INTERVIEW

笑顔さえ忘れなければ、人は幸せを掴めるはず【後編】

笑顔さえ忘れなければ、人は幸せを掴めるはず【前編】はこちら

2016/09/13/Tue
Photo : Taku Katayama Text : Koji Okano
原 英翔 / Eito Hara

1991年、中国・黒龍江省生まれ。父方に中国残留日本人の祖母を持つ。母は中国人。0歳の時に祖母、両親などとともに日本に移り住む。21歳の時にタイで性別適合手術を受け、戸籍も男性に変更する。現在は、性同一性障害(GID)のトータルサポート会社にて、タイや日本国内での性別適合手術を含めた、アテンドサービス業務を担っている。

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INDEX
01 生誕の地・中国から日本に渡る
02 母親、そして妹と離れ離れに
03 親族の期待を背負って進学校へ
04 自分を捨てた父親との再会
05 再び親に置き去りにされて
==================(後編)========================
06 一家夜逃げの果てに
07 ようやく迎えた思春期
08 性同一性障害と認められない
09 カミングアウトが開いた扉
10 人生の新たな一歩を踏み出して

06一家夜逃げの果てに

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父の豹変

「父は会う前に電話をかけてきて、僕と妹に荷物をまとめるように言いました。アパートを引き払うと言うのです。一瞬、言われていることがよくわかりませんでしたが、とにかく凄い剣幕で催促するので、従うしかありません」

これを「夜逃げ」と呼ぶと知ったのは、もっと大きくなってからのことだ。

父は滞納金の全てを踏み倒すことを選択したのだ。

「また東京の下町で、家族3人での生活が始まりました。父はまた何か仕事を始めたようですが、僕にはよく分かりませんでした。ただ学校の帰りに、よく区役所に証明書を取りに行かされました。今思えば、中国人向けの保証業務でもやっていたのかな、と思います」

せっかく親子3人での生活が始まったのに、父は父らしいことを全くしてくれなかった。

それどころか「お前はゴキブリだ」と、たびたび罵倒された。

寒い冬の日には、自分と妹だけ暖かな居間に入れてもらえず、廊下に出された。
学校からの帰りが少しでも遅くなると怒鳴られ、時には手が飛んでくることもあった。

「状況は日に日に悪化していきました。言葉にするのが憚れるくらい過酷なものでした。ここから逃げたい。そんな思いばかりが募っていきました」

新しい世界へ

そうして迎えた中3の夏。

本来なら中学の修学旅行でロンドンへ渡航する予定だったが、父親が代金の積み立てをしてくれなかったため参加できず、自分だけ夏休みの期間が2ヶ月になった。

「学校にいる時間だけが救いだったのに、お金もないので、どこにも出かけることができません。家にいるしかないんです。というか、家にいないと父に怒られるんです」

「暴力も頻回になり、肉体的にも精神的にも、どんどん父に追い詰められるだけで。もうこれ以上、我慢できないと思ったとき、気づいたらパジャマのまま、交番に駆け込んでいました」

理由もなく酷い言葉をはかれ、時にはベルトでムチ打たれ、腕がミミズ腫れになることも。

なぜ父に、ここまでして己の人間の尊厳を、踏みにじられなければならないないのだろうか。

まだ自分がまともな思考ができるうちに、逃げねばならないと思った。

「父は成人してから日本に来たこともあって、言葉の問題で思ったような仕事に就けず、社会の中で生きづらさを感じていたのかもしれません」

「だから酒に溺れたり、私たち兄弟に辛く当たったのかな、と。今なら少しは、父の立場になって考えられるけれど、当時は自分のことで必死で、そこまで思いは及びませんでした」

交番に駆け込んで、とにかく必死に自分の家庭環境を伝えた。

07ようやく迎えた思春期

性自認の芽生え

「薄汚れたパジャマを着た私を迎え入れたお巡りさんは、始めは驚きの表情でしたが、すぐに状況を理解してくれました。区の児童相談所に一時保護されました」

せっかく受験に合格して入学した中学校も、卒業を前にして自主退学せねばならなくなった。

関東近県の児童養護施設に身を寄せて、公立中学校に通うことになったのだ。

父親のもとに残してきた妹のことが気がかりだったが、状況を理解した児童相談所が引き取り、自分とは別の児童養護施設に預けられることになった。

「ようやく心穏やかに毎日を過ごすことができるのかな、と考えたのですが。反抗期が遅れてやってきたんです。今までずっと父に押さえつけられて過ごしてきたので、その反動なのか、かなりの重症で。施設の先生に向かって、よく『ふざけんな』って怒鳴っていました」

