INTERVIEW
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人間じゃなくても恋愛対象。僕はパンセクシュアルにも収まらないかも。【前編】

落ち着いた受け答えで、半生を語ってくれた李永晧さん。言葉数は多くなかったが、ひとつひとつに明確な芯と思いを感じ取ることができた。韓国人の父と日本人の母の間に生まれた李さんが、幼い頃から感じてきたものは、自分自身がマイノリティであること。しかし、それは苦しみを生むものではなく、自分の特徴に過ぎなかった。そう思えたのは、自身の幅を広げる術を見出すことができたから。

2017/12/27/Wed
Photo : Taku Katayama Text : Ryosuke Aritake
李 永晧 / Lee Yeongho

1988年、神奈川県生まれ。生まれてすぐ、父の祖国である韓国に移り住み、小学3年生の途中で日本に帰国。中高大と定期的にホームステイや留学を経験し、外国の言語や文化を学んできた。高校3年で双極性障害、26歳で広汎性自閉症スペクトラムと診断される。大学卒業後はIT関連の企業に勤め、現在は転職活動中。そのかたわら、月に一度LGBTバーでオーナーを務めている。

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INDEX
01 日本生まれ韓国育ちの利かん坊
02 多趣味で凝り性な “海外からの転校生”
03 恋愛を知らずに過ごした思春期
04 他国の文化を身につけていく喜び
05 不安定な状態で挑んだ大学受験
==================(後編)========================
06 世界を知るために学び続けた大学時代
07 大人になって知った恋愛感情
08 バイセクシュアルかもしれない自分
09 パンセクシュアルという新たな指標
10 限界を決めずに前向きに進むこと

01日本生まれ韓国育ちの利かん坊

使う言語と使わない言語

1988年、神奈川・鎌倉で産まれ、すぐに父の仕事の関係で韓国に移住した。

「産後数カ月から8歳まで、韓国で過ごしました」

韓国人の父も日本で生まれ育っていたため、家では日本語で話していた。

幼稚園に通い始め、当たり前のように韓国語が使われている環境に戸惑った。

「聞き取ることはできたけど、自分からはあまりしゃべらなかったです」

「生活していく中で、韓国語は自然と覚えていきました」

幼い頃は、いたずらっ子だった。

友だちと一緒に、走り出そうとする車に、水風船を投げたことがあった。

巣から無尽蔵に出てくるアリに興味を持ち、捕まえたこともあった。

「どちらかというと、じっとしていない子でした」

「2歳下の弟とも公園で砂遊びをしたり、よく一緒に遊んでいましたね」

礼儀作法に厳しかった母

母は、韓国の文化や教育を重んじる人だった。

母の教えの土台となっていたのが、「祖先を敬う」「家長を敬う」「礼儀を大切にする」というもの。

「もともと母は、韓国の日本大使館で日本語を教えていたので、文化にも理解を示したんだと思います」

「『人からものをもらったらお礼を言いなさい』とか『挨拶をしなさい』って、よく言われていました」

「いたずらをした時は、すごく怒られました」

母からは、人として最低限の礼儀やマナーを教えてもらった。

幼い頃の自分は、母の言うことをしっかり聞き入れる子どもだったと思う。

「しょっちゅう叱られていましたけど、その度に母の言いつけをちゃんと聞いていました」

サラリーマンの父は、外出していることが多く、一緒に遊んだ記憶はほとんどない。

「昔は忙しい人だったけど、今は相談事をすると親身になってくれます」

小学3年生の夏休み、韓国から日本に戻ることになった。

降り立った地は、大阪。

02多趣味で凝り性な “海外からの転校生”

