02 不得手な口語コミュニケーション
03 恋する相手と性的な興味の揺れ
04 最愛の人たちとの永遠の別れ
05 受け入れ始める “同性愛への興味”
==================(後編)========================
06 都会とバイセクシュアルの自分
07 偶然が重なった運命的な出会い
08 いざという時に顔が見られる関係
09 いつでも受け止めてくれる家族
10 自分自身を “隠さない” 理由
06都会とバイセクシュアルの自分
憧れの街・東京
20歳で上京する。
「きっかけは進学や就職ではなくて、芸能人になりたかったからなんです」
「上京してから、毎週のように原宿に行って、スカウトされるのを待ってました(笑)」
東京という土地への憧れもあった。
「テレビでおいしいお店が出ると、大体渋谷とか新宿で、行ってみたいと思って」
東京に友だちがいるわけではなかった。
「親戚のおばあちゃんが、横浜に住んでるくらいで、頼ったわけじゃないです。でも、上京した最初の頃は、楽しかったですね」
目に映るもの、すべてが輝いていた。しかし、すぐに現実を突きつけられる。
「その頃はエキストラとか、番組観覧募集の電話のオペレーターをしてたんです」
「でも、どっちも給料が少なくて、休みなく働いても1カ月の給料は12万円くらい」
芸能界に入るきっかけになるかもしれない、と思って始めた仕事だったが、そもそも食べていけない。
アルバイトを増やす、もしくは仕事を変えるしか、道はなかった。
オープンにしていた “バイセクシュアル”
「東京の職場では、初めから『男の人が好き』って、オープンにしてました」
同僚のリアクションは、薄かったように思う。
「年配の方が少なくて、同世代が多い職場だったからかもしれないです」
「そもそもセクシュアリティに関して、悩んだ記憶がないんですよね」
バイセクシュアルであることも、隠す必要はないと思った。
「ただ、1カ所だけ、積極的には明かさなかった職場がありました」
その会社の営業マンたちは、休日の朝早くから、ゴルフ接待に出向くような雰囲気だった。
金曜の夜に集合し、富士山を上って、チームの結束を高めるような部分もあった。
「男性は全員参加でしたけど、自分は事務職だったから『関係ない』って、断ってました」
男性ばかりで古い体質の会社の中では、あまり大っぴらにできない気がした。
「同じ事務職の女性の先輩には、なんでも素直に話してましたけどね」
興味本位の二丁目探訪
上京したばかりの頃は、『新宿二丁目』という場所を知らなかった。
「男の人が好き」と話していた時に、「新宿二丁目に行けば?」と言われる。
「場所がわからないから、初めて行った時は交番で『二丁目ってどこですか?』って、聞きました(笑)」
いざ到着すると、ゲイバーと思われる店の看板には「会員制」という表示が。
「会員じゃないから入れないな、って思って、その日は帰りました」
「後になってから、『会員制=ゲイ限定』ってことだと知りましたね」
「会員制」の意味を知ってから二丁目を訪れた時には、ゲイバーで知り合った親切な人が、いろいろな店を案内してくれた。
「それから何度か行きましたけど、二丁目が自分の居場所、とは思わなかったんですよね」
「興味本位で行った感じだから、彼氏を作ろう、みたいな目的もなかったんです」
07偶然が重なった運命的な出会い
1カ月の恋人
憧れの東京での生活は、あまり自分には合っていないように感じてしまう。
「23歳で宮城に戻って、仙台で暮らし始めました」
新たな職場の社員寮での生活が始まる。
「入社して2日目くらいに、同世代の同僚3人で飲みに行ったんです」
その帰り道、1つ下の男性にいきなり手をつながれ、「男の人が好きなんです」と、打ち明けられた。
数日後、その男性の部屋に忍び込み、つき合うことになる。
「職場でも普通に手をつないで、交際もオープンにしてました」
「1カ月後くらいに、その子が何も言わずに出かけた日があったんです」
「どこにいたの?」と聞くと、「この間知り合った女の人とカラオケ行ってた」と言われた。
バイセクシュアルだった彼は、女性との交際を考えていたのだ。
「この子は軽いな、と思って、別れを切り出しました」
別れた直後に彼は仕事を辞め、その後すぐに、自分も退職した。
「交際をオープンにしてたから、なんだかいづらいなと思って、辞めました」
東京の居候先
