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家族のあり方に正解はない。Xジェンダーの私と夫が見つけた最適解【前編】

「何かにのめりこむと、一直線。オタク気質なんですよ」と、金子秀美さんは笑う。口数が多くはないが、発する言葉の端々に、ユーモアあふれる人柄がにじむ。子どもの頃から得体の知れない違和感があった。しかし、当時はセクシュアリティを表す言葉が少なく、その違和感の正体がわからなかったという。「Xジェンダー」というセクシュアリティを知ったのは45歳を過ぎてから。

2020/04/08/Wed
Photo : Mayumi Suzuki Text : Sui Toya
金子 秀美 / Hidemi Kaneko

1968年、栃木県生まれ。都心のスポーツクラブでインストラクターとして勤めた後、脳梗塞で倒れた父の看病のため、地元に戻る。イタリアンレストランに就職し、そこで知り合った13歳上のパートナーと結婚。ビストロを開業した夫を支えるため、25歳からワインを学び始める。ソムリエの資格を取得し、現在はフリーのソムリエとして、様々な場所でワインを紹介する仕事をしている。

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INDEX
01 穏やかな子ども時代
02 女の子のそばが安心
03 父との距離
04 世の中ってそういうもの
05 進路を決める
==================(後編)========================
06 恋愛ってどこがおもしろいの?
07 それでも家族
08 Xジェンダーへの共感
09 最初に話すべき人
10 同世代へのエール

