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“ゲイだから” ではなく ”同じ想いだから”。【後編】

“ゲイだから” ではなく ”同じ想いだから”。【前編】はこちら

2016/09/08/Thu
Photo : Taku Katayama Text : Kei Yoshida
砂川 秀樹 / Hideki Sunagawa

1966年、沖縄県生まれ。文化人類学者。3歳で兵庫県尼崎市へ引っ越したのち、小学校2年生から大学入学までを再び沖縄で暮らす。都留文科大学を卒業後、都内で塾の講師をしながらHIV/AIDSに関する活動に参加。1997年には東京大学大学院に進学し、総合文化研究科文化人類学コースを専攻、新宿二丁目に関する博士論文を書き上げる。2000年には東京レズビアン&ゲイ・パレード(東京プライドパレード)実行委員長を務める。2011年に活動の拠点を沖縄に移し、レインボーアライアンス沖縄を設立。2016年に東京での活動を再開。著書に『新宿二丁目の文化人類学』『カミングアウト・レターズ』(ともに太郎次郎社エディタス)など。

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INDEX
01 「実は、男の子も好きなんだ」
02 成長とともに募る孤独感
03 HIV/AIDSの差別をなくすため
04 二丁目という街を研究する
05 LGBTの活動と自己肯定
==================(後編)========================
06 カミングアウトと家族への想い
07 活動の拠点を東京から沖縄へ
08 ”ミッション” として集まろう
09 ネガティブな発言を消していく
10 積み重ね、つないでいくこと

06カミングアウトと家族への想い

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「息子であることは変わらない」

自他共に認める ”女の子っぽい男の子” だった。そのことで、特に両親に対して後ろめたい気持ちもあった。

お母さんの「男の子のくせに」という言葉は胸に突き刺さった。

しかし、心血を注いできた活動が徐々に広がりを見せ、地元沖縄の新聞にエッセイを執筆するようになった時、さすがに家族にカミングアウトしないわけにはいかない状況になっていた。

「まずは姉たちに伝えて、しばらくは親には言わないでいました。新聞も、きっと親の目には留まらないだろうと思ったんです。その後、『カミングアウト・レターズ』が完成したタイミングで、母親に手紙を添えて本を贈りました。自分はゲイで、こんな活動をしていて、これからも続けていくつもりだと。最初はとまどったみたいです」

「でも、いつしか、僕が何をしていても息子であることは変わらないと思っていると言ってくれました」

お父さんとのキャッチボール

三人目にして、やっと生まれた男の子。

末っ子の長男として、とても大事にされたが、両親の抱いていた息子への期待に応えられなかったという思いもどこかに残っている。

「特に父はずっと息子がほしかったんだと思います。でも僕は息子らしくない女の子っぽい子でしたし。それでも父は、”父と息子” らしいことがやりたかったんでしょう。僕が小さい頃、父はグローブを用意して『キャッチボールしよう』と誘ってきたんです。しぶしぶながらもグローブを構えましたが、父の一投目が顔に当たり、僕が泣き出してしまって、それでキャッチボールは終わりました」

「父はきっとショックだっただろうなと思います(笑)」

キャッチボールも一緒にできなかった。

今では笑い話だが、父の期待に応えられずに寂しい思いをさせてしまったと思う。

実は、砂川さんがパレードを立ち上げた2000年、お父さんはパレード開催の半年前に亡くなっている。

セクシュアリティについては、最後まで話すことができないままだった。

「でも父は、渡しておいた僕のエッセイ集を読んでいてくれていました。だから、きっと僕がゲイだということは知っていたんだと思います。でも入院してから亡くなるまでが早く、話すことはできなくて」

「生きてるうちに会って、話したかったです」

セクシュアリティや活動については話すことができなかったため、お父さんがどのように思っていたのかは分からない。

しかし、大学院で学問を極めようとしていたことにはとても喜んでいてくれていた。

「そのことは自慢に思ってくれていたみたいで。それだけは本当によかったです」

07活動の拠点を東京から沖縄へ

東京と沖縄の違い

現在では、お母さんも砂川さんの活動をチェックしてくれているようで、「新聞に出てたね」「ニュースで見たよ」との報告がある。

そして2011年、活動の拠点を沖縄に移した。

「任期付きの仕事が一区切りついたタイミングだったし、老いた母のことも心配だし。何より、随分前から沖縄に帰りたい気持ちがあったんです。東京での活動の経験を生かして、沖縄で活動を広げたいという目的もありました」

