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聴覚障害をもつゲイとして、自分はどう生きたいか。【前編】

真っ直ぐに相手を見つめ、静かに耳を傾け、発せられる言葉を、気持ちを、全身で受け取ろうとしている。前田晃生さんと初めて言葉を交わしたとき、そう感じた。相手に対してはもちろんのこと、コミュニケーションという行為自体に対する真摯な姿勢。それは、耳が聞こえにくいというハンディキャップがあるからというよりも、相手とつながりたい、想いを分かち合いたいと願う、前田さん自身の生きる姿勢だ。

2020/09/16/Wed
Photo : Tomoki Suzuki Text : Kei Yoshida
前田 晃生 / Akio Maeda

1987年、東京都生まれ。家族とともに1歳で山梨へ引っ越し、3歳からは福岡で育つ。幼い頃に聴覚障害があると診断されたが、手話とともに口話(ろう者が口の動きを読み取って会話すること)を習得し、一般の小中学校、聾学校の高等部へ通う。筑波大学附属聾学校専攻科の造形芸術科デザインコースを卒業したあとはメーカーの事務職として5年間働き、その後、外資系のファッションブランドに転職。絵を描くことが好きで、2019年には個展を開催した。

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INDEX
01 自閉症ではなく “難聴”
02 健聴者と同じ小学校へ
03 ひとりで絵を描くほうが好き
04 自分はゲイかもしれない
05 高校卒業と同時に上京
==================(後編)========================
06 いつかはデザインの仕事に
07 いろんな人との出会いが楽しい
08 カミングアウトよりも大切なこと
09 自分らしい生き方って、なに?
10 自己認識の大切さ

01自閉症ではなく “難聴”

美大出身の母と音楽の才のある父

生まれたのは東京。
しかし1歳になる頃には、家族で山梨へと引っ越した。

そしてさらに、3歳には福岡へ。
幼い頃に2度の引っ越しを経験したことになる。

「でも、その頃の記憶はないですね。東京のことも、山梨に住んでいたことも、ほとんど覚えてません(笑)」

兄弟は4人。
一番上が姉、その次が兄、そして自分。その下に10歳離れた弟がいる。

「姉や兄とは歳が近かったから、よく一緒に遊んでました。つまらないことで、喧嘩もたくさんしましたね(笑)」

「いつも一緒にやっていたのはトランプ遊びとか・・・・・・。あと祖父の家に行ったときは、囲碁や将棋を教えてもらってました」

「喧嘩もしたけど、基本的に兄弟の仲はよかったと思います」

美術大学を卒業した母と、バンド活動をしながら料理の道を極めてきた父。
クリエイティブな素質のある両親のもとで育てられた。

「父は、アコースティックやエレキなどギターを数本持っていて、レコードもたくさん並べているような人」

「電子ピアノを弾くこともありました」

「小さい頃は、父にギターの弾き方を教わったことがあります。いまは、ぜんぜん弾かないですけどね、せっかく教わったのに(笑)」

家族との会話も “口話” で

山梨に住んでいた頃、3番目に生まれた自分が姉や兄とはなにかが違うと、母は気づいたようだった。

どんな行動を見て、「違う」と気づいたのかはわからない。
しかし、心配になった母は小児科を訪ねる。

くだされた診断は、自閉症だった。

「その後、3歳で福岡に引っ越してから、もう一度診察してもらったら、今度は自閉症ではなく “難聴” だと言われたそうです」

両親も兄弟も、聴覚に問題がない、いわゆる健聴者だ。難聴と診断され、家族は驚き、困惑した。

「詳しい原因はわからないんですが、赤ちゃんのときに風疹にかかってしまったことから難聴になってしまったのでは、という話でした」

「難聴の程度には幅があって、僕の場合は、まったく聞こえないわけではなく、ちょっとだけ聞こえるくらいの難聴です」

両親は、家庭での会話を手話に頼ることはしなかった。

口の動きを読み取って発声する「口話」を主な会話方法とし、読み取れなかったり聞き取れなかったりした場合は、文字や絵を描いて伝えるようにした。

「母が、テレビとか机とか、物の名前を紙に描いて、部屋中に貼ってくれて・・・・・・。それで言葉を覚えました」

兄弟も、難聴だからといって自分を特別扱いすることはなく健聴者同士と同じように話し、遊び、ともに育った。

そのおかげで、会話をする上でハンディキャップがあったとしても、自然なコミュニケーションがとれるようになっていったのだろう。

02健聴者と同じ小学校へ

生徒の数の違いに驚いた

幼稚園は聾学校の幼稚部に通う。

小学校も一度はそのまま聾学校へと進学した。
しかし、以前同じ聾学校の幼稚部に通っていた友だちの母親が、一般の小学校を勧めてくれ、1年生の夏頃からそちらへ転校することになる。

