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過去があるから今がある。経験が、やさしさや思いやりを身に付けさせてくれた【後編】

過去があるから今がある。経験が、やさしさや思いやりを身に付けさせてくれた【前編】はこちら

2017/07/06/Thu
Photo : Rina Kawabata Text : Ryosuke Aritake
萩原 航太郎 / Koutarow Hagiwara

1984年、大阪府生まれ。幼少期から女の子らしさに違和感を抱き、高校を卒業してから性同一性障害の存在を知る。大阪社会体育専門学校を卒業後、すぐに上京。ケーブルテレビの営業職で成果を上げ、複数の会社に引き抜かれるも人間関係のもつれから退職し、新宿二丁目のバーで働き始める。1年後、大阪府に戻ってカフェの店長を務めていた時、不運な事故に見舞われてしまう。現在は長崎県で最愛のパートナーと2人の子どもと一緒に、笑いの絶えない生活を送っている。

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INDEX
01 家庭環境が育んだ悲しい使命感
02 寂しさが空回りした小学生時代
03 友達と恋愛で頭がいっぱいだった思春期
04 楽観的に描いた目標は「今を楽しむこと」
05 目の前に現れた “知らなかった自分”
==================(後編)========================
06 順調に進んでいく仕事を阻む人間関係
07 無情に降りかかる過酷な試練
08 最後を覚悟したことで一気に開けた未来
09 一生をともにする家族という存在
10 今だから「刺激的だった」といえる32年

