INTERVIEW
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私は誰?ーーーーそれが原点【前編】

個性の強い赤いバックスクリーンも取り込んで、しっくりと「私色」にしてしまうアーティスト、イトー・ターリさん。今までの人生の軌跡には、若い頃に踏み出したある大きな一歩がある。単身オランダに渡っての4年間の修行や、その後の海外の街で暮らした時間が、アーティストとして、人としての大きな経験になった。これまでに出会った人々のこと、表現することへの思い、社会の動きへの不安、そしてこれからのこと。言葉の端々からにじむのは、過ごしてきた経験によって培われた、独自の揺るぎない人生観。LGBTへの認知度がほとんどなかった時代を、どのように進み、拓いてきたのだろうか。

2015/12/14/Mon
Photo : Mayumi Suzuki Text : Ayako Ota
イトー・ターリ / Tari Ito

1951年、東京生まれ。大学卒業後、身体表現の世界へ飛び込み単身渡欧、4年間をオランダで活動する。1996年に作品『自画像』でレズビアンであることをカミングアウト。パフォーマンスと並行してジェンダーについてのプロジェクトに積極的に参加し、「ウィメンズアートネットワーク」(WAN)を立ち上げる。2003年にパフスペースを設立。著書に『ムーヴ あるパフォーマンスアーティストの場合(インパクト出版会)』がある。

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INDEX
01 海外生活で体験した、掛け替えのない自由
02 オランダで出会った、恋
03 パフォーマーとしての日々
04 初めての恋人と、家族へのカムアウト
05 彼女との別れと、支えてくれた人
==================(後編)========================
06 パフォーマンスアーティストとして、本来の自分を表現したい
07 カムアウトはしたい人がすればいい
08 これからのセクシュアリティ問題について
09 母という人
10 パフォーマンスは続ける!!

01海外生活で体験した、掛け替えのない自由

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セクシュアリティの気づきと初恋が同時に

「中学生の頃、愛読書は『朝日ジャーナル』でした」

その頃はちょうど、ベトナム戦争についての特集が多く載せられていた。

今のようにインターネットもなく海外の情報がごく限られていた時代。10代に入ったばかりの少女は、まだ見ぬ遠い異国をすでに近くに感じていたのかもしれない。

大学へ進学すると「表現すること」に強く興味を惹かれるようになったターリさん。大学3年生の頃から身体訓練教室に通い始め、卒業後は本格的に表現の世界に進むことを決断。

「『身体がアクションするアート』を作りたいと思ったものの、最初は何を勉強していいのかわからなかった。たまたま読んでいた演劇雑誌に、身体訓練のクラスがあることを知って通い始めました。その後、パントマイムのテクニックを学んでいることに気づいたんです。でも意外に面白かったので、それから7~8年はずっとそれを勉強していました。その頃から小作品を創作して発表するようになっていました」

その作品を発表するために、今の名前を名乗るようになった。ジャン・コクトーの詩に登場した、喜劇と牧歌を司る美の女神「ターリ」に由来するという。

自分がレズビアンであることを自覚したのも、この頃のこと。

「通っていたマイムのクラスに、気になる女の子がいたんです。かわいいな、好きだなっていう気持ちがふくらんで、それで自然に、ああ自分はそうなのかも、と思ったんです」

それまでは女子校育ちという環境もあり、男性と出会う機会がほとんどなかった。

「今思い返せば、高校生の時は歌手の佐良直美の大ファンでした。TVで観てすぐに“仲間だ”と思ったんです。コンサートに花束を持って行き、渡せずに帰ったことも」

そんな経験もあったけれど、だからと言って自分がレズビアンだと自認できたわけではなかった。

ただ、佐良直美がアウティングされた時に「レズビアン」の現実を思い知らされた。だから、友人にも家族にも、誰にもとても相談することはできなかった。

初めての好きな人には、恋心を伝えることもなく。
いつのまにか疎遠に――。

30代で単身オランダへ

転機が訪れたのは、1982年。30歳の時だった。

「マイムの作品をつくっていると、だんだん自分がやりたいと思ったこととは違うなと感じはじめて、自分の表現を探すためにオランダに行くことにしたんです」

オランダで活躍していたマイムグループのディレクターにレッスンを受けたい旨の手紙を送ると、トントン拍子に話は進み、単身渡欧することに。

1964年に海外旅行が自由化されたとは言え、ターリさんがオランダへ渡った80年代、日本人の海外出国者はわずか400万人あまり(現在は約1,690万人)※。

しかも女性の出国者はそのうち30%程度。また、大学初任給は平均で約11万円だった。もちろん今のように格安航空券などはなかった時代。海外での挑戦には、現代よりもずっと高いハードルが存在していたことは想像がつく。

