02 ”自分の言葉” を持たなかった時代
03 活動を始めたきっかけ
04 サークル活動で生まれた人とのつながり
05 HIVがある社会の当事者であるために
==================(後編)========================
06 ”自分の言葉” を持つこと
07 性指向と性自認
08 東北・仙台のLGBT事情
09 あるがままの自分で
10 一つひとつ丁寧に着実に
06”自分の言葉” を持つこと
世の中に働きかけるためには
LGBTも含めマイノリティと言われる人たちのためには、作られていない世の中。
「自分の生活の中で折り合いをつけていくこともあるだろうし、どうにか社会を変えたいと思うこともあります」
もし何か変えていきたいならば、声を上げていかなければいけない。
「声を上げるためには、発する言葉はどれであるのかを知っていないといけません」
だから、問題を自分のこととして受け取り、自分の言葉で語り、自分に引き寄せていくことが大切なのだ。
ただ、これをするにあたって、セクシュアリティの問題を抱えていると難しい場合がある。
セクシュアリティの問題があることで自分の言葉を持たず、自分を掘り下げられずにいたり、他の問題まで目を向ける余裕がなかったりするから。
そこは語らないほうがいい、周囲と同化しているほうがいいという意識と拮抗するのが「言葉を持つ」ということなのだ。
「語りにくい中で、どう自分たちの言葉で話し、掘り下げ、見つけていくか」
「ゲイやHIVなどの活動を通じて、それをたくさんの人と一緒にやってきたんです」
自分の言葉を持たない
「自分の言葉を持たない」のは、セクシュアリティの問題だけに限らない。
障害や精神疾患も同様だ。
「自立生活センターで、脳性麻痺などの障害を持つ人たちに性の話をしてくださいと言われたんですが、話してみると同じだなって思いました」
障害や精神疾患のこと自体にひっかかりがあるので、性の話に関しても言いづらさを抱えていたり、その言葉自体を持っていなかったりするのだ。
「困難を抱えている人こそ、世の中のことを敏感に感じているので、その人たちこそ ”自分の言葉” が必要だと思うんです」
「障害」「精神疾患」と共にある日常では、なかなか他に目を向けるのは難しいかもしれない。
でも、かつて “自分の言葉” を持たなかった自分も、こうして自分自身に問い、掘り下げ、発言することができている。
同じように自分を掘り下げていけば、もっときっと生きやすくなる。
自分らしさが見えてきて、自分らしい生活を送れるのではないかと思っている。
07性指向と性自認
性指向は男性。性自認は男性と女性のダブルジェンダー
自分自身へのカミングアウトをしてから、漠然と「ゲイとしてやっていくのは無理がある」「男でもあり、女でもあり」と感じていた。
男性が好きだから、性指向は男性だ。
でも、ゲイコミュニティの中にいると、「自分はどうも違うな。新宿二丁目でブイブイいわせている人たちとは違うな」と感じていた。
「トランスジェンダーの人たちに共感することもたくさんあるし」
「男性は恋愛対象だから緊張するというのもあるんだけど、仲間意識はどう考えても女性のほうがある」
女性の輪の中にいる自分のほうが自然だ。
「じゃあ、MTXと言っていた時期もあるんだけれど、性別に拘わらないわけではないし・・・・・・」
「小さい頃からおてんばで、女の子要素も男の子要素の遊びもどっちも好きだった」
男と決めつけられることには違うと思う。だからと言って女ではない。
「人はみな女性性と男性性を持っていて、その上で誰もが女性として生きる、男性として生きるというのがあると思うんです」
「じゃあ、自分はどう規定するのかと言われれば、その答えは ”両方” なんです」
性指向は男性。性自認は男性と女性のダブルジェンダーだ。
「男性の恰好をしているのは、この姿が長いし慣れていて楽だから。男性を好きな男性に好きになってもらいたい、というのもあります」
「だから今、モテたくて男装しているですよ(笑)」
最愛のパートナーとの出会い
旦那と会ったのは1993年。
「日曜の夜のゲイバーで、自分は酔っぱらってカウンターに突っ伏していたんです」
「その店に彼が来て。彼はマスターと『ダメだよね、あれは』ってしゃべってたみたい(笑)」
最初に持たれたイメージは決してよかったわけではなかったのだろうが、5月に初めて会い、8月末にはもう旦那の家に転がり込んでいた。
その後、一緒に暮らす生活が始まる。
「自分はすごく物事を掘り下げたりして暑苦しい面があるんだけど(笑)、その対極ですごく軽やかな人」
「私が凝り固まった考えでいると、『何をそんなにこだわっているの?』『もっといろんな可能性があるでしょ』って顔を上げさせてくれる」
