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9人兄弟の長女から、「泣き虫」を卒業したFTMの弟へ【後編】

9人兄弟の長女から、「泣き虫」を卒業したFTMの弟へ【前編】はこちら

2018/09/14/Fri
Photo : Rina Kawabata Text : Sui Toya
加藤 恵子 / Keiko Kato

1982年、東京都生まれ。中学生の頃から夜の世界で働き始める。家庭環境の変化や10代での妊娠、22歳の時に余命を宣告されるなど、次々襲いかかる波に翻弄されてきた人生。26歳の時、妹からFTMであることをカミングアウトされた。きょうだいのみならず、そのパートナーにも、「頼れる姉」として慕われている。

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INDEX
01 両親の離婚
02 6歳の家守
03 子どもらしい遊び
04 4畳の部屋で
05 姉弟2人のアパート暮らし
==================(後編)========================
06 14歳の目覚め
07 水商売への思い
08 「俺はFTM」
09 どんどん男になっていく
10 家族に残したい姿

06 14歳の目覚め

妊娠と中絶

弟との2人暮らしを経て、中学に入った頃、再び産みの母と暮らし始めた。

しかし、その家には母の再婚相手も一緒に住んでいた。

「最悪な男でした。その人が新しいお父さんになるというのは、絶対に嫌でした」

「行くところもないし、店の軒下とか、野宿できるところばかり探していましたね」

そんな生活をしていた14歳のとき、仙台から上京してきた同世代の男性と知り合った。

その人の家に転がり込み、14歳で初めて妊娠。

「具合が悪くて病院に行ったら、赤ちゃんができていますと言われたんです」

「パニックになって、お父さんに電話しました」

「お父さんは、お母さんにバレないようにしたほうがいいと言って、中絶の手続きをしてくれました」

それまで、同世代の友だちと話す機会があまりなく、性に関する知識が乏しかった。

セックスをしてもドキドキせず、いつか迎えることと妙に冷静に考えていた。

「でも、赤ちゃんを堕ろした後、お父さんに言われたんです」

「自分の体は男に守ってもらうものじゃない。女は自分で体を守らなきゃいけないって」

「それまで性を意識したことがなかったんですけど、そのとき初めて『私って女だったんだ』と思いました」

水商売の女になる

中学校には気が向いたときだけ行った。

3年生になると2歳下の弟が新入生として入ってきた。

「弟の面倒を見なきゃいけない」とスイッチが入り、毎日昼前には学校へ行くようになる。

「弟の教室に行って『おはよう!』って声を掛けてから、自分のクラスに向かっていました」

「弟によると、私はいつも11時43分から11時47分の間に現れるから、私の登校時間を、友だちといつも賭けていたそうです(笑)」

「とにかく、弟の顔を見に学校に通っていましたね」

3年生の夏休みが終わった頃、仕事を始めようと思った。

「2年生の数学でxとyというのが出てきますよね。あれを見たときに、私の人生には必要ないなって気付いてしまい・・・・・・」

「この先どう生きていくか、ということばかり考えていました」

小さい頃から、自分は水商売の女になると思っていた。

「なりたい」ではなく「なる」。

まるで使命のようにそう思い続けてきた。

「水商売で稼ぐためには、早いうちに経験を積まないといけないって、思ったんです」

「18歳と偽って中野のスナックの面接を受け、15歳から働き始めました」

当時、自分がいくら稼いでいたか知らない。

「お金の管理は、一緒に住んでいた彼がしていました」

「給料日には必ず迎えに来てくれる。今はそれがどういうことかわかりますが、当時は幸せだったんです」

「私は、家に帰らなくていいというだけで満足。大人になった気持ちだったんですよね」

07水商売への思い

仙台に向かう

「自分の体は自分で守らなきゃいけない」

父の言葉は理解できたが、実行に移すのは難しかった。

2人目の赤ちゃんを授かったのは、中絶をしてからわずか半年後だった。

「私の家と彼の家に、病院から連絡がいきました」

「彼のおじいちゃんは、クリスチャンの牧師さんでした。だから、堕ろしちゃいけないと言われたんです」

「嫁に来いと言われて、彼と2人で仙台に向かいました」

15歳の秋。

法的にはまだ結婚できない年齢だが、自分は近いうちに家庭を持つ。

そう考えると、胸が踊った。しかし。

「5ヵ月目に入った頃、階段から落ちて、赤ちゃんが流れてしまいました」

仙台の病院には、母が迎えにきた。

「この人、こんなところまで迎えにくるんだと驚きました。嬉しかったです」

「新幹線の中でも照れくさくて、素直に思いを伝えられませんでしたね」

仕事を極めたい

東京に戻り、また水商売で働き始めた。

