02 寂しさが空回りした小学生時代
03 友達と恋愛で頭がいっぱいだった思春期
04 楽観的に描いた目標は「今を楽しむこと」
05 目の前に現れた “知らなかった自分”
==================(後編)========================
06 順調に進んでいく仕事を阻む人間関係
07 無情に降りかかる過酷な試練
08 最後を覚悟したことで一気に開けた未来
09 一生をともにする家族という存在
10 今だから「刺激的だった」といえる32年
01家庭環境が育んだ悲しい使命感
父への恐怖、母への不安
幼い頃、父が母に暴力を振るっていた。
嫉妬深かった父は、「飲みに行くな」「男と連絡を取るな」と母を束縛し、仕事から帰れば「今日、男としゃべってたやろ!」と母に手を上げた。
2人の姉は「聞きたくない」と、部屋に閉じこもっていた。
「当時は幼稚園児だったから、お父さんが手を上げる理由がわからなかったです。それでも『僕が守らないといけない』って思って、お母さんにしがみついていました」
看護師という仕事を最優先にしていた母は、仕事と家庭のストレスで薬を服用するようになった。
母からは睡眠薬と聞いていたが、強すぎる副作用に不安が募った。
「お母さんは常にボーっとしていて、その日にあった出来事をまったく覚えていないんです。車の運転もままならなくて、駐車で何回もぶつけていました」
「呂律も回らない状態だったけど、職場ではちゃんとしていたんですよ。様子がおかしかったのは家にいる間だけ」
湯船で溺れかけることもあった。心配で、風呂場を覗きに行くことが何度もあった。
幼すぎた当時は、警察を呼ぶ手立てを知らなかったため、「お母さんを守れるのは自分しかいない」と思っていた。
暴力的な父と無気力な母。姉との関係もドライなものだった。
外に出て活発に動き回るタイプだったが、いつも一緒に遊ぶのは近所の子ども達だった。
「家庭を守る」という選択をした母
小学4年生の時、母に「ほんまに離婚して」と懇願したことがあった。
しかし、母は頭を縦に振らなかった。
「『ママはしゅうちゃん(父)のことが好きやねん』って言って、別れなかったんです」
大人になってから当時のことを聞いた時、母は「子どもために別れなかった」と言った。
「祖母からも『一度結婚したら、離婚したらあかん』って言われていたみたいで、言いつけを守り抜いた結果やったんでしょうね」
現在、両親は実家で2人暮らし。
とても落ち着いた関係を築いている。
02寂しさが空回りした小学生時代
心の支えは異国から来た同級生
「お母さんを守らないといけない」と思いながら過ごしていた日々の救いとなったのが、小学4年生の時に転校してきた中国人の同級生。
転校してきた頃の彼女は、ほとんど日本語が話せなかった。しかし気にせずに話しかけたことがきっかけで仲良くなった。
「ある程度日本語がしゃべれるようになってから、家族のことも打ち明けるようになりました。聞いてもらえるだけで、すごく支えられましたね」
「でも、僕は5、6年生の時にいじめられてしまったんです」
空気が読めない不屈の精神
今振り返ると、いじめられる理由はいくつも思い当たる。
荒れた家庭環境で育ったためか、ADHD(注意欠如・多動症)の傾向があった。
小学校3年生まで左右を判断できず、靴の右左もわかっていなかった。
お風呂が嫌いだったから、ちゃんと体を洗わず、同級生から「臭い」と言われていた。
「クラスのほぼ全員からいじめられていました。無視とか暴力とか」
「それでも塞ぎ込むんじゃなくて、どんどん同級生のところに向かっていく子でした。相手の気持ちを考えて行動していなかったんですね」
公園で遊んでいる同級生の輪に加わろうとしても、「ごめん、無理やわ」と仲間に入ることを拒否された。
しかし、挫けずに向かっていき続けた。
それでも、やっぱり寂しかった。
「いじめられている時に支えになってくれたのも、中国人の友達でした」
「同級生の前では距離を置いていたけど、誰もいないところで声をかけてくれたり、話を聞いてくれたり」
いじめからの解放がもたらした変化
6年生の途中で、いじめがぴたりとなくなった。
「当時通っていた地域のバレーボールチームのコーチが、いじめの事実を知って、同級生を集めて叱ってくれたらしいんです」