視野が広く多角的に物事を考えられる旦那は、周りをよく見ることができる人だ。
「1つに集中してしまいがちな自分を止めてくれる。それで私はとっても楽になりました」
出会って24年。一緒に暮らして22年。
旦那はサークル活動などに直接は関わっていないが、自分を後押ししてくれる大切な存在だ。
08東北・仙台のLGBT事情
地域なくしては生きていけない地方での居場所
地方は地域の人たちとのつながりをなくしては生きていけない。
狭いコミュニティであるがゆえに、そこから出られないという辛さがある。
「ここではダメだと都会に出て行ったり、セクシュアリティの問題による不登校などもあります。かといって、いつまでもそこから逃げられるわけではないんですよ」
「地方は地域とつながらざるをえない」
「じゃあ、逃げられないんだったら、他の場所に無理に行ったり逃げたりしようとせず、今ある状況を受け入れるという選択があると思うんです」
今ある場所でうまく折り合いをつけて、自分を殺さずに、はっきり明言せずとも自分らしくいられるようにする。
今ある場所でセクシュアリティだけにとどまらない自己実現をしていく。
「それによってセクシュアリティとは別の面からも、自分らしさというのが作れていくんじゃないかと思います」
これは、セクシュアリティの問題を抱えている人だけでなく、誰にでも当てはまること。
社会で生きる者である以上、誰もが求められることだ。
LGBTに対する偏見と受け入れ
東北・仙台はLGBTに対する偏見がまだまだ強いだろう。
とはいえ、LGBTがまったく受け入れられない頑固さばかりではない。
「震災の時に、MTFの人が避難所でみんなの中に入れず困っていた。そしたら、地域の人が『いいからこっち来なさいよ』って言って入れてくれたことがあったそうで」
偏見はあるが、何かきっかけがあればすんなり受け入れられることもあるのだ。
自分も旦那の親戚と付き合いがある。
旦那の親戚にはパートナーであると名言していないし、カミングアウトもしていない。
「旦那の家系のお墓参りに行くと、お姉さんに『こうちゃんはお嫁さんみたいだね』って言われるんです」
彼らもまたLGBTに対する偏見が少なからずあるのかもしれないが、親戚から見て、自分と旦那はもう ”家族” の扱い。
長年の自分と旦那の関係、自分たちと親戚との関わりをつないでいくことで、”家族” になれた。
そこに、セクシュアリティの明言や枠組みは必要ない。
自分はこうした経験をしているから、地方は理解が少ない、偏見が強いとは一概に言えないのではないかと思っている。
09あるがままの自分で
家族へのカミングアウト
1994年頃に、姉にはカミングアウトした。
姉は女性史やキャンパスセクハラの問題に取り組む大学の研究者だったため、LGBTにも理解があった。
両親へのカミングアウトは2003年に「婿養子の話」がきたのが発端。
父方の祖母の家系は血が絶えてしまうので、そこに養子に出されそうになったのだ。
「初めはただ断っていたんだけれど、それは父自身の使命とまで考えていたみたいで」
もう、うやむやにはしておけない。
いよいよ両親にカミングアウトしようと思った時、姉が勢いで話してしまった。
「当時、私はもう旦那と仙台で暮らしていたので、姉貴としては父の発言が許せなかったみたいです。『何言ってんのよ!こうじはね・・・・・・』って言ったみたい」
両親にあからさまな否定や嫌悪はなかった。
ただLGBTやセクシュアルマイノリティの情報を積極的に触れようともしなかったし、渡した『カミングアウトレターズ』もたぶん読んでくれていないだろう。
どう捉えていいのかわからない、というのもあったと思う。
「息子に関心はあるけれど、セクシュアリティには関心がないようです」
父親においては、セクシュアリティの問題よりも「婿養子に!」と強く願っていたことが叶えられず、ショックだったようだ。
母親は、初めは理解を示していたように思えたが、あまりパートナーのことに触れてくることはなかった。
「ある時、自分が『あまり触れてくれないよねー』と母に言ったら、ポロッと『気色悪いねん』って」
やはり社会に認められた正式のものじゃない、というのがあるのだろう。
家族と密に関わる機会は少ないし、カミングアウト後の自分を知っている人は実家の周りにはいない。
家族とはほどよい距離感を保っている。
セクシュアリティは強く押し出しはしないけれど、今受け入れられている中で、よい関係性を保っていけたらいい。
生きる意志を強く持つために
東日本大震災前まで、Facebookは本名、Twitterはハンドルネームと使い分けをしていた。
