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性同一性障害の息子がいたから、知れた喜びも寂しさもある。【前編】

太陽のように、家族を照らしてきたのだろうと感じさせてくれる鈴木恵子さん。「今は息子に対する心配事はない」と話してくれたが、最初からすべてを受け入れられたわけではなかった。女の子と疑わずに育ててきた娘の「自分は男だと思う」というカミングアウト。娘の言葉をシャットアウトし、「そんなはずはない」と否定するしかなかった。それでもまた恵子さんが笑えたのは、家族がいてくれたから。

2018/05/19/Sat
Photo : Mayumi Suzuki Text : Ryosuke Aritake
鈴木 恵子 / Keiko Suzuki

1958年、東京都生まれ。長兄の紹介で夫と出会い、結婚し、一男一女を出産。幼い子どもを連れて、転勤生活を送る。娘が18歳の時、「自分は男だと思う」と打ち明けられ、それまでに経験したことのない衝撃を受ける。葛藤しながらも、娘 “麻未” が息子 “麻斗” になっていく過程を見守り、現在は息子の活動を支援している。

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INDEX
01 アクティブな私と聞き上手な夫
02 知り合いのいない地方都市
03 目が離せなかった愛おしい娘
04 思いがけない告白と否定する心
==================(後編)========================
05 性同一性障害の子どもを受け止める時
06 性別よりも大切なこと
07 自分自身も周囲も変えていく息子
08 喜びも寂しさもすべてが本当の気持ち