その小学校には、「ことばの教室」という難聴児童のための教室があり、難聴者と健聴者がともに手話を交えながら学ぶことができたのだ。

「一般の小学校に入ったときは驚きました。とっても人が多くて(笑)」

「聾学校は、生徒の数が少ないので、みんなすぐに仲良くなるんです」

「でも一般の小学校では、そんな感じじゃなかったですね。それが1番のカルチャーショックでした」

自分に聴覚障害があるということを自覚したのも、この頃だった。

「聾学校は、耳が聞こえない子どもばかりだったので、自分だけが “違う” ということに気づかなかったんです」

「一般の小学校に行ってみて、初めて気づきました」

難聴を理由に、いじめられて

たくさんの子どもたちのなかで、疎外感を感じることもあった。

「みんなといても、障がい者だから除け者扱いをされることがあって」

「やっぱり、友だちに口話を通して言われたことを僕が勘違いしたりしちゃって、意思疎通が難しいときもあったので・・・・・・」

「具体的になにをされたというところまでは覚えていないけど、いじめられている、と感じてました」

「ナヨナヨしている、女っぽい、って言われたりも・・・・・・」

「言い返すようなことはしませんでした。喧嘩は嫌いだし。でも、そんな風に言われないように、堂々と行動するように努力はしてました」

なんで自分だけが聞こえないのか。
そんな想いが何度も自分のなかでループする。

なんで。
誰かに問うことはできず、いくら考えても答えは見つからない。

「それでも仲良くしてくれていた友だちはいましたよ。男の子よりも女の子が多かったですけど。公園で、おしゃべりしたりとか(笑)」

「学校でも、レクリエーションの時間とか、遠足とかは楽しかったですね」

学校の友だちとは口話で会話し、授業も健聴者の子どもたちと一緒に受けていたが、ことばの教室では手話を習うこともできた。

「ことばの教室では難聴学級を担当する先生がいて、子どもたちに手話を教えてくれるんです」

「僕はそこで小学2年生から手話を習い始めました」

03ひとりで絵を描くほうが好き

学校の部活には参加せずに

いまも昔も、絵を描くことが好きだ。

美大卒の母に、幼い頃から美術館に連れていってもらって、さまざまな芸術に触れることができたという環境のおかげもあるかもしれない。

「うちの兄弟はみんな、絵を描くのは好きですね」

「小学校ではイラストクラブに所属してたんですが、なにを描いていたのかはあんまり覚えてなくて(笑)」

「ちょっと恥ずかしいんですけど、漫画も描いてました」

中学校も、小学校と同じく、聾学校ではなく一般の学校へ入学。
その学校にもことばの教室があった。

しかし中学校では、イラストや美術に関するものも、部活には一切参加しなかった。

「小学校のときに、いじめがあったこともあって、ひとりでいるほうがラクだなと思って」

「自分には集団行動が合わない、考えがみんなとは違う、と感じてました」

「ひとりで絵を描いていたほうが楽しかったんです」

美術展で優秀賞を獲得

学校から帰ると、家で絵を描いたり、テレビを見たりして過ごした。

「テレビは、字幕がなくても音量を大きくしたらほとんど聞こえるし、問題なく見れるので。よくアニメを見てました」

「友だちはひとりかふたりだけ。自分のことをよくわかってくれている子がいて。唯一、その子のところに遊びに行っていた記憶はあります」

その頃の将来の夢は俳優。

ドラマ『家なき子』の安達祐実の演技を見て感動し、自分もやってみたいと思って芸能コースがある高校を目指す。

「でも、実は子どもの頃から気管支の病気で学校を長期間休んだりしていたせいで、勉強が大幅に遅れてしまっていて、目指していた学校を受けることができなかったんです・・・・・・」

