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私は、私――。性分化疾患で揺らいだ性の認識と、自分が何者か分からない苦悩を経て【後編】

私は、私――。性分化疾患で揺らいだ性の認識と、自分が何者か分からない苦悩を経て【前編】はこちら

2017/01/20/Fri
Photo : Mayumi Suzuki Text : Momoko Yajima
小池 知香子 / Chikako Koike

1986年、千葉県生まれ。胎児として母体で成育する間、様々な要因で典型的な男女の性に分化せず発達、誕生する、「性分化疾患(インターセックス)」と呼ばれる疾患を持つ。診断名は「男性型仮性半陰陽完全型アンドロゲン不応症(CAIS)」。高校1年生で診断を受けて以来性自認が揺らぎ、性同一性障害と思い込む時期を経て、23歳で再告知を受ける。現在は設計関係の会社で働きながら、NPO法人バブリングでマイノリティのカミングアウトを支える活動をしている。

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INDEX
01 女でも男でもない “バケモノ”
02 急速に崩れていく自分
03 「私は女の子として生きていてはいけない人間」
04 「男」として生きる覚悟
05 やっと聞けた、本当のこと
==================(後編)========================
06 やり直し
07 性分化疾患の人たちとの出会い
08 今度は自分が手を挙げる側に
09 あの時、何があればよかったのか
10 家族をもう一度捉え直す

06やり直し

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父との邂逅と、女性としての葛藤

荒れた状態を心配した父からは何度か電話があり、23歳の時、久しぶりに会った父から問い詰められた。

「なんでこんな風になっちゃったんだよ」。

それは、自分が反抗期をこじらせたまま荒れ続けているのだと言っているようにも聞こえた。

「だって私はこういう身体でずっと苦しくて、手術もすごくつらかったんだよ? どうしてそういうことを言うの?」

問いかけると、父はびっくりしたように、「知らなかった」「手術って、何?」と言った。

父は自分の疾患や手術のことを母からきちんと聞かされておらず、娘はずっと反抗期の延長でスレてしまったと思っていたのだ。

「分かり合えてハッピーエンド、というわけにはいかなかったけど(笑)、ただ、父が知らなかったということを私も知らなかったので、それならまあ仕方ないか・・・・・・と思うようにはなりました」

ちょうどこの頃、姉が妊娠した。

そしてその事実が、思いのほか自分を揺さぶった。

「自分は子どもが産めないことも分かっていて、でも女性として少しずつ生きていこうと必死にここまでやってきた」

「それなのに、私がものすごい力で手に入れたものを、ふつうの女の人は一瞬でポーンって飛び越えていっちゃうのを見て、私はなんで生きてるんだろうって思っちゃったんです」

「私はこれから先、何度こういうのを経験していくんだろう。もう耐えられない、と思って、初めて父に『死にたい』って電話したんです」

「とりあえず帰ってこい!」電話口で父の声が響いた。

高校と専門への進学

実家へ戻ったことは、自分の人生をもう一度考え直す機会にもなった。

父からは、子どもが産めないのだから結婚のことはあまり考えない方がいいと言われた。

自分でも、子どもを産めない身では結婚相手としての選択肢で最初に落とされてしまうだろうなと思った。

「だったら、これから自分1人で生きていかないといけないんだとしたら、やっぱり学校は出ておこうと思って、もう一度高校に行きたいと父に伝えました」

「父もその時には、私がちゃらんぽらんな理由で高校を辞めたのではないと分かってくれていたので、『おお、行きなさい、行きなさい』と(笑)」

父の応援を受け、通信制高校を卒業。その後、建築を学べる専門学校に進学した。

「衣食住の中でどれが食いっぱぐれがないだろうと考えて、消去法で住環境を選んで、何も考えずに建築の方にいったんですけど、どうやら建築って理系だったらしく。私、数学のテストで0点取ったんですよ(笑)」

