続いていた。

もともと1年間だった滞在予定を大幅に伸ばしたのも、彼女の存在があったから。

「日本の大学は、休学を最長4年まで延長することができたんです。だから、ギリギリまで伸ばそうと思いました」

そうしてニュージーランドを訪れて3年ほど経った頃、ある日突然彼女から別れを切り出される。

「泣きながら、『もう付き合っていくことはできない』って言われたんです・・・・・・」

「その頃、私はかなり無頓着だったんだと思います。お互いのバランスが崩れていたというか、彼女に頼りすぎていた部分がありました」

泣いて「別れよう」と言われるまで、彼女の気持ちにまったく気付けなかった。

そうして、2年半の交際に終止符を打った。

「でも、結果としては前向きな別れになりました。その後彼女とはいい関係を築くことができたんです」

別れてからも、彼女とは友人関係を続けている。

07心のバランスを求めて

帰国後のカルチャーショック

彼女と別れたことと、休学できる期間のリミットが迫っていたこともあって、ニュージーランド生活4年目に日本への帰国を決意する。

両親とはニュージーランドでの一悶着もあったが、帰国後はこれまで通り円満な関係へ。

大学にも無事復学した。

「とはいえ、実家から大学まで通うのが遠くて大変だったので、千葉で一人暮らしをはじめることにしたんです」

ところが、一人暮らしをスタートさせて、またすぐに心のバランスを崩してしまった。

「4年間休学していたことで、大学に同年代で話が合うような学生がほぼいなかったんです」

以前仲が良かった友達は、みんな社会人になったり大学院生になったりと、それぞれ新たな進路を進んでいた。

「それと、ちょうど、“ゆとり教育” が導入された頃で、教育方針もガラッと変わっていてカルチャーショックを受けてしまったんです」

「働くこと」への焦り

「教育実習に行きましたが、体調が万全でなかったので大変でした」

「でも、最後に生徒たちからはいい言葉をたくさんもらえたし、いい経験になりました」

卒業試験になかなか受からなかったため、半年伸びてしまったが大学はなんとか卒業。

「本当は大学院に進学したかったんですけど、金銭的なこともあってとりあえず社会に出ようと思ったんです」

卒業後は、まずは仕事に慣れるために学童で半年ほど勤務した。

その後、小学校の非常勤教諭に転職したのだが、半年ほどで退職。

養護学校などを転々としたが、やはり体調的な問題があって、なかなか仕事を続けることができなかった。

「薬を飲んでいればなんとか働けてはいたんですが、だいぶギリギリのところだったと思います」

08自分の現状を受け入れる

父の死

お金を稼がないといけない。でも、なかなか仕事を続けられない。

焦燥感に苦しめられた。

学校教諭は体調的にも厳しいだろうと思い、新たにテープ起こしの仕事もはじめることにした。

「もともと、母がテープ起こしの仕事をしていたんです。なので、母を師匠として弟子入りしたような感じですね」

「講演会やインタビューの書き起こしをするのはすごく楽しくて、その仕事は10年間続いています」

そんな中、2年前に父が病気で亡くなった。

「父には、何事も『お前ならきっとできる』って言われて背中を押されていたんです」

「だから、父が生きているあいだはずっと挑戦し続けていたように思います」

父が応援してくれるのはありがたかった。

だが同時に、がんばろうと思っても体がついていかないはがゆさも感じていた。

「父が亡くなってからは、母が『あなたは不安定な体調とも向き合って生きていかないといけないんだから、あせらなくてゆっくりでいい』と言ってくれたんです」

「それからは、だいぶ気が楽になりました」

現在、精神的にはかなり落ち着いている。

このままでいいんだ

「振り返れば、やっぱり父は偉大だったなって思います」

「でも、父がいた頃は、なんで病気になったんだろうとか、なんでニュージーランドに行っちゃったんだろう、って堂々巡りで考え続けてしまっていたんです」

しかし、たくさんの人と出会い、助けられていくなかで、ある時ふっと力が抜ける瞬間があった。

もしかしたら、私はこのままでもいいのかもしれない。

「今を楽しめば、それが未来につながるんだろう、ってようやく思えるようになりました」

「まだいろんなことを迷っている途中ですが、それでも、この場所にいてもいいんだっていう思いも強くなってきました」

悩んでる途中だって、こうやって自分のことを話したっていいじゃないか。

09セクシュアリティはまだ探求中

今はクエスチョニング

ここ数年で、LGBT活動の場にも参加するようになっていった。

そこで、「パンクセクシュアル」という概念をはじめて知ったのだった。

「これまで、男性と女性の両方とお付き合いしてきましたが、相手の性別は関係なく、“その人だから” 好きになったんだっていう感覚があったんです」

自分はパンセクシュアルなのかもしれない。

一方で、最近では欧米を中心に、セクシュアルマイノリティのすべてを総括する「クィア」と名乗る人々が増えている。

ということは、自分も「クィア」と言った方がいいのだろうか?