「今思うと、申し訳ないことをしたなぁ、と」

抑圧された環境から解放されたことで、再び従来の男勝りな性格が戻ってきたのかもしれない。

父と同居する前、小学生の頃に、男の子と泥ダンゴをぶつけ合って遊んだり、相撲を取ったりしていた頃の、あの活発さをだ。

「と同時に、昔好きだった子のことも思い出すようになりました。頭を過るのは、皆、かわいい女の子の顔ばかり。僕って本当に面食いだな、と思いました」

「辞めた中学校にも好きな女の子がいたんです。友達でもあったんですけど。離れ離れになったけど、よく彼女のことを思い出していました」

女だらけの生活

中学卒業後、ドラッグストアとコンビニのアルバイトを掛け持ちしながら、通信制の高校で勉学に励んだ。

しかし夢は飲食店を経営すること、そのためには高校卒業の資格は要らないと思った。

17歳で中退。

そんなとき、どういう巡り合わせか、辞めた中学で好きだった女の子の家で、一緒に暮らすことになった。

「たまたま電話で話すことになって近況を伝えたら『うちに住みなよ』っていう話になって」

「彼女のお母さんが会社社長だったので、とにかく広い家に住んでいて、僕が転がり込む余地があったんです。ちょうど施設から出たいと思っていたし、自由も増えるので厚意に甘えることにしました」

仲のいい友達との楽しい毎日を思い描いていたが、現実は大きく異なっていた。

「自分が女であって女じゃないということを、嫌なくらい思い知らされる毎日でした。そしてそれが、苦痛でたまらなかったんです」

08性同一性障害と認められない

笑顔さえ忘れなければ、人は幸せを掴めるはず【後編】,08性同一性障害と認められない,原英翔,トランスジェンダー、FTM

否定される毎日

区内の高級住宅街にある彼女の家。

そこで新しい生活が始まった。彼女には姉がいて、よく一緒に買い物に連れて行かれた。

「当時からメンズ服しか着ていませんでした。それどころか、ブラジャーもメイクもしていない。そんな僕をデパートに連れて行って、やれ化粧を試せ、ワンピースを着てみたら?と勧めてくるんです」

レディースの衣類には全く興味がないから、もちろん全力で断る。

そうすると「英子って、おかしい、ヘンだよ」と一方的に否定される。

「あるとき、共通の男友達が家に遊びに来たんです。彼女も姉も恥ずかしいからと言って、すぐにベランダに干してあった洗濯物の下着を隠しました。でも僕は別になんとも思わなかったから、リビングで男友達と寛いでいたんです」

彼が帰ったあと、彼女が『英子はどうして下着を隠しに行かないの? 恥ずかしくないの? やっぱりおかしい」と、またも否定された。

その下着も、一つ屋根の下で暮らしながら、絶対に同時に一緒の洗濯機で洗われたくなかった。

「彼女も姉も、お母さんも、あまりにもセクシーかつ上品な下着をまとっていて。自分も一応、下着は女性ものを履いていたんですが、一緒に洗われるのが恥ずかしくなったんです」

「彼女たちのものに比べたら、自分のは男物ものみたいだな、と思って。だから下着も隠れて、コソコソ洗っていました」

核心を突かれて

自分を否定されたり、コソコソ隠れて洗濯したり。

そんな毎日を送るなかで、ストレスが原因なのか、ついには自分の部屋から一歩も出られなくなった。

「あんなに好きだったのに、彼女のことが怖くて怖くて仕方がなくなったんです。また『英子、おかしい』って言われるんじゃないか、と思って。顔を合わせたくなかったんです」