15歳〜16歳のときに入ったのが銀座の店。そこで、女性としての振る舞いをママから教わった。

「18歳で新宿のお店に入り、そこからずっと、水商売の世界ではちやほやされた人生だったと思います」

「水商売などあらゆるところでスキルを極めたいと思ったので、風俗やAVの仕事もやりました。とにかく色々な仕事を経験しましたよ」

世の中には、夜の仕事に対して偏見を持つ人も多い。

しかし、理解されなくてもいいと思っている。

「自分の中に一本芯が通っていれば大丈夫」

「真剣にやっていれば、どんな仕事でもお客様には伝わると思っています」

24歳のとき、初めて昼間の仕事に就いた。アパレルショップの店員だった。

「スナックやクラブに、女性のお客様がいらっしゃることも多いですよね」

「でも、私は男性ばかり相手にしてきたので、女に好かれる女になる方法がわからなかったんです」

「女性を接客するという視点を、それまで持っていなかったんだと気付きました」

「それで、女性服のショップで働くことにしたんです」

塗っても塗っても薄いと言われる

アパレルショップの仕事は楽しかった。

水商売にいたときとは、180度違う自分がそこにいた。

「肌を黒くしましたし、センスも変わりました。何より、メイクを覚えたことが一番大きかったですね」

「それまで、メイクの仕方がわからなくて、すっぴんで働いていたんです」

「メイクを覚えるよりも、中身を化粧することの方が大事だと思っていたんですよね」

しかし、アパレル業界では、メイクをするのは義務のようなもの。

初めのうちは、塗っても塗っても薄いと言われていた。

「人間って、メイクに慣れていないと違和感があるんですよね」

「だからずっと、メイクが似合う顔じゃないから仕方ないと思っていたんです」

「でも、メイクに慣れると、確かに印象が変わると実感することができました」

「同僚には『24年間損したね』とも言われましたね(笑)」

アパレルショップで働いた期間は約1年間。

ブランドが撤退することになり、ショップを閉めることになったのが、辞めるきっかけだった。

「あの1年で得たものは大きかったです」

「アパレルで働いていたときが、一番人生で楽しかったかもしれません」

08 「俺はFTM」

妹からのカミングアウト

女子校に進んだ妹が、いじめを受けていると知ったのは、アパレル店員として働いていたときだった。

いじめに気付いた父から連絡を受け、「自分が学校に行く」と伝えた。

兄弟の面倒を見るのは、自分の役割だと考えていたからだ。

父が乗り込み、事態がさらに混乱するのを避けたいという思いもあった。

弟と2人でサングラスをかけて学校に乗り込み、先生にキッパリと言い切った。

「加害者側の言い分もあるでしょうけど、やられたことは事実ですから」

妹からカミングアウトを受けたのは、その後だった。

久しぶりの学校にテンションが上がり、誰もいない教室ではしゃいでいたとき、妹がふいに言った。

「話したいことがある」

「俺、女が好きなんだよ」

外見はボーイッシュだったが、その頃はまだ「妹」だった。

けれども驚かなかった。

「私もそうだったよ」と思った。

「FTMだから、どうしたの?」

性指向のことではない。
自分の性を選ぶということに対して、共感するところがあった。

中学生になるまで、自分の性を意識したことはなかったからだ。

父の前では、男の立場で物事を判断するほうが楽だったというのも、理由の一つだ。

中学生までは、ケンカなど、男がするようなことばかりしていた。

初めて赤ちゃんができたとき、父から「女の子なんだから、自分を大事にしていかなきゃいけない」と言われ、初めて女という性を意識した。

それから水商売の世界に入り、女として扱われることで、自分の性別を受け止めていったという自覚があった。

だから、妹のカミングアウトに対する返事は「FTM? それで、どうしたの?」というあっさりしたものになった。

「話があると言われたとき、もしかして妊娠かなという懸念が頭をかすめたんです」

「女が損をするのは望まない妊娠だけ。赤ちゃんを中絶した罪悪感って、時間が経つとどんどん重くなるんです」

「女性が好きとか、心は男だとか、そんなこと問題じゃないよって言いました」

大人になってから性を決めてもいい

世の中にLGBTという言葉があることは知らなかった。
そのことで悩んでいる人がいることも知らなかった。

「LGBTが普通とは違うという概念が、私の中にはもともとないんだと思います」

「金八先生で、性同一性障害に悩む話がありましたよね。あれは、私にとってはカルチャーショックだったんです」

「そこで悩むの?って」

性は、成長に従って分化していくもの。そういう考えを持ち続けてきたのかもしれない。

「まずは自己を確立して、大人になったときに生きやすい方を決めればいいと思っていたんですよね」

09どんどん男になっていく

束縛の激しい彼女

「妹は、昔から優柔不断な性格なんです」

「なんでそんなに悩みたいの?って思うくらい(笑)」

