02 台湾から日本へ
03 幼い頃からの違和感
04 吹奏楽のおもしろさ
05 走り続けた3年間
==================(後編)========================
06 いつか音楽で身を立てたい
07 音楽での成功が先
08 レズビアンではなくFTM
09 自分を取り戻すステップ
10 扉をフルオープンに
06いつか音楽で身を立てたい
バストロンボーンへ転向
高校の吹奏楽の全国大会は、地域ごとに予選大会が行われる。
その予選を勝ち抜き、東海地方から全国大会に出場できるのはわずか3校だけ。
「東海地方の中でも、愛知県は吹奏楽が盛んで、強豪校が多いんです。だから、全国大会出場は本当に狭き門でした」
2年、3年生と続けて、念願だった全国大会に出場。第一志望の国立音楽大学にも合格した。
「国立音大に入ってから、バストロンボーンに専攻を変えました。音の低いパートをやってみたいと思ったんです」
バストロンボーンは、普通のトロンボーンより低い音が出やすい構造になっている楽器だ。
オーケストラのトロンボーンの中でも、一番下の声部を担当するパート。
「トロンボーンは、西洋音楽の世界では『神の声』って呼ばれている、神聖な楽器なんです」
「ベートーヴェンの有名な『交響曲第9番』では、神について歌われる部分だけトロンボーンの出番があるんですよ」
大学卒業後の進路は、明確だった。
「大学生のときから、将来は音楽の道1本で食べていこうと決めてました」
「音楽で身を立てて、家賃や光熱費を払えるようになりたい、って思ってましたね」
「彼女がいるよ」とカミングアウト
大学の先生や友だちに、セクシュアリティについて改まって話した記憶はない。
「音楽をやっている人って、LGBT当事者の割合がけっこう高いって感じるんです」
「そういう人がいて当たり前だってみんな理解してるから、わざわざ言わなくても察してくれるんですよね」
「大学では、高校時代よりさらに過ごしやすくなりました」
セクシュアリティについて両親に話したのは、22歳のとき。
「付き合っている相手はいるのか」と聞かれ、いまなら言えそうだと思った。
「『彼女がいるよ』って話したんです」
「親は、そんな答えが返ってくるとは予想していなかったから、さすがにショックを受けてましたね」
「将来は、子どもを産んでほしいと思っていたみたいです」
しかし、少し時間が経ってから実家に帰ったとき、母は「あなたが老後に独りでいるのは心配だから、誰かが側にいてくれたほうがいい」と言ってくれた。
父からも「自分が思ったようにすればいいよ」と言われた。
「理解しようと頑張ってくれた、っていうことが伝わってきました」
当時はトランスジェンダーというセクシュアリティを知らず、自分のことをレズビアンだと思っていた。
「レズビアンとは違うと思うんだけどな・・・・・・って、モヤモヤする感覚はありました」
「でも、他の言葉を知らないから、そこに分類されるのかなって思ってましたね」
07音楽での成功が先
吹奏楽部の指導
演奏家になることとは別に、吹奏楽の指導をすることも夢のひとつだった。
高校時代の指揮者の先生のように、自分も吹奏楽部をより高い位置へ導いてみたかった。
「東京都は、吹奏楽部指導者の教員が不足しているので、部活動の講師を外部に依頼することが多いんです 。そういうこともあって、大学2年生からアルバイトのような形で、中学校の吹奏楽部の指導に行ってました」
大学卒業後、22歳から演奏の仕事を始めたが、並行して複数の吹奏楽部の指導を続ける。
「本当は、海外留学にも行ってみたかったけど、指導校を全て手放して行くことはできなかったですね」
指導校の生徒には、女性の先生として紹介されていた。しかし、当時から短髪で、見た目はどこから見ても男性。
「吹奏楽部って縦社会で、パートリーダーしか先生と話しちゃいけないとか、暗黙のおきてがあるんです(苦笑)」
「部員数が多いので、全員が『先生ぇ〜』みたいな感じで話しかけてはこないんですよね(笑)」
「気になっている生徒もいたと思いますけど、当時は、何も聞かれなかったことがありがたかったです」
エキストラ業務
20代の頃は、仕事で成功するために必死。
そのため、自分のセクシュアリティについて悩んでいるヒマはなかった。
「オーケストラに所属している演奏者の中には、大学の講師をしている方などもいて、大学の試験期間には試験監督をするために、一時的にオケを降りることもあるんですよ」
「そのパートを代わりに演奏してくれる演奏者を『エキストラ』って呼ぶんですけど、大学を出たてのルーキーは、色々なオーケストラでエキストラとして使って頂ける機会があるんです」
「そこで評価されたら、所属の演奏者が降りるときに、また呼んでもらえます」
日本にはいま、27のプロオーケストラが存在する。
オーケストラは企業と同じ。