しかし、日本人が数えるほどしかいなかったオランダでの暮らしは、ターリさんにとって非常に豊かで、実になるものだった。その自由で、開放的な環境が、その後の作品にも人生そのものにも、大きな影響を及ぼした。

※法務省「出入国管理統計統計表」より

02オランダで出会った、恋

はじめての告白

「31歳の時かな?オランダで好きな人ができたんです。ダンサーになりたいと言っていた、可愛い人でした。とても綺麗で、まわりの男たちも黙ってはいなかった。それで、告白しちゃったんです。でも、『自分はストレートだから、困ります』と言われて・・・。振られてしまいました」

相手に伝えることのなかった最初の恋とは違い、なぜすぐに告白できたのか。

それは、現地オランダの自由な雰囲気があったから。

「ここに来てから、解放される思いがした」

この縛られることのない解放感が、エネルギーの源だった。

「オランダでは、街を歩いていれば手をつないでいるレズビアンカップルをよく見かけたし、当時所属していたシアターにも普通にゲイがいました。だから、自分のこともこれでいいんだと思えるようになっていたんですね。だから彼女にも思い切って言えました。告白された彼女も、そんなに大ごとには受け止めていませんでしたね。でも、むこうはその後すぐ恋人ができて。寂しくて寂しくて、ホームシックも襲ってきて大変でした」

パフォーマーとしての得難い経験、そして帰国

当初は1ヶ月の予定だったオランダ生活。

それが劇団に認められて正式に1年の雇用契約を得、さらにその頃創作した『タイミング』という作品がヒットした。

オランダ国内を巡業して数十回の公演を行うことになり、様々なプロジェクトにも参加した。

「自分で自分のパフォーマンスを劇場やスペースに売り込むんです。まずパフォーマンスについての資料を送り、宣伝をかけるわけ。一週間後くらいに確認の電話をしなきゃいけないんですが、オランダ語がダメだったので、英語で話すしかなくて、それはもう大変でした! ただラッキーだったことに、最初に所属したシアターの制作部門の人に手伝ってもらえることになって。本当に色々な人に助けてもらいました」

03パフォーマーとしての日々

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海外公演を重ねて

パフォーマーとしても、人間としても、海外生活で大きく成長したターリさん。

帰国後は、生まれ育った東京を拠点に、様々なフェスティバルに参加し、年に数度は海外公演へも出かけるという生活へと移っていった。

「日本に帰ってきたら、パフォーマンス・アートがちょうどブームになっていました。フェスティバルに呼ばれることも多く、すんなりとその世界に入ることができたんです。カナダやアメリカなどの北米やヨーロッパに行くことが多かったですね。それにアジアへも。フェスティバルに参加すると、そこで色々な人と関係ができるでしょ。そうすると『こういうのがあるから来ませんか』と言われて、また活動範囲が広がるんです。その頃はジャパン・ファウンデーション(国際交流基金)にも渡航費を援助してもらっていました」

カナダツアーでの「出会い」

表現者としての精力的な活動の中、また転機が訪れた。

「あるとき、カナダ9都市を3カ月間でまわるツアーの仕事が来たんです。ビクトリアからハリファックスまでを巡回する、かなり長距離を移動するツアーだったんですが、その途中、トロントで、出会ってしまったんです」

1990年に参加した、カナダ横断9都市ツアーでのパフォーマンスのため、カナダ南部の都市トロントで一週間ホームステイをすることになった。

そこの住人が、その後、大恋愛をすることになる「彼女」だった。

「トロントのギャラリーの方が、ホームステイするところを紹介してくれたんですが、そこがなんと、レズビアンハウスだったんです。レズビアンばかり4人で住んでいたところに、滞在することになったわけです」