「いろいろ考えてるうちにわからなくなって、セクシュアリティについては迷宮入りしているところです」

たとえるならば、トンネルの中にいるような感覚だ。

「だから、現在はクエスチョニングにしています」

自分では、それが「枠にとらわれない形」なのだと思う。

セクシュアリティは名札のようなもの

「今は、セクシュアリティについてはそれほど悩んでいないです」

「というのも、付き合っている人がいないからなんですよね」

人との関係性が近くなると、どうしても悩みや愚痴とかが出てきてしまう。

「私はセクシュアリティに流動性があるというか、相手に合わせて女性的になる時もあれば男性的になる時もあるんです」

ニュージーランドでレズビアンの女性と付き合っていた時も、「あなたはバイだから、恋愛対象が広くて大変」と言われて悩んだこともある。

しかし、今はそういう悩みとは無縁のフリーだから、ある意味気楽だ。

「でも、母はいまだに私のセクシュアリティを受け入れられていないと思います」

だからといって、母からはあまりつっこんだ話はされていない。

「性指向は治るのか?」「今後改善することはないのか?」などと聞かれたこともなかった。

「だから、私からもその話題について触れにくかったし、ちゃんと話し合わない状態で今まできてしまったんです」

そのせいか、これまで母に対しては「どうしてわかってくれないの?」と、真っ向からぶつかるような態度で接していた。

でも、理解しようといくら努力したって、どうしても受け入れられないことだってきっとあるだろう。

「だから今は、『受け入れきれていなかったとしても、そのままのお母さんでいいよ』って伝えています」

10自分も他者も癒し続けるのがライフワーク

カウンセラーへの夢

「これから、やりたいことはたくさんあります」

今でも、臨床心理を勉強してカウンセラーになりたいという夢は抱き続けている。

「なんらかの困難や生きづらさを抱える人の自立を手助けする、『ピア・カウンセラー』になりたいんです」

教育関連の仕事はライフワークとして続けつつ、その中で人の話を聞く仕事にもチャレンジしていきたい。

以前、「癒しとは、自分を肯定すること」という話を聞いた。

「治療っていうのは痛みや苦しみを取り除くことですが、癒しは痛みや苦しみを受け入れることだって聞いたんです」

そこから、「癒し」について深く考えるようになった。

他者に対してはもちろん、自分自身を癒し続けていくことも、生涯のテーマだ。

人生は表裏一体

付き合っていくなかで、苦手な人間のタイプが2つある。

「ひとつは、今に感謝をしていない人。もうひとつは、現在の自分を肯定していない人。この2タイプの人はちょっと苦手だなって感じています」

そういう人を見ていると、過去の自分と重なって見える。

自分も昔はそうだったから。

そうやって現在を肯定できない人たちに、今立っているその場所にも、本当は素晴らしいものが眠っているんだ、ということを知ってもらいたい。

「刺繍の裏側って、グチャグチャになっているじゃないですか?でも、表側はすごく綺麗なパターンになっている。人間もそれと同じだと思うんです」

そのことに気づくには時間がかかるし、時には遠回りだってするだろう。

でも、今苦しんでいる人でも、いつかきっと気づきを得られるはずだ。

少しずつでいいから自分を大切にして、徐々にストレスや負担を減らしていく努力をしていこう。時には、周囲の人間に頼ったっていい。

自分自身、けっしてひとりの力だけではなく、たくさんの人に支えられてここまで歩んできた。

だからこそ、すべての出会いに感謝の意を表したい。

今までかかわってくださった、たくさんの皆様へ

今、私が毎日を感謝ではじめ、感謝で終えることができるのは、今まで私にかかわってくださった皆さまのおかげです。

特に、
身近にいる方たちには、たくさんの愛情とあたたかさを分けていただき

ときに辛抱強く待っていただき
ときに大切な知恵を分かちあってくださり

ときにただ祈り

そして、つたない言葉に耳を傾けてくださり、私が「生きる」ことに心を砕き続けてくださいました。

ここに、大きな感謝と、これからその恩返しに、私の人生を生きていけたらと思っています。

これからも様々な応援やアドバイスお願いいたします。

さらに、友人や仲間、そして大きな家族として、一緒にこれから、この素敵な人生を生きていきましょう。



渡辺 メアリー 博美

あとがき
感銘を受けたという言葉を、博美さんはよくシェアしてくれる。求めていると色々なことが生きるヒントになるのだと思った■迷いや不安なおもいを引き受けた博美さんは、LGBTERの記事を「生きていく上での宣言」と、静かに力強く言った■叶わないことも、物ごとの正負もひとつの事象でしかない。となれば、「苦しみや辛さ、負=不幸」ではない。どのように受けとめて、どう考えるは誰にも押し付けられず、制限もされていない。そんなことに気づいた。(編集部)

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