すぐに馴染めた日本での生活

日本と韓国は、生活様式がほとんど変わらなかった。

日本に越してからも、文化の違いや言語に対する戸惑いはほとんど感じなかった。

「当時は韓国語の方が上手で、日本語は少し片言でした」

「でも、生活には困らなかったので、新しく住む地域の方言が使い慣れないくらいの感覚でした」

夏休み明けから、大阪の小学校に通い始めた。

最初は「海外から来た転校生」として、学年中の注目を浴びた。

「隣のクラスから、僕のことを見にくる子もいました」

「特に嫌ではなかったです。注目されることは、好きかもしれない(笑)」

大阪での暮らしにも、小学校のクラスにも、馴染むのは早かった。

「越してきてすぐに運動会があったんですけど、みんなが面倒を見てくれました」

好きなことを追究する性質

韓国にいた頃から、ピアノを習っていた。

「母の勧めで始めたけど、ピアノは好きで、大阪でも続けました」

ピアノと同じように好きだったものが、小説。

江戸川乱歩の「少年探偵団シリーズ」は、小学生のうちに読み尽くした。

「アルセーヌ・ルパンシリーズ」や「シャーロック・ホームズシリーズ」も好んで読んだ。

「物語に没頭している時間が好きだったし、楽しかったです」

「小学生の頃は、好きなものもどんどん増えていきました」

百人一首に興味を持ち、5年生の時にすべての札を覚えた。

母の料理の手伝いをしていく中で、米研ぎにハマった。

「僕が手伝った日のごはんがおいしくて、研ぎ方や水の量にこだわるようになりました」

「当時は、漫画を描くことにも夢中になっていました」

興味の幅が広く、なんでもきわめたくなる性格だ。

居心地の良かった囲碁将棋部

中学では、囲碁将棋部に入った。

小学生の頃から、自治体が開く将棋教室に通っていた。

「先を読む緊迫感が好きで、中学に部活があったので、入りました」

部員は9名程度で、試合に出るほどの実力はなかったが、部活の雰囲気が好きだった。

「部活の仲間とは特に仲が良くて、放課後に一緒に遊んだり寄り道したり」

「冗談を言い合える仲でした」

どちらかといえば、クラスでは目立たないおとなしい男子ばかりだったが、毎日が楽しかった。

入部して唯一戸惑ったことが、部活前のランニング。

「顧問の考えなのか、活動の最初に必ず2kmくらい走らされたんです」

「精神を鍛えるためって理由だったけど、入部前は知らなかったから、騙された、って思いました(笑)」

「毎回走っていたおかげで、長距離走は得意になりましたけど」

03恋愛を知らずに過ごした思春期

求めたものは「いじめっ子に打ち勝つ方法」

思春期に、人に恋心を抱いたことはなかった。

友だちと恋愛の話をすることもなかった。

「モーニング娘。やあややの話をすることはあっても、好きな子の話とかは出なかったです」

「中学生の頃は、日韓ワールドカップがあったので、サッカーの話題ばかりでした」

思春期特有の人間関係や性に関する悩みも、特に抱いてなかった。

常に考えていたことは、いじめっ子に対していかに言い返すか。

「囲碁将棋部の中に、『お前はゲームが下手だから省く』って言ってくる人がいたんです」

「どうやって張り合うかってことばかり、考えていました」

からかわれたり省かれたりして、落ち込むことはほとんどなかった。

それよりも、仕返ししてやる、という気持ちの方が大きかった。

「ドラえもんみたいに、何でも願いを叶えてくれる人が現れたらいいのに、って考えていました(笑)」

「昔から、1人でシミュレーションするのが好きでしたね」

結果的にやり返すことはほぼなかったが、嫌がらせによってふさぎ込むこともなかった。

一緒になって笑ってくれる友だちがいたからかもしれない。

初めてうまくいかなかったこと

高校では、サッカー部に入った。

「高校には将棋部がなかったし、ワールドカップで興味を持っていたこともあって、サッカーを選びました」

興味のあることを積極的に取り入れる性格は、高校生になっても変わらなかった。

サッカー部は休日にも練習があり、とにかく忙しかった。

「頑張ったんですけど、なかなかうまくならなかったです」

「サッカー自体は好きだったんですけど、しんどかった」

2年の秋に、退部。

「あと半年続けていれば、3年生の春で引退できたので、早まったかもしれないですね」

「部活を辞めたことで、大学受験には集中できたんですけど」

自分の人生を振り返っても、挫折したのはこの時だけかもしれない。

04他国の文化を身につけていく喜び

感覚で覚えたスペイン語

中学生の頃、市内の子どもが参加できる体験学習の一環で、アメリカ・モンタナ州にホームステイしたことがある。