しかし、東京と沖縄では街の規模が全く異なる。

活動の拠点とする場所として、具体的にどのような点が異なるのだろうか。

「やはり、街の規模が小さい分、誰かたったひとりがカミングアウトしたとしても、メディアが取り上げれば、周りに及ぼす影響力は大きい。市や県を変えてくる大きな力となるんです。だから、その分やりがいはあります。でも、活動するための資源は少ない。人の数も資金も」

「東京では、大企業がLGBTのイベントスポンサーとなることもありますが、沖縄ではようやく数社が賛同してくれるようなったくらいで。活動に関わる人たちの経験もまだ少ないので、運営において難しい面もあります」

広がる沖縄での活動

その資源の少なさは、東京で積み重ねたつながりでカバーしている。

ガイドブック、公式サイトのそれぞれの制作担当者も、当日のステージの舞台監督も東京で出会った仲間だ。

その一方で、東京に住んでいたときから毎年講師を務めていた「なは女性センター」の講座を通して知り合った人々から協力を得るなどして、沖縄での活動の輪も広げていった。

LGBTの非営利活動団体「レインボーアライアンス沖縄」の共同代表を砂川さんと務める宮城由香さんも、講座に参加してくれたひとり。

東京で開催したパレードにもわざわざ沖縄から参加してくれた。

「レインボーアライアンス沖縄」主催のイベント「ピンクドット沖縄」は、沖縄で初めてのプライドイベント(LGBTの可視化を図るイベント)。

既に4回開催しており、徐々に規模を拡大し、参加人数も増やしている2013年にはカナダでアメリカ人男性と結婚した沖縄出身の男性の人前結婚式を、今年2016年は、那覇市のパートナーシップ制度登録第1号となったゲイカップルの式を行うなどして話題を呼んだ。

「今年は那覇市でパートナーシップ登録制度が施行されたこともあり、イベントの様子はたくさんのメディアで紹介されました。人前式でのキスシーンも放送されました。そういったメディアを通して、多くの人の目に触れたことはとても意義があることです」

「そうやって、少しずつLGBTの存在が当たり前になっていくんだと思います」

ピンクドット沖縄は、地元の人以外にも東京をはじめカナダ、台湾、上海など海外からの参加者も増えている。

08ミッションとして集まろう

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同じ想いを抱いている人

東京と沖縄、双方で活動してきた砂川さんが、活動を続けるうえでもっとも大切だと思っていることがある。

それは、「”アイデンティティ” で集まるのではなく ”ミッション” として集まること」だ。

「『LGBTの人、集まれ!』とか『LGBTの友人、集まれ!』ということではなく、『LGBTを含む様々な人が生きやすい社会を目指す人、集まれ!』ということだと思うんです。LGBTでもLGBTじゃなくても、同じ想いを抱いている人が集まって活動するべきなんです」

LGBTのなかでも、パレードを好まない人もいれば、多様性を認める社会を求めていない人もいる。

「ゲイだから一緒に活動するのではなく、同じ社会観をもつ人が一緒に活動して、目指す社会を作っていくことが大事なのだと思います」

LGBTなのかレインボーなのか

“誰と一緒に活動していくか” ということはとても大事だが、どんな名前を掲げて活動していくのかも、また大事である。

「立ち上げ当初は、東京レズビアン&ゲイ・パレードという名前でやっていましたが、イベントに参加してくれているのはレズビアンとゲイだけではないわけで。結局は東京プライドパレードに落ち着きました。それは良かったと思っています」

「ただそうなると、もともと入っていなかった名前と一緒に、レズビアンもゲイも消えてしまう。どれも可視化されないことになるんです」

2015年8月にゲイだと暴露された一橋法科大学院生が転落死した事件を報道するニュースで、「LGBT男性自殺」という表現があった。

このような使われ方は、ゲイといった言葉が今も日本の中で避けられてる傾向を示しているのではないか。

「だからこそ、あえてレズビアンやゲイという言葉を使う必要があるときもあるのだと思います。それらの言葉は、まだまだ性的な用語であるというイメージがあります。当事者のなかにさえ口に出すことをためらう人もいます」

「存在が認知されるためにも、LGBTだったり、ゲイだったり、あるいは、性的マイノリティなど、文脈によっていろんな言葉を使っていけばいいと思っています」

「どれかの言葉だけが正しいということはないはずです」

09ネガティブな発言を消していく

できることはたくさんある

LGBTという言葉が広まりつつあり、多様な社会のあり方について関心が高まるなか、当事者はもちろん、当事者でなくても、何か行動を起こしたいという気持ちをもつ人たちも増えている。

「パレードに参加するとか、講演会に出席するとか、何か大きなイベントに行ってみるのもひとつですが、最初は勇気がいることなので、すぐにそういった行動を起こすのは難しいかもしれません。でも、できることはたくさんあります」