「見かねた先生が中学の数学から教えてくれました」

「勉強がしたくて高校へ入り直したし、もともと知らないことを知るのは楽しい方なので、専門学校が終わる頃にはすっかり建築が好きになっていました」

しかしいまの会社に決まるまでの就職活動は簡単な道ではなかった。

28歳という年齢、学歴、そして適齢期の女性であるということが大変なネックになってしまったのだ。

「アラサーの女性ということはよく面接でも話に出ましたね。結婚して子どもを産むでしょう?って。2~3社には子どもが産めないことを話したんですけど、今度は、じゃあ健康な身体じゃないってこと?と言われて」

「じゃあどうしろと、って思いましたよ(笑)」

100社ほど受けては落とされ、さすがにへこんだが、いまは設計関係の会社で構造力学の仕事などに関わっている。

入社したばかりの時は全く分からなかった物理も、勉強ノートは4冊を超えた。

勉強は苦ではないのだ。

07性分化疾患の人たちとの出会い

初めて会う「おんなじ人たち」

病院で告知を受けた23歳の頃、SNSで性分化疾患当事者たちのコミュニティを見つけ、オフ会に参加した。

初めて見る、自分以外の性分化疾患当事者の人たち。

「やべーー、おんなじ人たちだーー! マジだーー!って、そんな感じでしたね(笑)。おんなじ人たちがいたことの驚き、それと・・・・・・やっぱり嬉しかったですね」

そこで、自分とは違う種類の性分化疾患である “Kさん” という男性と知り合う。

Kさんはその後も別の性分化疾患当事者の集まりに連れて行ってくれたり、何かと自分に機会をくれた。

「でも、毎回違う人たちと会うんですけど、自分と全く同じタイプの疾患を持つ人はひとりもいなくて、同じ人っていうのはなかなかいないもんだなあと思っていました」

しかし、とうとう「その日」が訪れた。

去年の5月、Kさんが性分化疾患の勉強会で話してみないかと誘ってくれたのだ。

自分とまったく同じ疾患の人にやっと会えた!

「自分のライフストーリーを人前で喋る中で、『でも自分とまったく同じ身体の人に会ったことがないんですよね』と言ったら、目の前に座っていらした尼僧さんが、『はい!』って手を挙げてくれて」

「『私もおんなじですよ!』って言ってくれたんです」

1939年生まれの、神奈川県で出張説法などをしている70代の女性で、Tさんといった。

「もう、まさか! とびっくりして(笑)。やっと会えた! と思いましたね」

彼女とは、「お互い頑張って生きてきましょうね」というような言葉を交わした。

その時、自分が求めているものが、ふんわりとだが分かった気がした。

「自分と同じ疾患の当事者が『ただ生きている』という事実を知るだけで、私にとってはこんなにも生きる力になるんだなと」

性分化疾患は医療との結びつきが強く、切っても切れない関係だ。

治療方法や選択肢が様々にある場合には、同じ型の患者同士の情報交換や交流が大きなメリットとなるだろう。

しかし自分のような男性型仮性半陰陽完全型アンドロゲン不応症は、治療法もある程度確立されており、見た目も女性だ。

「自分から言わなければただの『不妊の女性』なんですよ。それなのに、わざわざ表に出て、実は男性でした、って公表することはリスクもデメリットも大きいと思うんです」

しかし表立って言う人が少ない分、同じ疾患を持つ人に出会う機会は本当に希少で、孤独感が強かったのも事実だ。

08今度は自分が手を挙げる側に

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疾患は疾患であって、「私自身」ではない

「でもやっぱり、どこで誰が生きているのかは知りたい、という欲はあるんです」

「私が生きているこの瞬間にも同じように生きている人がいることを知っただけで、23歳の時に病院で再度告知を受けて憑き物が落ちた時と同じように、気持ちが落ち着きました」