01アクティブな私と聞き上手な夫

アクティブな私と聞き上手な夫

出身は東京都江戸川区。

3人の兄に囲まれて育った末っ子で、たった1人の娘。

「結婚するまでの28年間、ずっと実家にいました」

「便利だから実家を出る必要もなかったし、車の免許も持っていなかったんですよ(笑)」

後に夫となる男性と出会ったのは、20代中盤に差しかかった頃。

車のディーラーだった彼から、一番上の兄が車を購入していた。

「兄が気に入ったみたいで、『うちの妹、どうだ?』って話したらしいんです」

「車の販売のために実家に何回も来ていたそうなんですけど、私はほとんど家にいなかったから、知らなかったです(笑)」

初めて会った時は、タイプじゃない、と思った。

何度か会った結果、「無理」と伝えて、連絡を取らなくなった。

近所でも評判のいい彼

最後に会ってから半年が経った頃、彼から「もう一度、会ってくれるかな」という電話がきた。

「その日は空いていたし、気楽な感じで会ったんですよ」

「いざ会ったら、抱いていた印象と違う気がして、これはいけるかも、って切り替わりました」

彼は、車の営業で押し売りをするタイプではなく、お客様の話をじっくり聞いている間に気に入られるような人だった。

後から、近所でも評判のいい営業マンだったことを知る。

「うちの娘にどうかと思ってたんだよ」と、嘆く人がいるほどだった。

「私が末っ子の一人娘だから、主人は『娘さんをください』って挨拶しに来るのがプレッシャーだったみたい」

「でも、兄が父と母に『いい人だ』って話してくれたから、挨拶に行った時点で反対とかはなかったです」

彼が「娘さんをください」と言う前に、父親が「式はいつにするんだ?」と言ってしまった。

私が28歳、彼が27歳の時だった。

とんとん拍子で結婚の話は進んでいった。

02知り合いのいない地方都市

赤ちゃん連れでの引っ越し

結婚してから1年半が経つ頃、息子が産まれた。

さらにその1年9カ月後、娘が産まれた。

「娘の麻未が生後4カ月の頃、保険会社に転職した主人の転勤で、住んでいた千葉から山梨に引っ越したんです」

「4カ月の子と1歳の子を連れていったから、大変でしたよ(苦笑)」

「知り合いは1人もいないし、土地勘もまったくないし、今みたいにスマホとかPCもないですからね」

夫の転勤は頻繁にあり、2~3年ごとに移り住んだ。

手のかからない2人兄妹

「子どもたちは、きっと幼いながらにストレスを感じていたと思います」

「でも、男女の兄妹でこんなに仲がいいのは珍しいな、と思うくらい仲良しだったんですよ」

山梨から長野に引っ越した時は、息子が幼稚園の年長組、娘が年少組。

娘の通うクラスは “泣きの桃組” と呼ばれるほど、常に全員が泣いていた。

「麻未を気にして、お兄ちゃんが毎日のように様子を見に行ってくれていたんです」

「先生もよく『毎日のように助けてもらってます』って言っていましたね」

「麻未がクラスに馴染んだ頃には行かなくなったみたいですけど、面倒見のいいお兄ちゃんですよね」

子どもたちは2人で遊んでいてくれるため、手がかからなかった。

「もともと実家で長男夫婦と一緒に住んでいて、甥っ子や姪っ子の面倒も見ていたから、子育てには多少慣れていたのもあります」

「息子が産まれた時点で習わずにおむつも替えられたし、経験しておいて良かったなって」

初めての土地で生活する術

子育てよりも、知り合いのいない土地で暮らすことの方がしんどかった。

「山梨や長野はまだ良かったけど、佐賀や香川に行った時は方言がわからなくて、大変でしたね」

佐賀のホームセンターでパートをしていた時、同僚に「これ直しといて」と言われた。

まったく壊れているようには見えない商品を前に、どこを直すんだろう? と悩んでしまった。

「どこが壊れてるの?」と聞くと、「直すって、片付けるって意味だよ」と教えられた。

「そこで『直す』の意味を覚えました。外国にいるような気分ですよ(苦笑)」

しかし、言葉が通じず、知り合いもいないからといって、引きこもるタイプではない。

「荷解きも終わらないうちから、子どもを連れて公園に行って、今でいうママ友を作ってました」

近所の薬局や病院の情報を聞き、生活の基盤を築いていった。

地域に知り合いを作るため、佐賀に引っ越した時に、ママさんバレーに入った。

「佐賀でやり始めて、その後で住んだ香川や千葉でも続けました」

「週に2回、夜に練習があるんですけど、麻未は必ずついてくるんですよ」

「その影響か、転勤生活が終わった中1から、麻未もバレーを始めました」

03目が離せなかった愛おしい娘

スポーツ好きな活発な少女

麻未は、外で遊ぶことが好きな活発な子だった。

「歩くようになった頃から、ちょこまか動いてましたね」

「私自身も男兄弟の中で育って、遊びといったら野球って感じだったんです」

「だから、麻未も私によく似ているな、って思っていて違和感はありませんでした」

趣味嗜好が男子っぽくても、上がお兄ちゃんだからそんな感じかな、と深く考えなかった。

小学生の頃は三度転校して、1カ所に留まることがなかったため、スポーツに打ち込むことはなかった。