例えば、NHK交響楽団と読売日本交響楽団では、音のテイストや指揮と合わせるタイミングが異なる。
「各オーケストラの色を事前に勉強していかないと、エキストラで呼ばれても、周りと合わせられないんです」
「演奏するオケが違えば、当然ながら前後左右が毎回違う人になります。聴覚をフル活用して、周りに合わせていかなきゃいけないんですよね」
そのオケに馴染むように巧く演奏するのが、エキストラの腕の見せどころ。
色々なオケに呼ばれる奏者は、万能と見なされ
「エキストラには、派手な個性よりも、いつものそのオケのサウンドの仲間になれるかが、一番求めらているように思います」
致命的なクセ
26歳のとき、非常勤講師として大学で教え始める。
肩書きができて演奏の仕事が得やすくなり、収入も増えた。
28歳のとき、全日本管打楽器コンクールに出場。
「トロンボーンだけのコンクールで、応募者は250人くらいいました」
コンクールで2位になったものの、後日、あるオーケストラのトロンボーン奏者から演奏のクセを指摘される。
「頬の造りのせいで、吹くときに息が入ってしまっている。日本で2位になっても、それじゃあオーケストラには入れないよ」
初めて受けた指摘。
ショックだった。
「野球のフォームと一緒で、クセがあると、演奏時に無駄な動きが出てしまうんです」
「オーケストラは70人ほどが息を合わせて曲を奏でるので、変な特徴があると、周りと合わなくなってしまうんですよ」
「これはかなり深刻だなと思って、3年ほどかけてクセを直しました」
08レズビアンではなくFTM
燕尾服で舞台に立つ
大学時代、演奏会のときは、男性は燕尾服、女性は白いトップスに黒いボトムスと服装規定が決まっていた。
「大学のときは、規定通りの服装で舞台に立ってました」
「女性らしいブラウスは着たくないから、普通の白シャツに、黒いボトムスです。でもなんか絵的には、上着を忘れちゃった人、みたいな感じでしたね(笑)」
大学卒業後、エキストラでお世話になったオーケストラの団員に、飲み会の席で「本当は男性と同じ服装で演奏したい」とこぼした。
すると、「お前のしたい格好をすればいいじゃん」と背中を押される。
「それを聞いて、もう男性の服にしちゃおうと思ったんです」
しかし、受け入れてくれる周りの演奏者が多かった一方で、風当たりもあった。
「22歳のときに初めて、世界的に有名な演目のミュージカルに乗らせていただいたんです」
「ミュージカルのオケピットって、2人でシフトを組む場合が多いんですよ」
「公演期間が3ヵ月くらいあるので、万一のときのために、2人の演奏者がキャスティングされるんです」
もう一人の演奏者は、10歳以上年の離れたベテラン。
オケメンバーで飲み会をしたとき、その人から、「星野のそういう話は、気まずくなるからしないでね」と言われた。
また、別の場面では「そういう感じだから、演奏が中途半端なんじゃないの?」と言われたこともあった。
FTMの「星野和音」として生きる
当時、差別的な発言以上に嫌だったのは、インタビューなどで「女性の奏者」と強調して書かれることだった。
「金管楽器は、もともと男性奏者のほうが多いですし、女性のバストロンボーン奏者は稀少だったんです」
「『女性の奏者』って書いてあるのを見るたびに、やめてくれ! って思ってましたね」
演奏会などで、本名を呼ぶのもやめてほしかった。
「『トロンボーンの星野舞子さんです』って紹介されるんですけど、燕尾服を着てるから、客席がザワザワするんですよ」
「舞子っていう名前と見た目がかけ離れているから、お客様から『ブシさんですか?』って聞かれたこともあります」
「それはさすがに苦しいだろ・・・・・・って、思ってましたね(苦笑)」
31歳のとき、静岡交響楽団に入団。
念願だったオーケストラ入りを果たし、これを機に改名したいと思った。
「改名するための方法を色々調べていたときに、性同一性障害(GID)の診療をしているメンタルクリニックがあることを知りました」
「同じ頃に、トランスジェンダーという言葉を知ったんです」
「長いこと、自分のことをレズビアンだと思ってきたけど、FTMかもしれないと思うようになりましたね」
改名に向けて動く前、「お客さんがびっくりするから、名前を和音に変えたいんだけど、いいかな?」と、両親に相談した。
和音という名前は、両親が、子どもが男の子だったら付けようと思っていた名前。
「その頃には、親の理解も随分深まっていて『いいんじゃない』って賛成してくれました」
09自分を取り戻すステップ
同僚の言葉
改名するとき、手術は考えていなかった。
しかし、いざGIDの診断が下りると、欲が出てきた。
「見た目は男性なのに、しゃべったら声が高いのとか、嫌だなと思って・・・・・・」
「ホルモン注射もしたいと思い始めました」
クリニックで「手術についてはどう思ってるの?」と聞かれ、まだ考えていないと話すと、「注射より手術を先にしたほうがいいよ」とアドバイスされる。