部屋に閉じこもる自分を心配して、彼女のお母さんがやってきた。

「そのとき言われたんです。『あなた性同一性障害なんじゃないの』って」

「『服装だって女の子っぽくないし、髪型も短いし、言動も男の子っぽいし。もしGIDなら治療を受けた方がいいわよ』と。おそらく心配して言ってくれたんだと思います」

しかし、そう言われて、思った以上に動揺している自分がいた。

「必死に作った女の子っぽい声音で『そんなことありません』と全力で否定しました」

「性同一性障害に関しては中学生のときに『3年B組金八先生』の再放送を観て、知っていました。自分がそうかもしれないと思ったこともあります」

「ただ『GIDとバレてしまったら否定されるんじゃないか』という恐怖心が自分の中にあって。端から性自認の問題に向き合おうとは思えませんでした」

そんな気持ちのまま思春期の後半に差し掛かった頃、突然、友達のお母さんからGIDではないかと指摘された。

「僕が否定するのを見て、お母さんは失望したようでした。もうこれ以上は言うまい、という雰囲気で部屋を出て行きました。もうこの家には住めない、と感じました」

結局、女ばかりの生活は1ヶ月で終わりを告げた。

そのまま施設に戻ってもよかったが、高校は辞めてしまったし、もう自立してしまえと思った。

父親とは絶縁同然だったので、母親に保証人になってもらい、1人暮らしを始めた。

09カミングアウトが開いた扉

笑いの道へ

「ずっとお金に困窮して生きてきたから、とにかく稼ぎたかった。居酒屋、コンビニ、リアカーを引いて豆腐を売ったり。バイトの掛け持ちもして、必死に働きました」

そうして1年が経った頃。ある決意を胸に母親に相談に行った。

「芸人になるために専門学校に入ろうと決めたんです。人を笑わせることが好きだし、それにお笑いの世界なら、きっと男女関係なく活躍できるんじゃないかと思って。面白ければ、それが実力だから。当たれば、それこそ大きく稼ぐこともできますし」

母親は支援してくれたが、学費が足りなかった。

困っていたら、仲良くなった近所の接骨院の先生がお金を貸してくれた。

「中学生のときに、食堂で春巻きや唐揚げをもらったときの話じゃないですけど、おじさんやおばさんに気に入られるのが得意みたいなんです(笑)」

しかし飛び込んだお笑いの世界は、自分の想像とは違った。

自分が女であることを利用して、笑いをとらなければならない。そんな場面に遭遇することが、しばしばあった。

「水着でコントをする仕事の依頼があって、断ったことがあります。やっぱり芸人の世界にもジェンダーの壁は存在するんだ、と痛感したんです」

加えて学校の同級生に、自らが性同一性障害だとカミングアウトする女の子がいた。

「授業の自己紹介で、わざとらしいアニメ声を作って、面白おかしくGIDであることを話していて。周囲がざわついたんです。ああ笑いの世界でも、自分がGIDであることを告白したら馬鹿にされるのかと気づき、心が折れました」

理想と現実の狭間で悩んでいる自分がいた。

認めるしかない

1年でお笑いの専門学校を卒業し、芸人として活動することになった。

ある企画で与えられた罰ゲームが、自らの人生の転機となった。

「女芸人同士でキスをすることになったんです。で、相手の子が意外と綺麗な子で。キスの勢いで付き合うことになったんです」

この思いが「女子同士の好き」という気持ちでないことは、交際する前に彼女に伝えた。「うん、なんとなく分かるよ。その気持ちも、あなたの性のことも」と答えがあった。

仲は深まり、同棲が始まった。

順調だった初めての交際だったが、幸せな期間はあまり長くは続かなかった。

彼女の浮気が発覚し、別れることになったのだ。

「あまりのショックで、自分が壊れそうになりました。もう抱えきれなくなって、勢いで、バイト先の友達にカミングアウトしたんです」

自分が性同一性障害であること、彼女がいたけど別れたこと。全部を話しても、その友達は自分の全てを受け入れてくれた。

カミングアウトって、そんなに難しいもんじゃない。自分が楽になれた瞬間だった。

10人生の新たな一歩を踏み出して

笑顔さえ忘れなければ、人は幸せを掴めるはず【後編】,10人生の新たな一歩を踏み出して,原英翔,トランスジェンダー、FTM

取り戻した自信

「カミングアウトから先は、本当に早かったです。2週間後には医師からGIDの診断書をもらって、ホルモン治療を始めていました。性同一性障害の人との交流会に顔を出して、性別適合手術の情報収集もしました」