06順調に進んでいく仕事を阻む人間関係

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男として受け入れてくれた職場

大阪社会体育専門学校を卒業してすぐ、トランク1つで上京した。

「何のしがらみもない場所で、自分らしく生きたかった」

「自分でお金を稼いで、自分で生活をすれば、自分らしく生きていけると思ったんです」

当時付き合っていた東京の彼女の家に転がり込む形で、同棲生活を始めた。

派遣会社に登録し、ケーブルテレビの会社に営業職として勤めることになった。

「派遣会社の人にはFTMであることを伝えて、『女として働きたくないです』って言っていました」

「会社の部長も理解がある人で、『男性扱いで問題ない。お前は数字を取ってきたらいい』って言ってくれたんです」

しかし、当時はまだボーイッシュな女の子という外見で、改名もしていなかったため、FTMと知らずに告白してきた男性の同僚もいた。

「告白された時に『ごめん、女の子と住んでんねん』って素直に打ち明けました」

それがきっかけで部署の全員に知られることになったが、全員「問題ないよ」と言ってくれた。

「周りの人に恵まれて、社会で堂々と生きることができました」

部長の「数字を取ってきたらいい」という言葉に応えるため、業務には本気で取り組んだ。

その結果、全国3位の営業成績を記録し、社内の新人賞や優秀賞などをいくつも獲得した。

人間関係に悩まされて選んだ結末

最初の会社に3年間勤めた頃、引き抜きの話があり、別の会社に移ることとなる。

そこでも全国1位の成績を上げて表彰され、営業の手法を伝える講師としてセミナーを担当するようになっていった。

しかし、その職場ではパワハラや暴力が横行していた。

「上司も熱くていい人だったんですけど、僕も我慢の限界が来てしまって、26歳くらいで辞めました」

派遣会社の担当者との話し合いを重ねた結果、今度は名古屋で新たに立ち上がるケーブルテレビの会社に移ることが決まる。

同じタイミングで彼女と別れることになったため、単身名古屋へ。

「名古屋でも、面白いくらいに契約が次々と取れました」

「ただ、別の部署の管理職が違法行為を行っている現場を目撃してしまったんです」

すぐに直属の上司に連絡し、「彼の処罰に時間がかかるのであれば、僕はこの会社で働くことはできない」と伝え、結果的に会社を辞めて東京に戻ることになった。

名古屋にいた期間は、たった半年。

ちなみに、名古屋にいる間、飲み会で1人の女性と知り合った。

「その女性には恋人も子どももいて恋愛対象ではなかったから、連絡先だけ交換して別れました」

独り立ちしてから始めたホルモン注射<

働き始めて、費用が捻出できるようになってから、ホルモン注射の治療を始めた。

男になるための治療があることも「はじめのいっぽ」で知ったのだ。

「親にもらった体だし、男になりたいと思うのは僕の勝手だから、親に世話になっている間は治療しない、っていう自分の中での決め事があったんです」

「実は男っぽくなることより、生理が止まることに感動しました(笑)」

07無情に降りかかる過酷な試練/h2>

どん底に落ちて知った新たな世界

名古屋の会社を辞めて東京に戻った。

仕事に尽力してきた反動からか、お金をバンバン使って遊びまくった。

1年が経った頃、貯金もなくなり、人生の底に落ちたようだった。

「その時に手を差し伸べてくれたのが、新宿二丁目にあった『非常口』というバーの社長でした」

「『お前は本当に面白いな』ってかわいがってもらっていて、バーで開催するイベントのMCを任されたんです」

このイベントを機に、二丁目のバーでボーイとして働くことになった。

何度か、テレビ番組に出演する機会もあった。

「大阪にいたままでは知り合えなかったであろう人達と出会えて、すごく縁が広がりました」

「事業を起こしているわけでもないのに、僕は異常に交友関係が広いんです。人に恵まれているって、そういうことやと思うんですよね」

楽しさと喜びしかなかったカフェ業務

新宿二丁目のバーは、働き始めて1年後に店を閉めることになってしまった。

「残念だったけど、これを機に大阪に帰ることを決めました」

「大阪に戻ったからといって遊ぶわけにもいかないから、カフェのアルバイトを始めたんです」

「営業で培ったスキルを生かして、極上の接客ができるんじゃないかなって」

その予感は的中。

勤めてから3カ月で店長に上りつめた。

「給料は低かったし、ほとんど休みもなかったけど、過去最高の売上を更新し続ける店舗に変えられて、すごく楽しかったです」

「カフェを運営する会社も信頼してくれて、僕が出すアイデアに理解を示してくれたし、社会人生活の中で一番幸せな時期やったんです」

これからもっと上に行くぞ!と、期待に胸を膨らませていた矢先、思わぬことに遭遇する。

バイク事故を起こしてしまった。

圧しかかってくる “障害” の重み

頭を強く打ったことで高次脳機能障害を患い、事故直後は15分も記憶がもたず、言葉もしゃべれないという症状に襲われた。

「いままで当然のようにできたことができなくて、外国におるような気分でした」

「勤めていたカフェは『復帰まで1年待つ』って言ってくれたんですけど、僕の中では、カフェの現場で管理者不在という状況はあり得なかったから、『こんな形で店長はできない』って辞めました」