「そのときに初めて、保険適用の有無について知ったんです」
「戸籍変更もしたかったけど、なんで法律のために自分が体を切らなきゃいけないのかな、って納得がいきませんでした」
「『とりあえず改名だけでいいです』って言って、その話は終わりましたね」
34歳のとき、オーケストラの同僚が、「生まれつき心臓の疾患があって、大手術をした」という話をしてくれた。
「・・・・・・手術して何か変われるなら、しちゃえば? それで色々解決するなら、別にいいんじゃない?」
その言葉に、背中を押された気がした。
笑いながら話す同僚の顔を見て、手術をしようと決めた。
自分らしい体に近づいた夏
2019年の夏、初めて山梨医科大学を訪れた。
手術したいと相談したところ、「1年待ち」と言われる。
じりじりと1年間を過ごし、2020年の夏。
1週間入院し、胸オペを終えた。
「手術後は、12時間、仰向けのまま身動きできませんでした。手術したところより、あまり動けないから腰が痛くてつらかったですね・・・・・・」
2020年8月からホルモン治療も始めた。
「来年、パートナーとの結婚式を予定してるんです」
「大学時代から15年も付き合ってるから、そろそろ、責任を取りたいと思って」
「両親同士も仲がいいですね。一緒に飲んだりしてます」
自分はやっと、“ 星野和音 ”として歩き始めたばかり。
「この先は、できれば子どもが欲しいと思ってます」
10扉をフルオープンに
初めて生徒に話した日
手術前、吹奏楽部の指導をしている静岡市・清水の中学校に行った。
「新型コロナウイルスの影響で、出場予定だったコンクールがなくなっちゃったので、8月半ばにコンサートをする予定だったんですよ」
「その日程が、胸オペと重なっちゃって・・・・・・」
「指導者なのに、本番を見に行けないなんて申し訳なくて。その理由を、生徒にちゃんと話さないといけないな、って思ったんです」
長く指導をしていて、信頼関係が築けている中学校。
コンクールのことがなくても、初めてセクシュアリティについて打ち明けるなら、この学校がいいと思っていた。
生徒に話してもいいか、前もって顧問の先生に相談をする。
「いま、3年生がちょうどSDGsについて調べ学習をしてるんです。みんなわかってると思うから、どうぞ話してください」
そう言ってもらい、レッスン後に、部員全員の前で話すことになった。
コンプレックスと同じ
「もうちょっと背が高ければ良かったとか、手が長ければ良かったとか、みんなも思うことがあるでしょ?」
「そういうのと一緒で、なんで女なのかなっていうのが、私のコンプレックスだったんだ。入院して手術して、そのコンプレックスを克服してくるね」
そんなふうに説明する。
生徒たちは、その話を静かに聞いてくれた。
「勉強したから知ってるよ、って顔をしてる子もいましたね(笑)」
話した後は、とてもすっきりした気持ちになった。
「言いたかったことを、やっと口に出せたって感じです」
「生徒たちも、私のことをどう扱ったらいいか、気を遣っていたと思うんですよ」
「『先生って、男と女どっちなんだろうね?』みたいな無駄な会話をさせるより、知ってもらったほうがいいなと思ったんです」
LGBTERに応募したのは、指導をしているほかの学校の生徒にも、自分のセクシュアリティについて伝えていきたいと考えたからだ。
この記事が、自分を理解してもらうためのツールになればいい。
「初めて生徒に話した日にブログを書いたんですけど、胸オペのことを言っているなんてわからないくらい、ぼかして書いたんですよ(苦笑)」
「これを皮切りに、扉をフルオープンにしていきたいんです」
音楽ファンを増やすために
「オーケストラの団員になったのに、吹奏楽部の指導であちこち飛び回っているのはなぜか?」と、時々聞かれる。
その理由は、日本のクラシック市場を少しでも盛り上げていきたいからに他ならない。
「4年制の音大や大学院を出ているのに、ストリートミュージシャンみたいな演奏活動をしている人がたくさんいます」
「音楽ファンを増やさなければ、ホールを埋めることも難しくなるでしょうね。中高生を指導することで、未来の音楽ファンを増やしていきたいんです」
ひと昔前の吹奏楽の指導者は、「なんでできないんだ!」と、額に青筋立てて怒るような人ばかりだった。
「指揮棒を折るとか、練習中に出て行っちゃうとか、スパルタな先生がたくさんいたんです(苦笑)」
「でも、怒ったって、演奏が巧くなるわけじゃないんですよ」
音楽は本来、楽しく、美しいものだ。
練習すればするほど上達し、音楽に触れずにはいられなくなる。
「そうやって、音楽を好きなまま卒業する人が増えればいいなと思うんです」
「私の指導した生徒たちが音楽ファンになって、いつかコンサートホールに遊びに来てくれる日を、心待ちにしています」