「私が求めていたのは『知ること』だったんですよね」

自分の時には、Tさんが自分に存在を伝える役割をしてくれた。

だから、今度は私が発信する側、手を挙げる側にまわろう――。

「私が生きているということを、同じ当事者の方がどこかで知って、私と同じように生きる力になったりしてくれたら、もうそれでいいかなって」

私は、私。

完全アンドロゲン不応症だけれど、疾患は疾患であって、それは私のアイデンティティではないから。

ようやくそう言えるようになってきた自分がいる。

「でも、疾患から得たものもあると思っています。人に対する考え方の幅は広がったし、目に見えるものがすべてじゃないということも意識するようになりました」

「人はひとつの考えだけで動いていないから、ひとつの側面だけで判断しちゃいけないと感じています。だけど同時に一方的な側面で判断されがちだから、私も気をつけなきゃとは思います」

「矛盾してるんですけど(笑)」

周囲から差し伸べられた温かい手

いま、大切な人へのカミングアウトを応援することをミッションに掲げたNPO法人「バブリング」に参加し、仲間と共に活動をしている。

ここに至るまでには、長い間、当事者の会や勉強会に誘ったりアクションをかけ続けてくれたKさんや、ポジティブに接してくれたLGBT当事者の方たちの存在がある。

「こんなにも周りの人たちが、社会に対して、自分自身に対して向き合っているのに、私はいつまでも与えられているだけでいいの? いい加減、なんかしなきゃ! って思ったんです」

みんなにもらった恩を、今度は自分が誰かに送っていく番だ。

「恩送りってすごく大事なこと。負の連鎖って簡単だけど、社会へ毒を吐き続けるのって、正直、自分も聞いてる相手も疲れるし、いいことを産まないんです」

「そうじゃなくて、やってもらって嬉しかったことを人にもする。ネガティブな主張より、ポジティブな主張で伝えていくんです」

「幸せになりたいからこうしようとか、分かり合いたいからこうしようとかね。そうしていかないとLGBTや性分化疾患に対する理解は広まっていかないんじゃないかと思うんです」

09あの時、何があればよかったのか

私の中の「インナーチャイルド」

自分自身の葛藤はいまも完全になくなったわけではない。

親になって初めて父と母の気持ちが理解できた、というのはよく聞かれる言葉だ。

「親も心配しただろうけど伝え方が下手だった。だからしょうがないよ」と諭されることもある。

しかし、そう言われるたび「じゃあ、私は?」と思う。

「これからの人生、どうやって生きていけばいいかわからなくて悩んでいるいまの状態も、そのきっかけはやっぱり、親に見てもらえなかったという当時の気持ちが処理しきれないことにある。それを『しょうがない』と納得させて諦めなければいけないのだとしたら、あの頃の私の気持ちの落としどころがなくなってしまうんです」

「もういいじゃない」と終わりにされ、「その話はタブーなこと」とされてしまうと、あの頃、心の中で泣いていた小さな女の子の自分があまりに報われないではないか――。

「だから、『あなたを見ているよ』という態度が私には必要だったのだと思います。

なぜなら、年に数回しか会わないのに、堀川先生の『ちかちゃんは女の子だから、安心していいんだよ』、『大丈夫、大丈夫、女の子だから』って言葉は、私の歩みにすごく影響しているんです」

「お医者さんというのもあるし、10年以上診てくださっている安心感もあるからなんですけど、でも堀川先生が言うんだったら、その瞬間は私も自分のことを女の子として考えてもいいのかもしれないって思えるんです」

「大事なのは、それを持続させることなんです」

欲しかったのは「家族の対話」

最近、考えることがある。

「何があれば私は、穏やかな人生が送れたのだろう」ということだ。

「過去を振り返っての願望でしかないのだけど、やっぱり、『家族の対話』がほしかった・・・・・・。あの頃、母も、悩んでた。だったら、私も悩んでいたけれど、一緒に悩んで乗り越えていくとかできなかったのかなって」

「私のことを守ろうといろいろやってくれたんだろうけど、私はそれですごく孤独になってしまった。ぶつかる相手がいないから外で発散していったけど、本当は、向き合ってほしかったなあ・・・・・・って」