宮城に1年半ほどいた後、群馬の草津温泉でアルバイトをした。
温泉での仕事を辞める時、やはり東京で暮らしたい、という思いが芽生える。
「でも、お金がなかったから、ゲイ専用の掲示板に『住まわせてください』って、書き込んだんです」
「東京で、仕事が決まるまで、長ければ1カ月くらい」という条件も記載した。
すると、11歳上の男性から「どうぞ」という返信が届いた。
「東京の中野駅で待ち合わせをしたら、その相手が補聴器をしてたんです」
「『ろう者?』って手話で聞いたら、頷かれたから、『自分は親がろう者で』って説明しました」
互いにろう者とコーダであることは、ネット上では伝えていなかった。
「相手は昼間の仕事をしてて、自分は夕方から仕事に出てたから、毎日入れ違いで、会話はほとんどなかったです」
居候として暮らし始めて2~3週間が経ってから、ようやく2人の時間が合い、一緒に食事をした。
穏やかなやさしい人
会話が増えていくごとに、彼のやさしさに魅かれていく。
自分から「つき合いたい」と伝えたが、その頃、彼には恋人がいた。
「彼はうちとつき合うために、恋人と別れてくれたんです」
「そして、うちの誕生日にOKの返事をくれて、号泣しました」
「つき合い始めた頃は、ケンカというか、自分が一方的にガーッと文句を言うことが多かったです」
「でも、彼は『うんうん』って聞いてくれて、やさしい人だなって」
「彼は中学の時に友だちとケンカしたきり、他人とケンカをしたことがなくて、ケンカの仕方を知らない人だったんです」
「その2年後くらいには、彼もケンカに慣れたのか、言い返すようになってきましたけど(笑)」
08いざという時に顔が見られる関係
「養子縁組」という方法
彼とつき合い始めてから、すぐに提案したことがある。
「『養子縁組しようよ』って、言ったんです」
養子縁組という方法を知ったタイミングは、覚えていない。しかし、同性カップルが家族になれる方法ということは、知っていた。
「周りに養子縁組したカップルがいたわけじゃないし、誰かに相談したわけでもないです」
「彼からは『1年くらい待とう』って、返された記憶があります」
「でも、うちが『やだ。早く早く』って、急かしたんです(笑)」
つき合い始めて4カ月ほどが経った2003年10月20日、養子縁組を行い、「宮田」の籍に入った。
「うちが彼の子どもになる形で、家族になりました」
結婚できないなら別の方法で、と2人で導き出した答えだった。
法的な安心感
家族になりたかった理由は、重度なケガや病気で入院した時にも、顔が見たかったから。
「周りのゲイカップルから、『入院した時、病室には家族しか入れない』って、聞いたんです」
「彼が大変な時に病室に入れないとしたら嫌だな、って思ったのが、一番大きいかな」
養子縁組の方法は2つある。親子になるか、兄弟になるか。
「彼とうちが兄弟になる場合は、親の了承が必要なんです」
「でも、彼の両親は養子縁組にOKしていなかったから、親子になる方がいいかなって」
実際に、相方のお見舞いに行くような事態になったことはない。それでも、法的に家族だとみなされている安心感がある。
親への報告と反対
「自分の両親には、養子縁組を決めた時に、男性のパートナーがいることを話しました」
「面と向かっては言いにくかったから、メールで」
母に「養子縁組しようと思う」と、送った。
返ってきた答えは、「お母さんとお父さんは反対です」。
「『じゃあ勝手にします』って、返しちゃいました(笑)」
彼と家族になることは心に決めていて、親に認めてほしいわけではなかった。
ただ、事実を報告しておきたかった。
「まだ20代半ばだったから、うちの生命保険のお金を親が払ってくれていたんです」
「うちの名前が変われば、手続きも必要になるから、言っておいた方がいいだろうなと思って」
09いつでも受け止めてくれる家族
彼と両親の対面
2人での生活を送り、何年か経った時、些細なことでケンカになった。
その翌日の12月29日、ドアのチェーンをかけて、仕事帰りの彼を家から閉め出した。
「帰ってきたら入れないから、彼は驚いたみたいですけど、うちは無視しました(笑)」
「困った彼は、交番に相談に行って、警官を連れてきたんです(笑)」
ドア越しに、警官から「入れてあげて、ちゃんと話し合ってください」と説得される。
それでも自分がチェーンを外さなかったため、彼の方が観念した。