事故からの1年間は、軍隊のような苦しいリハビリが続いた。

人から「あなたは一生治らない」と心ない言葉を浴びせられたこともあった。

「もはや、悔しいって感情も出てこなかったです」

医師からは「社会に出ても、多くの人はリハビリセンターに帰ってくる。きちんと社会復帰できる人は3%しかいない」と言われた。

「性同一性障害を背負っているのに、高次脳機能障害に言語障害、遂行障害、注意障害も加わって、障害だらけな自分が悲しかった」

しかし、「僕は、その3%になります」と答えていた。

この言葉は、自分の意志だけで出たものではなかった。

幼い頃から仕事人間だった母が、この時は仕事を休んでまでも献身的に介護してくれた。

友達も駆けつけ、心強い味方になってくれた。

08最後を覚悟したことで一気に開けた未来

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自分に課した最後のチャンス

リハビリセンターを出た。

就職活動に励み、内定ももらった。

しかし、いままでのようには働けなかった。

短期間で3社を渡り歩いた。

「『やっぱり無理や、できへん』って思いました」

「よく後輩に『この世で一番嫌いな仕事やけど、天職やと思ってる』って話していた営業の世界には、戻らないつもりだったんです」

社内で表彰されるほど契約を取っていた頃の自分に、戻ることはできないと諦めていた。

「だから、これで無理やったらリハビリセンターに戻るって覚悟して、ダメ元でインターネットの営業の仕事を始めたんです」

「これが最後だと思ったら・・・・・・粘りますよね」

インターネットの営業では、ダントツで全国1位になるほどの業績を上げた。

「ここから自分の気持ちがグワッと上がっていくんですよ」

自分にできることはもっとあると思い立ち、障害者支援のボランティア活動にも参加した。

高い業績を評価され、本社に異動する話が出たが、同時に長崎で立ち上げる新会社の話も舞い込んだ。

「まだまだ現場で働きたかったから、長崎に行くことを決めました」

「今は、長崎県全域を担当させてもらっています」

思いがけない一言でつながった新しい家族

名古屋での飲み会で知り合った女性が、長崎にいるという話を聞いた。

なんとなく電話をかけた。

話が盛り上がった。

女性に恋人はいなかった。

「まじトリッキーなんですけど、電話したその日に『結婚を前提に付き合ってくれ』って言っちゃったんです(笑)」

「直感で『この人を逃したらあかん』って思ったんですよね」

すぐに付き合うことになった。

彼女には小学生の娘と息子がいた。

「付き合い始めてまだ1年4カ月くらいですけど、子ども達は『お父さん』って呼んでくれるんです」

「学校の参観日には毎回行くんですけど、周りの親から『本当のお父さん?』って勘違いされるくらい、子ども達と顔がそっくりなんですよ(笑)」

「子ども達にはFTMであることをカミングアウトしているんですけど、小学5年生の息子に関しては『本当にわかってんのかな?』って思う時もあります(苦笑)」

「今後は戸籍の性別を男性に変えて、法的にもちゃんと家族になりたいです」

09一生をともにする家族という存在

長い時間をかけた家族へのカミングアウト

両親や姉妹にカミングアウトしたのは、ホルモン注射を打ち始めてから。

一番上の姉は、家族の中でも最初に “弟” として扱ってくれた。

「知らない友達に『弟』って紹介してくれて、感動しました」

しかし、2番目の姉には「気持ち悪い」と拒否された。

「2番目の姉は偏見を持っている状態でした」

「でも、ここで焦ったらいけないと思いました。時間をかけていこうって」

カミングアウトから10年以上が経ってから、2番目の姉は「あんたが幸せやったら、私はあんたの生き方を応援する」と言ってくれた。

母は「この子は全部自分で決めてしまうから、言っても仕方ない」と諦めに近い感情を滲ませた。

父は何も言わなかった。

「当時は知らなかったけど、お父さんは『お前の育て方が悪いんや』ってお母さんを責めていたそうです」

そんな父が受け入れてくれたのは、東京で営業をしていた頃。

卵巣嚢腫を患い、手術のために入院していた時、母とともに東京まで来てくれた。

「帰り際にお父さんから『今、付き合ってる子はおるんか?』って聞かれたんです」

「『おるよ』って言ったら、『あの子と付き合ってる子は、ええ子なんやろうな』って遠回しに僕のことを肯定してくれたんですよ」

両親が帰ってから、涙が止まらなかった。

「ごめんなさい」よりも「ありがとう」という気持ちが大きかった。

「家族へのカミングアウトって、基本的に自己満足の世界やと思っているんですよ」

「自分のことを知ってほしい」「受け入れてほしい」という自分自身の欲求に過ぎないと思っている。

「家族だって、受け止めるには時間がかかるやろって思います」

「心配はかけてもいいけど迷惑はかけたらあかん。自分が人として成長し続ける生き方をしていれば、周りも変わっていくと思うんです」

仕事を一生懸命して、人に思いやりを持って、多少の親孝行ができれば、きっと。

父への思いが詰まった新しい名前

最近、「航太郎」に改名した。

もともとの名前は「みさき」。

釣り好きの父が和歌山県潮岬から取って、名付けたと知っていた。

「海にちなんだ名前だから、小さい頃から海を見るとどこか誇らしかったんです」

新しい名前にも海にちなんだ文字を入れたかった。

そして、父の名前「しゅうじろう」から文字をもらいたかった。

「お父さんが暴力を振るって、お母さんが血だらけになっている日もありました。当時はすごく苦しかった」

「でも、お父さんも苦しかったと思うし、いいところだってたくさんあるんです」

「お父さんに感謝しているから、いままでの経験があって今の自分があるから、一文字もらって『航太郎』にしたんです」

10今だから「刺激的だった」といえる32年

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すべては近くにいてくれた人のおかげ

家庭環境、いじめ、人間関係、事故・・・・・・さまざまなことを経験してきた。

しかし、今は前を向いている。

「過去があるから今がある。すべては “おかげ” やと思うんです」

「『辛かったし苦しかった。だからうまくいかない』って考えるのが嫌なんですよね」

「過去の経験がなかったら、人へのやさしさや思いやり、人と人がつながる時に必要なものが身に付かなかったと思うんです」

「父や母のおかげ、周りの人達のおかげで今の自分がいる」

すごく感謝している。

少数派の世界を知っている誇り

今は、LGBTの人達の力になりたいという思いもある。

「大勢の人の力になることは難しくても、1人の力にはなれると思うんです」

「自分が周りの人に支えてもらった分、自分を取り囲んでくれる人達に『ありがとう』を還元したい」

すべての人に共通しているものは「幸せになりたい」、という気持ちだと思っている。

服を買うことも、人を喜ばせることも、苦しむ人を救うことも、すべて自分の幸せにつながるから。

その感情には、ストレートもLGBTも関係ない。

「だから、LGBTの世界で生きている人にも、その世界で収まる人でいてほしくないんです」

「誰にでも心をオープンにしろというわけではなくて、考え方を広く持ってほしい」

「頭の中だけでも『自分はストレートの世界も知ってるし、LGBTの世界も知ってるねん』って胸を張ってくれたらなって思います」

「少数派と言われる世界で生きているのであれば、その世界を知っている強みを生かさないのはもったいないですよね」

どんなことが起こっても、自分らしい生き方を大事にしながら笑っていたい。

「32年という短い人生の中で、いろんな経験をさせてもらって、すごく刺激的でした」

「友達からよく『あんたの周りの人はいつも笑ってる』って言われるんです。人って1人じゃ絶対に生きていかれへんし、何事も人のおかげでやってこられたんだろうなって思います」

あとがき
踊るように話す?くらい、サービス精神旺盛な航太郎さん。だから余計に感じた、静かな時代。それは両親への無力感、家庭や学校での寂しさ、セクシュアリティのこと■いつも誰かを護るように生きてきた人だ。お母さん、働くスタッフ、今一緒に生活する唯一無二の家族etc 。本当はまもられたかったかな、とさえ思ってしまう。でも、今それはかなっている。心から安心できる家族との時間■航太郎さんの言葉「今は、過去じゃないんだから楽しもう!」の声が響く。(編集部)

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