ホルモン注射治療の経過も順調だったので、1年以内にタイで性別適合手術を受けようと思った。

そのためには稼がねばならず、あまり収入にならない芸人の仕事は、辞めざるを得なかった。

「自分をネタにして笑いを取るより、まずは自分自身を見つめ直さなければ、とも思っていました。辞めたら今度は寝る暇を惜しんで、とにかくアルバイトに励みました」

「それでも必要な費用の半分しか間に合わなかったので、残りはカードローンで捻出しました」

治療開始から8ヶ月後、タイでの性別適合手術を経た自分の身体を初めて見たときの感想は、しかし意外なものだった。

「中途半端な人間になってしまったな、と思いました。男でなければ女でもない、と。嬉しいという気持ちはあまりなかったんです」

しかし喜びはこれからやって来るのだろう、とも思っていた。

帰国後には戸籍変更を行い、「原英翔」として生きていく。

通信会社に営業職として入社し働くうちに、男性に生まれ変わった嬉しさと自信が、ふつふつとこみ上げるようになった。

今は自らの性別適合手術をアテンドしてくれた会社で働いている。GIDの人々をサポートすべく、タイと日本を往復する日々だ。

「僕はGIDに生まれたことはラッキーだと思っています。男性として生きながら、たとえば生理の辛さなど、女性のことも少しは理解できるからです。お客さんが性同一性障害であることをプラスに考えられるように、とにかく笑いを絶やさずに、毎日の仕事に当たっています」

葛藤を感謝に変えたもの

家族との関係も、昔では考えられないくらいに良好だ。

「タイに性別適合手術に向かう直前に母にカミングアウトしたら、大泣きされました。自分の生み方が悪かったんだと言いながら」

「母から『英子が男になるらしい』と聞いた妹も、『お姉ちゃんがお兄ちゃんになるの?意味がわからないよ』と言って、不信感を募らせていたようです」

「それで4年間、二人とは音信不通でした。でも実際に幸せそうな僕を見たら、すっかり理解を示してくれて。今では、とても仲がいいんです。」

15歳で家を飛び出して以来、昨年まで父とも顔を合わせていなかった。

5年前に脳梗塞で倒れ、ずっと病院で寝たきりであることは祖母から聞いて知っていた。

それでもなお思春期のトラウマ、自分に対する虐待への恐怖心が拭えず、見舞いに行くことができなかったのだ。

「父のことを今の会社の社長に話したら、病院に足を運ぶべきだと言われて。『英翔君が今、この世に存在するのは、お父さんがいてくれたからなんだよ』と熱弁されたんです」

最後には「僕もお見舞いに行く。この世に英翔君の生を宿してくれた、そのお礼の気持ちを伝えたいから」とまで言い、一緒に病院に付いて来てくれた。

それでも病室に足を踏み入れる前は、嘔吐感を覚えるほどの恐怖が押し寄せてきた。

「覚悟を決めて、病床の父に近づいてみました。自分で身体を動かせないどころか話すこともできず、片目を見開いて、ただ息だけをしている父の姿。昔のあの怖い父は、もうそこにはいなかったんです」

よぎった思いは、意外なものだった。

「父の変わり果てた姿を見たとき、哀れみや悲しみよりも、この人の子供に生まれてきてよかった、という感謝の思いが強く押し寄せてきたんです。確かに親らしくない親で、苦労はした。けれども試練があったからこそ、それを乗り越えることで、強くなれたんじゃないかって」

「精神的にタフになれたからこそ、GIDの問題も受け入れ、本当の自分に出会えたんだと思えたんです」

このときから、今まで話せなかった父との葛藤のことを、人前で言えるようになった。

真に自分の人生を受け入れることができるようになったからだ。

今では妹と一緒に、頻繁に病院に父を見舞いに行くようにもなった。

「この間、初めて家族写真を撮りました。今まで家族が揃うことがなかったから、病床の父を囲んで。この写真、僕の宝物になりそうです」

遠回りをしても、やはり人間は幸せになれるようになっているのかもしれない。英翔さんの歩んできた道を知ったとき、そう励まされる人は多いのではないだろうか。試練を乗り超えるためになすべきことの根本は、LGBTもそうでない人も、そう変わりはしないのだから。

あとがき
悪い夢のようだったに違いない出来事も、軽快なテンポで話す。稽古を重ねたお笑いネタの披露のように・・・・・・。英翔さんのインタビューは、最初お聞きする温度感に迷ったほど■険しい山道でも、出会う人々に明るく声をかけ、接してきた。助けを借りながら、頼りにしてきた自分をずっと信じてきた英翔さん。「追い詰められた理由が何であれ、出口はある」。そんな勇気をくれる。そして今、歩む道の向こうに、もっと輝ける扉を探している。(編集部)