小学6年で千葉に引っ越した時、麻未は仲良くなったクラスメートにミニバスケットボールチームに誘われた。

「みんな3~4年生からやっている中に6年生で入っても、思うようにいかなくて、あまり面白くなかったみたいです」

「でも、動くことは好きだったから、中1でバレー部に入って、ようやく運動能力を発揮した感じでしたね」

1人で寝られない甘えん坊

息子は長男としての自覚か、何でも自分でこなせる子どもだった。

しかし、麻未は、いつまでも母である私の後を追いかける甘えん坊。

「長野にいた頃、冬場は毎週のようにスキーに行っていたんです」

「まだ、麻未が幼稚園に通っている頃でしたね」

ある日、夫と息子、自分と麻未に分かれて、はぐれてしまったことがあった。

ほぼ地元民しか訪れないゲレンデには、私と麻未しかいなかった。

「私が滑って1m離れただけで、麻未は『お母さん、置いてかないで』って泣いていましたね」

「私の姿が見えなくなるのが、不安で仕方なかったんだと思います」

小学6年で千葉に引っ越した時に、1人部屋を持たせたが、麻未は「1人で寝られない」と一緒に寝ていた。

「でも、女の子だったから、多少甘えん坊でもなんとも思わなかったですね」

気づかなかったサイン

小学6年生の12月、麻未に初潮が来た。

「始まっちゃったみたい」と、あっけらかんとしていた。

「当時、主人は単身赴任していたので、一応メールで伝えましたけど、お赤飯は炊かなかったです(笑)」

「生理に関して、悩んでいるような雰囲気はなかったですね」

ただ、中学に上がると、麻未の体にチック症が見られるようになった。

「その頃は、転校を繰り返していたストレスかな、って思っていました」

「今思うと、生理が始まったせいもあるかもしれないなって」

高校に進んでもチック症は続いたが、互いにその話題に触れることはなかった。

04思いがけない告白と否定する心

「そんなはずはない」

高校から専門学校に進む頃、麻未から「胸を隠したいから、ナベシャツというものを買う」と告げられた。

「インターネットで買うから家に届くけど、自分のだから」と。

「その話を聞いた時は、スポーツをしているから邪魔なのかな、って感じたんだと思います」

「変だとは思ったけど、なんとなくその話は聞きたくなかったから、私からは触れなかったです」

それから少し経ち、麻未が「心療内科に行こうと思ってるんだけど」と話し始めた。

「その時に『自分は男だと思う』って、言われました」

「私は、『そんなはずない』って否定したんですよね」

心にうずまく困惑と心配

それまで娘であることを、一瞬も疑ったことはなかった。

だから、とっさに否定してしまった。

なぜ自分の人生に性同一性障害という話題が入ってきてしまったのだろう、と困惑した。

「なんでこの子が私の子なんだろう・・・・・・って、思った瞬間もありました」

時間が経っても、受け入れることはできなかった。

「ドラマで題材になっていることがあったので、性同一性障害は知っていました」

「ドラマの知識で、まだ生きやすい世の中にはなっていないと思っていたし、この子には一生幸せが来ないんじゃないか、って感じました」

結婚はおろか、就職もままならないのではないかと思った。

テレビ番組には、男性から女性になったタレントは出ていても、逆は見たことがなかった。

「変な話だけど、ニューハーフの方々みたいだったら仕事があったのかな、とか思いましたもん」

麻未が選んだ進学先は、医療系。

理学療法士の受験資格が手に入る専門学校だった。

「男女関係ない仕事に就こうとしていたことは良かったけど、就職先は見つからないんじゃないかなって心配でした」

「私の中で、男は自分で全部決めて、女の子を引っ張っていかなきゃいけないイメージもあったんです」

「だから、甘えん坊なこの子には無理だよ、って思いもありましたね」

娘を受け止めていた夫

単身赴任中で岩手に住んでいた夫は、月2回ほど帰ってきていた。

その度に、麻未から性同一性障害の話を聞かされていた。

「麻未の『家族に知ってほしい、理解してほしい』って努力はすごかったですね」

「でも私は、その話は聞きたくない、ってシャッターを下ろしてしまいました」

その話題が出ると、体が震えてしまうほど拒否していた時期もあった。

その隣で夫は、娘のことを広く受け止めているように見えた。

「主人の姿を見て、大したことじゃないのかな、って少しずつ思えるようになったんです」

夫婦でペットの犬の散歩に出た時、自分の気持ちを素直に告げた。

夫は「本人があれだけ言っているんだから、認めてあげるしかないのかね」と言っていた。

「主人に助けられた部分は、かなり大きいです」

「夫婦揃って子どもを否定していたら、家族が進めなかったかもしれないですね」

 

<<<後編 2018/05/21/Mon>>>
INDEX

05 性同一性障害の子どもを受け止める時
06 性別よりも大切なこと
07 自分自身も周囲も変えていく息子
08 喜びも寂しさもすべてが本当の気持ち

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