それまでゲイやレズビアンと交流を持ったこともなかったので、この数奇なめぐりあわせにどぎまぎしながらも、うれしくてたまらなかった。

そして予定通りパフォーマンスを終え、トロントを離れるその飛行機の中。たまたま出会った下宿先の女性への、どうにも落ち着かない恋心に気づいてしまった。

04初めての恋人と、家族へのカムアウト

超遠距離恋愛がスタート

「飛行機の上で、これは困ったぞと。だって、飛行機が飛びたった途端に気づいてしまったんです。好きになってしまっていたことを(笑)。それで、カナダ9都市ツアーが終わったら、また行ってもいいですかって手紙を彼女に出して、会いに行きました。本当はバンクーバーに戻って日本へ帰らなければならないんですが、一人でトロントに戻ったんです」

彼女との再会。

そしてしばらくトロントに滞在した後は、帰国しなければならない。そして国をまたいだ遠距離恋愛がスタートすることになった。

「大変でした。カナダに行きたいがために、父や母には『NYでパフォーマンスしたいから、その調査でアメリカに行く』と言って出て、なぜかカナダに立ち寄ったりしていましたね。あとは、ヨーロッパツアーのついでにカナダへ回るとか。全然ついでじゃないですよね(笑)。世界一周です。でも言い訳しながら、東京とカナダを行ったり来たりしていました」

シャープな視点を持ち、力強い身体表現を行なうターリさんだが、恋愛の話になるとまた異なる印象が漂う。

柔らかな笑顔とともに、透明感のあふれる眼差し。少し恥ずかしそうに語るのだった。

カムアウトはFAXで

「何回かそうして人知れず(?)通っていたんですが(笑)、ある年、トロントのメイワークスというフェスティバルのプロデュースの仕事をしていた彼女が出演者として呼んでくれることになったんです。そして、彼女との出会いから3年位経っていたこともあり、そろそろもっと長期的に彼女のそばに滞在することを考えました」

カナダに長くいたい。その本当の理由を、父と母に言わないで済ませることもできる。でもこの時、覚悟を決めてカムアウトすることを選んだ。

カナダにいるのは、仕事のためだけではなく、好きな人のそばにいたいから。そして、その相手は女性だということを。この純粋な想いを家族に伝えたい――。

カナダから東京にいる家族にカムアウトをする手段として、ターリさんが選んだのはFAXだった。

「姉の家に、FAXしたんです。両親宛てにね。姉から父母に渡してもらおうと思って。年取った父と母ですから、手紙だと、誰にも相談できずに自分たちだけで抱え込まれてしまうかもしれないと心配したんです。だからFAX。それなら、姉にも気がねなく読んでもらえると期待したんです」

05彼女との別れと、支えてくれた人

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両親からの返信は手紙で

「カムアウトのFAXを送ったあと、しばらくして母から手紙が返ってきました。たしか、『あなたももういい年ですから、とくに言うこともない』、といった内容でしたね。その手紙には父からもほんの一行だけメッセージがありました。『自分がいいと思っているのなら、いいのではないですか』と。姉のほうが感覚的には難しかったですね。当時姉は結婚していたし、子どももいたし」

しかし、家族への告白は無事に済んだものの、その後待っていたのは、彼女との破局だった――。

カナダでの初めての恋人との出会いと別れ、そして家族へのカムアウトなど、この怒涛の経験を重ねていた時期、ターリさんには揺れる心を支えてくれた人たちがいた。

誰かに話したいという気持ち

「カナダと東京を往復していた頃、アジア・フェミニスト・アートという団体に所属していたんです。そこの人たちは皆ストレートなんですが、色々わかっている感じがして、『実は私はレズビアンだ』と思い切って話したんです。自分のことを誰かに聞いてもらったのはこのときが初めて。ちょうどこの頃、どうしても話したいという気持ちが強まっていたんですね」

ターリさんは当時アート系の人たちと多く交流していた為、親しくしていた友人や知人は男性がほとんど。男性にこうしたナイーブな話題を打ち明ける気にはとてもなれなかった。

しかしフェミニスト団体の人たちには気負いもなく話せたし、よくあるような押し付けがましい意見を言われることもなかった。

仕事のこと、カナダの恋人のこと、家族のこと、その時感じていたことなどをなんでも話せて、なんでも聞いてくれる人の存在に安らげる心地よさを初めて知ったのだ。

「身近な人には話せないことでも、誰かに聞いてもらうことって、とても大事なことだったんですね。当時の私にとって、あれはとても大切な時間でした」

後編INDEX
06 パフォーマンスアーティストとして、本来の自分を表現したい
07 カムアウトはしたい人がすればいい
08 これからのセクシュアリティ問題について
09 母という人
10 パフォーマンスは続ける!!

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