「小さい頃から日本と韓国を行き来していたので、海外に行くことに抵抗はなかったです」

「両親も『行ってみたら』って送り出してくれました」

高校に上がってからも、海外でのホームステイを経験した。

選んだ国は、メキシコ。

「中学でサッカーに興味が湧いて、スペイン語が話してみたくなったんです」

「本当はスペインに行きたかったんですけど、ステイ先がなかったので、スペイン語圏のメキシコにしました」

2週間のホームステイ期間中、ステイ先の家族にスペイン語を教えてもらった。

自転車を指差して、スペイン語の「自転車」を教えてもらうという形で単語を学んでいった。

「参考書は一切持っていなかったので、フィーリングで覚えた感じです」

「帰る頃には、ステイ先のお母さんの話しが通訳なしでわかるようになりました」

昔の建物を見ながら話してくれた「これは16世紀に建てられた家だよ」という言葉が、理解できた。

帰国してから、独学でスペイン語を習得した。

この頃から、言語に興味を持つようになった。

言語を通じて知る異文化

言語を習得するおもしろさは、コミュニケーションが取れた時に感じる。

「ただ通じるだけじゃなくて、相手と心をやり取りして、通じ合った時がうれしいですね」

相手との距離感や間合いの詰め方は、国や文化によって異なる。

外国に赴き、現地の人とコミュニケーションを図ることも好きだった。

「日本語特有の空気の読み方があるように、英語にもスペイン語にも独特の間があるんです」

「言語による違いを読み取って、その国らしいコミュニケーションが取れた時が、一番楽しいです」

さまざまな言語が話せるようになることだけを、目標にしているわけではない。

人間関係を形成する術を、一つの文化として知っていきたいという好奇心が強い。

「コミュニケーションの取り方も、その国の文化です」

「言葉も文化の一つなので、新しい言葉を学んでいくことが好きなんです」

現在は日本語、英語、スペイン語、フランス語、トルコ語で会話ができる。

「韓国語はあまり使ってこなかったので、ちょっとあやしい(苦笑)」

「まだ知らない言語は多いし、学べるものがあるならば、無限に学んでいきたいです」

05不安定な状態で挑んだ大学受験

突然現れた精神症状

高校3年の12月、年の瀬が押し迫る頃、体調を崩してしまった。

「体の具合も良くないし、外にも出たくなくなってしまいました」

何かしらの病気だと思い、内科を受診すると、精神科に行くことを薦められた。

言われるがままに訪ねた精神科で、双極性障害(躁うつ病)と診断された。

「診察を受けて、薬を飲み始めました」

「躁うつ病になった明確な理由はわからないけど、大学受験が不安だったことは確かです」

「大学に行きたい気持ちはあったけど、受かるかどうかわからなくて、漠然とした不安を抱えていました」

薬を飲み始めてからも、なかなか症状は改善しなかった。

それでも大学に行きたい一心で、受験は諦めなかった。

「大学で外国語や外国の文化を学びたかったし、国際的な活動もしたかったです」

新生活を迎えても続く症状

身体的にも精神的にも厳しい状態が続く中で、大学受験に挑んだ。

「辛い中、命をかけるくらいの覚悟で試験を受けました」

「両親は、僕の姿を見て心配していました」

大学に行きたい気持ちや外国の文化を知りたい気持ちを糧に、挑むしかなかった。

その結果、志望していた大学に見事合格。

ひとつの目標を達成し、大学生としての新生活が始まった。

「それでも、躁うつ病の症状はしばらく続いていましたね」

「落ち着いてきたのは6年ぐらい経ってからで、大学時代は不安定でした」

「感情が激しく移り変わるので、それが自分でもちょっと怖かったです」

感情が高ぶり、興奮状態になってしまうこともあった。

「今も安定しているとはいえないけど、症状とうまくつき合いながら過ごしています」

「感情が振り切ってしまうのではないか、って今でも心配になることがあります」

不安定な自分を抱えながらも、生きづらさを強く感じることはなかった。

今は「あまり苦しみを感じずに生きてこられた」と言える。

そう感じられるのは、大学在学中に自分自身を顧みて、知ることができたからかもしれない。


<<<後編 2017/12/29/Fri>>>
INDEX

06 世界を知るために学び続けた大学時代
07 大人になって知った恋愛感情
08 バイセクシュアルかもしれない自分
09 パンセクシュアルという新たな指標
10 限界を決めずに前向きに進むこと

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