「彼女ができたと相談されたときも、また心が迷子にならないか心配になりました」

妹の初めての彼女は、束縛の激しい子だった。姉の自分と仲良くしている姿を見るだけで嫉妬する。

自分も、何度も牙を向けられた。

妹のセクシュアリティに対しても、寛容とは言い難かった。

「でも、こんな彼女を選んじゃだめだよとは言えないですよね。まず、いいところを理解してあげないと」

「揚げ足は後からいくらでも取れる。まずは共感できるところを探すというのは、水商売で得たコミュニケーション技術です」

「もともと女性であったことを打ち明けてから付き合っているので、それなりに広い心を持っている子だ、って最初は思っていたんですよ」

「だから妹には、好きになってもらったことを感謝しなさいって伝えていました」

しかし結局、彼女に暴力を振るわれたことで、妹は入院することになってしまった。

「私はそのとき広島にいて、電話でケガのことを聞かされたんです」

「妹の周りの人たちに連絡して、フォローできる体勢を整えました」

「距離的な問題ですぐには行かれなくて、あとは、本人に頑張ってもらうしかなかったですね」

「お姉ちゃんもいろいろなことを乗り越えたんだから、あんたも大丈夫って励ましました」

弟になった、妹の結婚

その後、妹は彼女と別れ、別の女性と出会って結婚を決めた。

性別適合手術も終えていた。

「正直、結婚は早いなと思いました。身を固める覚悟がどれほどのものなのか、ちょっと読めなかったんですよね」

「男になれたのか、まだ道半ばなのかどうかもわかりませんでした。『俺は男になれました』っていう報告はもらっていなかったので」

「でも、籍を入れて、大人としての責任を背負うのが、優柔不断を改める一番早い方法かもしれないと思ったんです」

結婚して夫となり、妹は確かに変わったと思う。

前の彼女のときは、何かあるとすぐに泣いていたが、夫としての責任感も影響しているのだろう。

会うたびに、どんどん男っぽくなってきたと感じる。

もう “ 泣き虫な女の子 ” の面影はない。

10家族に残したい姿

余命宣告

カミングアウトから約10年。

その間に、妹は性別適合手術を受け、戸籍の性別を変更し【弟】になった。

愛する女性とも結婚した。

男性になった【弟】の幸せそうなの姿に安堵する一方で、私にとっては、病気と闘ってきた10年でもあった。

「乳房に腫瘍があると初めて言われたのは、17歳の時です」

病気があると赤ちゃんを産むのは厳しいと言われたが、19歳で出産。

出産後に乳がんと診断され、そこから治療を始めた。

「でも、病院に通うのがわずらわしくて、勝手に治療をやめてしまったんですよね」

「そうしたら、22歳のときに腎盂炎になって、初めて余命を宣告されました」

24歳のとき、下垂体に腫瘍があることがわかった。乳がんの根本原因が下垂体腫瘍であるともいわれた。

「下垂体の治療を終えた後も、さまざまな病気を発症していて、体はボロボロです」

「今は、拡張型心筋症の治療を行っています」

治療を続けてきたというより、せざるを得なくなったというほうが正しいだろうか。

動けるようになると、勝手に家に戻ってしまう。その度、病院から同意書にサインを求められた。

格好いい生き様を家族に見せたい

22歳、24歳、28歳のときに余命を宣告されながら、35歳の今日まで生きてきた。

「22歳のときは、息子が小学校に上がるまでは頑張って生きようと思いました」

「届きそうな目標を設定して、それを乗り越え続けてきた感じです」

どうすれば、息子やきょうだいに格好いい姿を見せられるか、常に考えてきた。

今、最優先にしているのは、家族に対して迷惑をかけないこと。

いつも、心の準備はしている。

「人間って、どんなに嫌なことでも、何回も考えていると慣れるんですよね」

「だから息子にも『ママには余命があるからね』って、小さい頃から伝えています」

「今は息子も『ママが逝っても俺は頑張るから』と言ってくれますね」

家庭が複雑じゃなくても、病気と闘っていなくても、弱音を吐きたい場面なんて誰にだってある。

でも、あえてそれを口にしないのが、私の考える格好良さだ。

「上から4番目・9歳下の【弟】は男性になって結婚もしたし、あと面倒見なきゃいけないのは2歳下の弟だけかな」

「すぐ下の弟がしっかりしてくれたら、私も楽になれるのに」

「・・・・・・まだしばらくは無理かな(笑)」

あとがき
ずっと誰かをおもってきた。ずっと誰かに尽くしてきた。恵子さんは、そんな人だった。インタビューで追いかけた幼い頃からの時間は、想像を近づけるだけで精一杯。恵子さんの心情は今になってジワジワと迫ってくる■誰かに迎合することも、批判することもなく[私を生きてきた]人生。8人の弟や妹、2人を超えるお父さんとお母さん。一人で生まれたこの世だけど、一人では知ることがなかった暮らしの時間は、これからも続く。(編集部)

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