01穏やかな子ども時代

プールの思い出

栃木県足利市で生まれ育った。
かつての城下町で、今も古い町並みが残る。

家の近所には山があり、子どもの頃は父と一緒に、犬の散歩ついでに山を登った。

寡黙な子どもだったため、母はずいぶん心配した。

「1人遊びが好きだったんです」

「長いことしゃべらずに、くまちゃんのぬいぐるみを傍らに置いて、黙々と遊んでいたとか(苦笑)」

「心の病を患っているのかもしれない・・・・・・。そんな風に思っていたと、母に聞きました」

父は男子高の体育教師。

幼稚園や小学校の夏休みには、父が勤めていた高校に頻繁に連れて行かれた。

「夏休み中って、生徒がプールに入らないじゃないですか。父は『泳ぎを教えてやる』と連れて行って、私と姉をプールに投げ飛ばすんですよ」

高校生用のプールは深く、溺れないように手足をバタバタ動かした。
父はプールの中で仁王立ちして、そんな娘たちの様子を見ている。

「子どもの頃を思い出そうとすると、あのときの恐怖感がジワジワよみがえってきます(笑)」

「その特訓のおかげで、泳げるようになったんですけどね」

父はマイペースな人で、少し変わり者だった。

「高校のプールの傍にある小さなスペースで、ナスやトマトを勝手に栽培するような人でした」

「実った野菜を収穫して、『学校で作ったやつだよ』って、よく家に持ち帰ってきたんです」

「今同じことをすれば、きっと問題になりますよね(笑)。自由な時代だったんだなと思います」

過保護な母

6歳上の姉がいるが、姉妹というより、もう一人のお母さんという印象だった。

「子どもの頃は、姉がすごく大人に見えてました」

「一緒に遊ぶというよりは、かわいがってもらっていた感じです」

姉とのあいだには、2歳上の兄がいたはずだった。しかし、自分が産まれる前に事故で亡くなったと聞いた。

「『お母さんは過保護が過ぎたよね』って、姉はよく言うんです」

「兄を亡くしているぶん、どこへ行くときも母がついてきたし、何をするときも心配されました」

「私自身は、愛情を持って育ててもらったという実感があるけど、姉からは過保護に見えてたみたいですね」

02女の子のそばが安心

黄色い幼稚園バッグ

好きな服装や好きな色は、子どもの頃から変わらない。
幼稚園バッグを選ぶときも、真っ先に青を選んだ。

「ピンクと青と黄色の3色から好きな色を選べたんです」

「女の子はたいていピンクを選ぶけど、私は青が欲しかった」

「だから、『ピンクでいい?』って母から聞かれたときに、『嫌だ。青がいい』って答えたんですよ」

母が最終的に買ってくれたのは、黄色いバッグだった。

「青が良かったな・・・・・・」

心の中でそう思いながら、なぜか強く主張できなかった。

幼稚園が始まると、ほとんどの子がピンクか青のバッグを提げていた。黄色いバッグの子は少数だったから、目立つようで恥ずかしかった。

幼稚園では女の子とも男の子とも分け隔てなく遊ぶ。

でも正直なところ、女の子といるほうが、ずっと居心地がいいと感じていた。

「男の子と一緒にいると、マウンティングされているような気持ちになったんです」

「相手の男の子には、そういうつもりは全くないと思うんですけど・・・・・・」

「もしかしたら、男の子に対して、ライバル心みたいなものがあったのかもしれないですね」

女の子だけのソフトボールチーム

小1のときに、学級委員長などリーダー的な役割を任された。

それがきっかけで、生来の責任感の強さに火がつく。幼稚園のときとは打って変わって活発になった。

「勉強もスポーツも嫌いじゃなかったので、一生懸命やりました。いま振り返ると、バランス良く何でもこなせるいい子だったと思います」

ソフトボールのチームに入ったのは、小4のとき。

「小3の終わりに、体育の先生が教室を回ってきて、『女の子だけでソフトボールチームを作るけど、やりたい子?』って呼び掛けたんです」

「ソフトボールのルールは知らなかったけど、なんだかワクワクしました」

「友だちと一緒に、元気よく『はーい!』って手を挙げましたね(笑)」

楽しそうという理由だけで始めたが、ソフトボールの練習はかなりハードだった。

疲れてヘトヘトになっても「水を飲むな」という当時のスパルタ指導。
土日も当たり前に練習や試合があった。

「体が大きいほうだったので、試合ではキャッチャーをやらせてもらうことが多かったですね」

「ボールを伸びやかに投げられる点を買われて、外野を任されることもありました」

03父との距離

理不尽な言いがかり

特別な悩みもないまま小学校を卒業し、中学生になる。

しかし、思春期に差しかかった頃から、父への反発心が強くなっていった。

「母はもともと小料理屋の娘で、自分もそういうお店を開きたいという願望があったようです」

「私が中学生になると同時に、小料理屋の女将として働くようになりました」

「姉は東京の短大に通うために家を出たので、家に父と私の2人きりのことが多くて・・・・・・」

「父との距離感に戸惑って、訳もなくイライラすることが多くなりましたね」

父はお酒が好きで、夕食後にたびたび晩酌をした。

今なら「一緒に飲む?」と言えるかもしれない。

しかし当時は、アルコールで陽気になったり、声が大きくなったりする父のことがさっぱり理解できなかった。

「うるさいんだけど」と強い口調で文句を言うと、口論になる。

「家にいたくなかったですね」

「かといって、行くところもないから、ずっと部屋に閉じこもってました」

父に反発してケンカになると、母はいつも父をかばう。

「お父さんは、秀ちゃんのこと色々考えてるんだから・・・・・・」

そうなだめられることで、父への反発がより一層強まった。

自分だけが空回りしているようで虚しかった。