「後で同級生に聞いたら、『めっちゃ怒られた』って言っていました」
「次の日から、みんなの態度がコロッと変わって、僕のところに来てくれるようになったんです」
「すごくうれしかった」
経験したことのない喜びと同時に、よぎった思いもあった。
「『自分も変わらなきゃ』って思いました。同級生が迎え入れてくれたチャンスを逃したくなったんです」
“みんなと仲良くなる” というチャンスをつかむため、周囲への接し方を改めようと心がけた。
これまでは人が傷つく言葉を気にせず言い放っていたが、考えて話すようになった。
「中学生になった時、中国人の友達から『ほんまに変わったな』って言われたんです」
「自分では変わった感覚はなかったけど、『ほんまに小学生の時のあんたはあかんかったで』って指摘されて」
「ここから、僕は出会いを大事にするようになりましたね」
03友達と恋愛で頭がいっぱいだった思春期
初めて抱いた謎の違和感
いじめられていた頃、「おなべ」と呼んでくる子がいた。
「僕はボーイッシュだったし、男の子相手に殴り合いのケンカもしていたけど、当時は『おなべって何?』って感じでした」
ただ、小学生になってから、漠然とした違和感は抱いていた。
トイレが男女で分かれていること。赤いランドセルを背負うこと。
服も姉のお下がりを嫌がり、スカートは絶対にはかなかった。
「母は何も言わずに、好きな服を買ってくれました」
「僕が大人になってから『仕事を優先して、子どもとの時間をとってやれない自責の念があったから、服くらい自由に着せてあげたかった』って、母から聞きました」
身体的には、違和感と期待感が混在していた。
「小学生の頃は、性器が生えてくると思っていたんです」
違和感より大きかった友達への思い
中学校に上がって、再び謎の違和感が襲ってきた。
「トランスジェンダーの人はみんな葛藤すると思うけど、僕も制服を着るのが嫌だった」
「授業中は我慢するしかないけど、放課後になるとすぐジャージに着替えていました。ソフトボール部に入ったんですけど、部活の時間がすごく楽しみでした」
だからといって、性別に不安や悩みを抱くことはなかった。
「将来のことは、あんまり考えていなかったですね」
「それよりもいじめから解放されて、友達ができたことがうれしかったから、『友達がいるんやから、とにかく今を楽しもうぜ!』って気持ちでした」
「もう嫌われたくない」という思いが強かったため、性別に疑問を持たれないように細工することもあった。
「『男の子を好き』って言うことで周りの目は誤魔化せるから、仲が良かった男の子に片思いしているように装っていました」
「好き」が通じ合う喜び
その一方で、感情のまま無鉄砲に行動する面もあった。
「中学2年生の時に、同い年の女の子に告白したんですよ」
「『好き』って言ったら、相手から『うん、私も好き』って返ってきたんです。『俺の時代スターーート!』って思いましたね(笑)」
好きになった女の子は「女の子同士なのに?」と拒否することもなく、すんなりと受け入れてくれた。
「『男の子が好き』って誤魔化すくせに、告白した時は『もしかしたら周りにチクられるかもしれへん』って怖さはなかったんですよね。何も考えてなかった」
「ただ、告白したことも好き同士であったことも、周りには内緒にしていました」
結局、その女の子とは3カ月経たずに自然消滅してしまったが、すぐに部活を通じて知り合った他校の女の子と付き合い始めることになった。
「友達がいなくなるのは嫌だったけど、自分らしさを主張したい気持ちもあったんだと思います」
「当時は女性として、男性としてということではなくて、自分がしたいことや好きなスタイルを優先順位の一番に置いていたんじゃないかな」
04楽観的に描いた目標は「今を楽しむこと」
驚愕のモテ期到来
中学時代、ソフトボール部での活躍が評価され、高校はスポーツ推薦で私立明浄学院高校に進学する。
かわいらしい制服が人気の女子高だったが、入学することに抵抗はなかった。
「どれだけ待っても性器が生えてこなかったけど、『それならしゃあないわ』って感覚だったんですよね」
「性別に対して楽観的やったから、女子高に入ることに特別な感情はなかったです」
小学6年生で友達ができてからというもの、目立ちたがり屋に成長していたため、高校でもクラスの中心グループに属して場を盛り上げるタイプだった。