はいはい、と放っておくのではなくて、強引にでも、首根っこをひっつかんで家の中に連れ戻してほしかった。

「親とか先生とか、私がどんなに反発しても暴れても、無理やりにでも・・・・・・。肩を揺さぶって、大丈夫だよ!って言ってくれる存在があったら、もっと違ったのかな」

小さい頃は本が好きな穏やかな女の子で、もともと、暴れるタイプではなかった。

だからこそ、「どこで」「どうであったら」と考えてしまう。

「私の思春期に一番必要だったのは、あなたをちゃんと見ているよ、だから安心していいよ、という存在だったんだと思います」

「もちろんきょうだいが4人もいて、家族は私1人じゃないから、私だけにかかりきりになることが難しいのは理解しているんですけど、それでも、もうちょっと向き合ってほしかったかなーって思いはありますね」

10家族をもう一度捉え直す

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一家離散から、もう一度かき集めて作ったいまの「家族」

自分の病気が発覚した後、両親の離婚とともにいったん家族はバラバラになってしまったけれど、結果として、いままた父ときょうだいが集ってきている。

「1回家族が崩壊して、みんなぐちゃぐちゃになって、それぞれつらい思いもしてからもう一度集まっていまのかたちになっているんですけど、私は父と母がそろっていた頃よりも、いまの家族の方が好き(笑)」

「もうみんな独立したけど、弟から連絡がきても普通に会話してるし、姉と妹とも交流が増えた。姉とは年が近い分よく話すしとても感謝してます。姉の子どもも心から愛おしく感じるんです」

「父のことも色眼鏡なく見られるようになりました。最近はちゃんと父の日にプレゼントをあげたり手紙を書いたりしてるんです。できるだけ生きている間に伝えたいなって」

「そういう気持ちになれたのは、やっぱり本当に必要なものだけをもう1回かき集めて作った家族だからかな」

父への感謝と尊敬を胸に

「自分の人生を振り返って・・・・・・。うーん、まだ言葉にできないこともたくさんあるけど、でも、父にはとにかく、感謝してます」

「私には、父と同じ年齢で、父と同じことはできない。子どもを4人育て上げることも、一家離散した後に子どもたちをかき集めて自分にも帰ってこいと言ったり、金のことは心配するなと私に学校を出させてくれたり」

両親ともに自分を見てくれなくて淋しいと思ったこともあるが、父もあの頃は家族を支えることに一生懸命だったのだと理解している。

反抗期だと思われたまま一方的に怒られたりもしたが、自分の疾患のこと、それにまつわる苦しかった気持ちを吐露できてからは、不器用ながらも、父は自分の道を「間違っていない」と応援してくれた。

もう、自分のことを “バケモノ” とは言わない。

あの時、堀川先生が「ちかちゃんは女の子だよ」と言い続けてくれたから。
あの時、Kさんが声をかけてくれたから。
あの時、Tさんが「私も同じ」と手を挙げてくれたから。

多くの人の声が、手が、気持ちが、「私」の方を向いていてくれていた。

まだまだ、この先の自分については見えない部分もある。不安も迷いも完全に解消されたわけではない。でも、もうわけも分からず荒れていた自分ではない。

「いまの自分の趣味は、読書。そういうことができるようになったのも、最近の自分が落ち着いているから」

穏やかな、なんてことのない日々を、噛みしめるように小池さんは言う。

未来のことは分からないけど、「いま」の自分を抱きしめて、認めてあげて、がんばったねとほめてあげて。この等身大の姿が、同じような誰かの生きる力になればと願っている。

あとがき
知香子さんが慎重に大切に言葉選びをするのは、出会った人との時間を忘れていないから。と同時に、過去も未来も、今だって見やしない、見たくない時代があったことも知った■新しい家族が増える知らせを、誰よりも喜んで受け取る知香子さんだけど、ずっと、不安と付き合っている自分をわかっている■誰かが語るしあわせなんて、あてにはできないから・・・・・・。時には昔の話をして、また一緒に笑いたい。(編集部)

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