それはカミングアウトしていない親戚に、自分のSNSを見たことで不用意に知られてしまうというのを避けたかったからでもある。
ただ震災を境にそのスタンスは変わった。
「いとこがどうだとか、カミングアウトがどうだとか。そんなことに、手ごころを加えてやっていられない状況になりました」
被災地で震災を経験して、全力で生きていかなければならないと実感したのだ。
「もっとストレートに自分を表現しないと生き残れない可能性がある」
「自分は周りに余計な気を遣っていては生き残れない、と思ったんです」
震災で直面した命のこと。
「それが原発や沖縄基地問題、フロリダのゲイバーでの銃乱射事件、相模原障害者施設殺傷事件のこととか。自分の中で命と尊厳にかかわることとして、すべてつながっていきました」
さまざまな状況の中で、困難を抱えている人がないがしろにされていることが浮き彫りになった。
「こんな時に、丸まんまの自分でいないといろんな力を変えていく力を出せない」
もうTPOで自分を使い分けるような大人の対応はやめた。
自分そのままで体当たりしていって、決して人生をあきらめない。
あきらめてあっさり終わったら、亡くなった人に顔向けができない。
ただ悼むだけではいられない。
生きる意志を強く持つためにも、全力で立ち向かっていくのだ。
父の思いを活動の力に
父が2017年4月に亡くなった。
父は自分のセクシュアリティについて無関心を貫いているようにみえたが、晩年、姉が著した同性愛も取り上げた性の歴史の本を読んでいたという。
父なりに考えるところがあったのだろう。
「亡くなる直前に、父が『家のことと性のことは別の話だから』と言ったんです。それは、私のセクシュアリティを認める、父なりの表現だったのかもしれません」
これまで、実家や親戚にセクシュアリティの活動の話を控えてきたのは、父の存在があったから。
でも、もしかしたら父はそれを望んでいたわけではなかったのかもしれないと思い直すようになった。
父の死を通して、セクシュアリティの活動を全力で進めていく覚悟がより強められたと感じている。
10一つひとつ丁寧に着実に
被災地とセクシュアリティの問題の本質
被災地とセクシュアリティの話。
きっとみんなが期待する話は、「トランスジェンダーは避難所でトイレや風呂はどうするのか」とか「パートナーとの面会はどうなるのだろう」とかそういうことだろう。
それはこれまでも想定されてきたこと。
でも、実際の被災地は想定ができなかったさまざまなことが起こっていた。
そもそも本質的な問題は、「被災地にはゲイはいないことになっている」ということだ。
ゲイだけでなくセクシュアルマイノリティもいないことになっていた。
身体障害者も精神障害者も、外国人もいないことになっていた。
「どんな状況にいてもどの場所であっても、今いる場所で自分らしい生活を構築できるかどうかということは、すごく必要なことだと思うんです」
全体を把握することよりも、被災地で実際に困っている・困っていたその人一人ひとりの声にこそリアルを感じる。
その声を丁寧に拾い社会につないでいくべきだと思っている。
これから目指す道
現在行っている電話や対面での相談、コミュニティ内でのミーティング・勉強会の開催、講演といった幅広い活動を、今後も継続していきたい。
さらに、今後はセクシュアリティも想定した街づくりにも、より積極的に関わっていきたいと考えている。
「最近では、地域に政策提言していくレインボー・アドボケイツ東北の活動をはじめました」
「社会制度にアプローチしていくためには、役所とか議員への可視性を自分が担っていかなければいけない」
一人ひとりの困ったことを解決していくこと、困っている人とそれを解決できる場所・人をつなげていくことが自分の使命だ。
ちまたでよく聞く課題について声を上げるというよりかは、誰かの「困った!」という経験を聞き、それを丁寧に着実に解決していきたいと思っている。
「例えば、図書館カードを作ろうと思ったら、性別の欄があるし通称名は使えない。この図書館カード、本当にそれで本人確認ができるのかと思うんですよね。こういうことこそ、声を上げていきたいんです」
話題になるいわゆる「あるある話」に手をつけたほうが、道のりは近いのかもしれない。
社会制度の枠組みを作っていくことは必要だ。
でも、自分は一人ひとりの「困った!」の声にリアリティと力を感じるし、大切にしたいと思っている。
「この人が具体的にこういうふうに困っているんです、と直接伝える。当事者が直接話すことで事態が動くことがあるんです。人が生きる強い力で後押しされているなと感じますね」
セクシュアリティも想定した街づくり。
そこに到達するのは時間がかかるかもしれないけれど、これからも積み残しがないように丁寧にやっていきたい。