1年生の体育祭では、大きな麦わら帽子をかぶり、率先して「行っけぇーーー!!」と応援した。
「目立っていたからか、体育祭中に先輩達から何度も『写真撮ろう』って誘われるんですよ」
「体育祭が終わってからは、漫画みたいに下駄箱からラブレターがあふれ出してきたこともありました」
「1年生のバレンタインが一番うれしかった。60~70個のチョコをもらったんですよ!」
高校時代はとにかくモテた。
彼女が途切れることもなかった。心地良かった。
しかし、本気で好きになった部活の先輩とだけは付き合えなかったのだ。
「その先輩には告白できなかったんです。関係を壊したくなかった。まじで好きやったんでしょうね」
突き付けられる現実
自分の性別について悩むことはなく、ただ楽しく過ごしていた毎日に、突如異変が訪れる。
「高校2年生の時に生理が始まったんです」
「女の子が生理になることは知っていたけど、いざ自分の体に起こると『うわ、最悪・・・・・・』ってモヤモヤしました」
「それまで意識していなかったけど、目を背けていた部分だったんです」
初潮を迎え、本格的に自分のことを「嫌だ」と思った。
生理が来るたびに倦怠感が体を襲い、気持ちも重くなった。
ただ、自分自身について真剣に考えるのは月一回、生理の時だけだった。
「病気を患っていても、ずっと痛いわけじゃないのと同じ感覚でした。痛くない間は病気を忘れてしまうような・・・・・・月に一回だけ憂鬱になったけど」
普段は「今をしっかり楽しもうぜ」という精神で、部活にも恋愛にもがむしゃらだった。
05目の前に現れた “知らなかった自分”
無残にも散った密かな夢
高校卒業後は、大阪体育大学に進学するという夢があった。
「幼い頃から、本当はサッカーがやりたかったんですよ」
「小学性の時、僕をかわいがってくれていた先生が『大阪体育大学やと女子もサッカーできるぞ。だから、お前はそこに行け』って教えてくれたんです」
「だけど、お父さんから『3人姉妹の一番下やから、お金は使えない。大学は諦めて欲しい』と言われてしまいました」
当時は奨学金の制度を知らなかったため、諦める以外の選択肢はなかった。
大阪体育大学に行けないのなら、どこにも行きたくない。
高校卒業後の1年間は何もしなかった。
見かねた母が「学生生活を送らなあかん」と薦めてくれたトリマーの専門学校に通うことを決めた。
「それでもやっぱり体育関連の学校に行きたい気持ちがあったから、自分でお金を貯めて行こうって考えたんです」
「早朝にコンビニでバイトをして、そのまま学校に行って、放課後はおそば屋さんでバイト。夜は友達と遊んで、また早朝バイトという生活を送っていました」
トリマーの学校は1年で辞め、大阪社会体育専門学校に通い始めた。
偶然知ることになった違和感の正体
高校を卒業した頃、自分の性を知るきっかけと出会った。
「確かインターネットで調べ物をしていた時に、たまたま『はじめのいっぽ』というレズビアン向けのソーシャルサイトを見つけたんです」
「なんとなくアクセスしてサイトを見ていって、感動しました」
女の子が好きという感情も性別に抱いている違和感も、自分だけではなかった。
サイト内では北海道から沖縄まで、全国各地の人との出会うことができた。
「自分と同じ世界で生きている友達ができることがうれしかったです」
現在「はじめのいっぽ」は閉鎖してしまっているが、当時サイト内では自撮りコンテストが開催されていて、「タチ」「ネコ」「トランス」という3つのカテゴリに分けられていた。
サイト内では、FTMのことが「トランス」と呼ばれていた。
「サイトの管理人さんが、専門用語の解説を載せてくれていたんですよ」
「『トランス』について『女性として生まれながら、男性の心を持っている』みたいなことが書かれていて、『僕、これや!』って思ったんです」
「新しい自分と出会って、性について自由になった気がしました」
ここから“自分が生きたいように生きたらいい。セクシュアリティに定義はない”という持論を持って生きていく日々が始まる。
<<<後編 2017/07/06/Thu>>>
INDEX
06 順調に進んでいく仕事を阻む人間関係
07 無情に降りかかる過酷な試練
08 最後を覚悟したことで一気に開けた未来
09 一生をともにする家族という存在
10 今だから「刺激的だった」といえる32年