「彼から『友だちの家に泊まります』って、メールが届きました」
「その時に、彼がうちの母親にも連絡しちゃったんです」
もともと緊急用として、彼に母のメールアドレスを伝えていたが、まさか連絡するとは。
翌日には宮城から両親が出てきて、最寄りの警察署に呼び出された。
「思いがけず、彼と両親が対面した瞬間でしたね(笑)」
「でも、そこまで話すことはなくて、うちも両親とは口を利かなかったです」
大事になってしまったが、ケンカは無事に収束した。
10カ月間の冷戦
その後、もう一度、大きな試練の時が訪れる。
「些細なことでケンカをした2~3日後に、彼が家を出ていったんです」
仕事から帰ると、彼の荷物がすべてなくなっていた。
「もともと彼の家だし、テレビも何もかも彼が買ったものだから、うちの服だけ残ってる感じ(苦笑)」
しかし、彼の居場所を探したりはしない。
「まだ怒りが残ってたから、文句を打った長いメールを送りました(笑)」
ほとんど連絡を取らず、どこに住んでいるかも知らないまま、10カ月の時が過ぎる。
「うちが憧れてたろう者の講演があって、なんとなく彼に『行く?』って、連絡したんです」
「その頃には怒りもおさまって、ちょっと寂しさを感じてたから(笑)」
「彼から『行く』って返信があったので、一緒に行くことになりました」
「でも、ほぼ10カ月ぶりだから、気まずいじゃないですか(苦笑)」
会っても会話は弾まず、ぎこちないまま終電の時間に。
「新宿駅で別れようとしたけど、お互いに『このまま帰る?』みたいになって、そのままカラオケでオールしました」
朝、それぞれに出勤し、その日から家には帰らず、彼の家に通うようになる。
「それから1カ月後くらいに、『また一緒に住もうか』って結論に落ち着きました」
16年の絆
何度も大きなケンカをしてきたが、養子縁組は解除しなかった。
「当時住んでたマンションの下で、殴り合いとかしてました(笑)」
「そのたびに、うちは友だちに『もう別れる』って、連絡してましたね」
「友だちは『どうせ戻るでしょ』って、取り合ってくれなかったけど(笑)」
しかし、友だちの言った通り、結局は彼のもとに戻る。
そんな関係のまま、家族になって16年の時が過ぎようとしている。
10自分自身を “隠さない” 理由
理由は「面倒くさいから」
ここまで生きてきて、自分のセクシュアリティを隠そう、と思ったことはない。
「隠したとして、後からバレたら面倒くさい、と思うんですよね」
ゲイの友だちの多くは、「ストレートの知り合いには打ち明けない」と、言っている。
「ノンケの人と会う時は仮面を被っていくみたいで、大変じゃないのかなって」
「オープンにしてる人たちは、嫌われたらしょうがない、って吹っ切れてますよね」
自分も、人の意見はあまり意識しないタイプだと思う。
「若い頃は『気持ち悪い』って言われたら、ショックでしたけど、今はもう気にしないです」
「人と違う」という線引き
「最初から、自分と人との間の線引きが多いのかも・・・・・・」
ろう者の家族の中で育ったが、自分自身はろう者ではない。
だからといって、健聴者の家庭で育った健聴者とも、少し違う。
「どっちにも所属してないから、どっちにも線があるし、セクシュアリティの面でもストレートの人との間に線がありますよね」
そう感じるようになったきっかけは、弟が亡くなった後、周囲にかけられた言葉。
「あなたの耳が聞こえなかったら、あなたが事故に遭ってたかもしれない」
耳が聞こえる人からそう言われたことで、自分はろう者とも健聴者とも違うのだと感じた。
「同じコーダでも、兄弟や祖父母は聞こえる家庭があれば、うちみたいに祖父母や兄弟も聞こえない家庭もあるんですよね」
10人いれば10人違うとわかっているから、自分自身を隠す必要性も感じない。
自分自身の違う顔
自分自身も、一貫して同じ自分というわけではないのかもしれない。
「すごく仲のいいろう者の友だちから、『ろう者と話す時、健聴者と話す時、コーダと話す時で全部顔が違う』と、言われたことがあるんです」
「ろう者の方って見方が鋭いから、そう見えるんだと思いますね」
「区別してるつもりはないけど、きっとゲイと話す時とストレートと話す時でも、違うんじゃないかな」
でも、それでいいと思う。
自分と人は違って、それぞれに線引きがあるのが当たり前だから。
「線引きするまでもなく、みんな違うんですけどね」