「今考えると、父は一度も高圧的な態度を取らなかったんですよ」

「娘の理不尽な言いがかりに対して、よく何も言わなかったな、と思います」

何にあんなに怒りを燃やしていたのか、自分でもわからない。

「生理が始まっていたし、体つきも変わりつつありました。そういうことに対する違和感みたいなものが、怒りの燃料だったのかもしれませんね」

「親への反抗というよりも、自分の寄るべなさに反発していたのかもしれません」

音楽だけが拠り所だった

典型的な「いい子」だった小学生時代から一変、中学生になると、勉強を一切しなくなった。

成績はどんどん落ち、自暴自棄になっていく。

「周りに信頼できる大人がいなくて、苦しかったです。特に、中1のときの担任の先生のことは毛嫌いしてました」

担任の先生は、当時28歳くらいの若い男性で、バスケ部の顧問をしていた。

バスケ部員など、自分に懐いている生徒へのひいきが激しく、そういう大人の姿を見るのがたまらなく嫌だった。

学校生活に楽しみを見い出せず、何もかもが面倒くさくて、部活も辞めてしまう。

「ひたすら音楽に没頭してました」

「(松田)聖子ちゃんが大好きで、お小遣いを貯めてはレコードを買って、ずっと聞いてましたね」

武道館のコンサートに行きたいと母にねだってみたものの、1人で行くのはダメと言われた。

「どうしても行きたいから、もう必死です(笑)」

「東京で1人暮らしをしていた姉に頼み込んで、一緒に行ってもらいました」

「武道館には2回行きましたね。憧れの聖子ちゃんを生で見て、すごく感動したことを覚えてます」

04世の中ってそういうもの

時間が解決してくれる

自分の体にはずっと違和感があった。しかし、「いつか治るはず」と客観的に捉えるようにしていた。

「今よりもっと大人になって、好きな人ができれば、この違和感はなくなると思ってました」

「なんかおかしいな? と感じることはあったんですけど、くすぐったいくらいの感覚」

「きっと時間が解決してくれる、って信じてましたね。世の中はそういうものなんだと、自分に言い聞かせてたんです」

中学生時代、性的な話題に対しては、潔癖で神経質だった。

「当時は『平凡パンチ』や『明星』などの雑誌に、セクシーなグラビアが載ってたんですよ」

「すごく嫌でしたね。気持ち悪いって感じ。男の子が性的な話で盛り上がってるのも嫌でした」

恋愛にも興味はなく、話題を振られても乗ることはなかった。

おしゃれに目覚める

中学卒業後は女子高に進学。

比較対象の男の子がいない環境は居心地が良く、のびのびと過ごせた。

アイドルへの熱は次第に冷めて、おしゃれやトレンドへの関心が加速していく。

「DCブランドが溢れていた時代で、バイトをしては洋服を買ってました」

「バイトは校則で禁止されてたけど、学校には内緒で、マックとかで働いてましたね」

制服のある高校だったため、私服を着る時間はあまりない。

それでも、せっせとバイトをしては、クローゼットに新しい服を増やした。

「服を着たいというよりも、ショップのお姉さんやお兄さんと話すのが楽しかったんです。ちょっとだけ大人になった気分でした(笑)」

「プライベートが充実していて、忙しかったから、セクシュアリティに悩む暇もありませんでしたね」

「高校時代は、毎日楽しかったです」

05進路を決める

父との和解

中高時代、ひそかに憧れていた職業はラジオDJだ。

深夜ラジオが好きで、よく聞いていた。顔を見せずに、声や話ぶりだけで人を引きつけるDJはすごいと思った。

「そういう仕事って、教養が必要じゃないですか」

「将来の進路を本格的に考え始めたときに、自分はラジオDJにはなれないって悟ってしまったんです」

「勉強せずに遊びほうけていたことを、初めて後悔しましたね(苦笑)」

父は教師だし、娘には大学に進学してほしいと思っているだろう。

関係は相変わらずぎくしゃくしていたが、「大学に進学したほうがいい?」と思い切って相談してみた。

「そんなこと気にする必要ないから、自分のやりたいことをやれ」

父はそう言って、数日後にある専門学校のパンフレットをもらってきてくれた。

「お父さんは、秀ちゃんのこと色々考えてるんだから・・・・・・」

母からよく言われたその言葉を、初めて理解できた気がした。

「父が渡してくれたのは、フィットネスやエアロビスクのインストラクターを養成する専門学校のパンフレットでした」

「せっかく父が勧めてくれたし、その専門学校に進学することを決めたんです」

「19歳のときに上京して、大井町にあった専門学校に2年間通いました」

東京から地元へ

当時は、フィットネスやエアロビクスの隆盛期。

インストラクターの就職口がありすぎて、選り取りみどりの時代だった。

「専門学校卒業後は、スポーツクラブに就職しました」

3年ほど、東京でインストラクターとして働いた。

しかしあるとき、父が軽い脳梗塞を起こしたと連絡が入る。

「家族の中で、そういうことが初めて起きたので、母も姉も私も動揺しました」

「それまで、本当に元気で健康な父だったので、余計に心配でしたね」

「東京の生活に疲れてきたこともあって、父の看病をするために、一度地元に帰ることを決めました」

あのとき地元に帰ったことが、自分の人生を決めたといってもいいかもしれない。

地元で見つけた転職先で、後に夫となるパートナーに出会ったからだ。

 

<<<後編 2020/04/11/Sat>>>
INDEX

06 恋愛ってどこがおもしろいの?
07 それでも家族
08 Xジェンダーへの共感
09 最初に話すべき人
10 同世代へのエール

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