「周りを見渡してみると、性的マイノリティに対するネガティブな発言は世の中にあふれています。同性愛を笑いのネタにするのもそうです。それらを一つひとつ消していくことから始めていってはどうでしょう」

ネガティブな発言を消していけば、いつしかそういった発言自体が社会に適さなくなり、それこそ少数派になっていくだろう。

小さな行動から大きな行動へ

「何か行動を起こしたいと思った時、周りにあふれているネガティブな発言に気付くはずです。僕は、スクールカウンセラーや臨床心理士の方向けに講演をさせていただくこともあるんですが、『講演を受けた直後にLGBTに関する相談を受けました』というご報告をいただくことがあるんです」

「問題意識が生じた時に、気付きのスイッチが入るのかも」

気付きが小さな行動へとつながり、大きな行動へと広がる。

そして砂川さんは、さらにその先へ、活動の範囲を広げていこうとしている。

「今年からまた拠点を東京に戻したので、双方を行き来しながら、いろんなことを混ぜたりできたらいいなと思っています。ピンクドット沖縄のように東京と沖縄の人を混ぜたりとか」

「これからは地域を混ぜるだけでなく、LGBT以外の他の社会問題と一緒に活動していくことも考えています」

実際に砂川さんはオルタナティブ・スクール「シューレ大学」のアドバイザーを務めたり、野宿者支援のネットワークに入ったり、受刑者へ本を貸し出す活動を行なっている団体とコンタクトをとったりするなど、さらに活動の範囲を広げつつある。

10積み重ね、つないでいくこと

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東京に置いてきたもの

「オルタナティブ・スクールのアドバイザーは沖縄に移る前から務めていたんですが、僕が東京から沖縄に引っ越すことを伝えたら、学生たちが『行かないで。沖縄に行っても東京に戻ってきて』って言ってくれたんです。とてもうれしかったんですが、その時は東京のことを振り返ることなく引っ越してしまいました。でも、沖縄に移った途端に後悔の念が湧いてきたんです」

「僕は大切なものを東京に置いてきてしまったんだと」

それは、東京で積み重ねてきた人間関係。東京で出会った人たちと自分とのつながりは、とても大切だったと気付いた。

「沖縄でも5年間の活動を通じて掛け替えのない仲間がたくさんできました。でも、沖縄に帰ったばかりのとき、東京に住んでいた21年で得た人間関係の大きさを痛感しました」

「人と人とのつながりは、直接会っていなくても誰かを介して自分とつながっていたりして、糸が緻密に重なりあっている布ようなものだと思いました。そして、それを織り上げていくことがいかに大切なことなのか」

「東京と沖縄、双方を行き来することで確認することができました」

流されてきたからこそ

積み重ね、つなげてきた人間関係を大切にしながら、砂川さんはこれからも活動を続けていく。

「やりたいことはいろいろあります。今の状況について加筆した、多くの人が読みやすい新宿二丁目についての本も書きたいし、多様な社会の多様なセクシュアリティや恋愛についても書きたいと思っています」

「この ”多様な性” って、必ずしもLGBTのことだけを指すのではありません。いろんな人がいる社会では、一人ひとりが多様であり、それぞれお互いを尊重しなければ」

「パレードのようなイベントについては、当時は誰もやっていないから自分がやるしかないと思ってがんばってきました。でも、今はたくさんの人がやってるから僕はもういいかなって思う部分もあります。僕たちが切り拓いた土地に、ちゃんと家を建て続けてくれたってことだから」

「これからは、LGBTからテーマをさらに広げて、研究や活動をやっていこうと思います」

ゴールはどこですか、と問うと「分からない」と答えた。「常に変化しているから」と。そんな自分を「流されやすい」と言うが、流されてきたからこそ今の活動があるのだという考え方もできる。時代の波に乗って、流れながら、新しい山へとたどり着き、切り拓く。その柔軟さと行動力こそが、まさに砂川さんの強みなのだろう。これからの研究と活動になお期待が集まる。

あとがき
砂川さんは「強い信念が人を動かす」を体現していた。リーダーシップ論は東西数多ある。「・・・社会の土台も変わる」の言葉は、長く道を拓いてきた砂川さんの実感の一言だった■どの話しにも誰かへの配慮が溢れていた。それは、過去、現在、これから出会う人も含めたもの。無関心を装うことはない。ミッションやビジョンのために心を尽くして動く人だ■「撮られるのは苦手なんですよ(笑)」と、はにかむ笑顔が温かった。(編集部)

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