俳優の夢は諦めたが、絵を描くことを楽しむ心は、いまももち続けている。
高校生のとき、障害者向けの美術展で優秀賞に輝いたこともあった。

当時住んでいた福岡の空をインスタントカメラで撮影した写真を組み合わせ、“自由な空へ” というテーマで詩をちりばめた作品だった。

2019年には個展も開催した。

「今年か来年にはまた、個展をやりたいと思って作品をつくり続けています」

04自分はゲイかもしれない

同性に惹かれても不思議じゃなかった

初恋は中学生のとき。同級生の男の子だった。

「サッカー部だったかな。たくましい感じの人でした。話が上手で、一緒にいて楽しいところが好きで」

「でも、とくに仲良くしていたわけではなくて、告白なんてとんでもないし、影からこっそり見ていた・・・・・・って感じです(笑)」

“異性に惹かれること” が “普通” とされがちな社会で、同性に惹かれたことは、自分にとっては取り立てておかしなことではなかった。

「なんでだろ。周りにも男同士で手をつないでる子たちがいたので、自分が男の子に惹かれても、あんまり不思議だと思わなかったのかな」

「男同士で手をつないでるのを見て、自分もつなぎたいって思った(笑)。それに、小学校までは自分は普通に女の子が好きだと思ってたんです」

「だから自分が “普通じゃない” とは思わなかった」

男性と女性、どちらにも惹かれる瞬間はあった。
でも、恋愛対象は男性なのだと次第に自覚していく。

「違う、ホモじゃない!」

「そうなのかも?」という自覚が確信となったのは高校生のとき。

ゲイという言葉の意味を、自ら辞書やインターネットで調べた。
きっかけは、学校で「ホモ」とからかわれたことだった。

「僕のどこを見て、そうからかったのかはわからないけれど、『違う、ホモじゃない!』と強く反論しました」

「自分でも同性愛について調べながら、『自分はゲイじゃない』とどうしても認めたくなくて、悩んでました・・・・・・」

そんななか、高校でも心惹かれる相手がいた。

「ちょっと厳しい、英語の先生でした」

だからこそ、ほかの教科よりも英語の勉強に力を入れた。

しかし、想いを告げることはできない。
誰かに、そのもどかしい気持ちを相談することもできない。
自分がゲイであることは、誰にも言えない。

苦しかった。

「同じセクシュアリティの人と出会いたい気持ちもあったけど、どこで会えるのかわからなくて、高校の頃は、ずっとモヤモヤしてました」

「いつかは、自分がゲイであることを両親に伝えて、堂々とゲイとして生きていきたいと、ずっと考えてました」

05高校卒業と同時に上京

デザインの道を目指す

自分がゲイだと自覚してからも、誰にも言えずモヤモヤしていた高校時代。
卒業してからは、東京にある大学附属聾学校専攻科のデザインコースに進む。

その頃には、「絵を描くこと」からさらに視野を広げて、その楽しさを仕事に結びつけるため、デザインの道を目指していた。

「ウェブデザインとかグラフィックデザインとか、パンフレットとかのデザインも、デザイナーになれば、いろんなものをつくることができる」

「それが面白そうだなと思って、この道に進みました」

学校の寮で生活しながら2年間、デザインについて勉強した。
卒業後は一般企業に就職。
職種はデザイナーではなく事務職だった。

「本当はデザイナーの仕事をしたかったんですが、未経験者を採用してくれるような企業はほとんどなくて」

「即戦力になるような、実務経験のあるデザイナーしか募集されていなかったんです」

「入社が決まって、事務職に就くときも悩みました。自分には合わないんじゃないかと思っていたので・・・・・・」

「でも、親に相談したときに、とにかくまずは就職したほうがいいと言われて、覚悟を決めました」

東京でひとり暮らしを始めて

社会人となった一年目は、とても新鮮だった。

学校では、周りにいるのは同じ世代の人ばかりだったが、社会に出ると、いろんな年齢の人がいて、いろんな背景をもつ人がいる。

ひとり暮らしを始めたことで自由な時間も増えた。

「寮生活では、門限とか、いろんな規則があったので、自分で生活するようになって、一気に解放された感じでした(笑)」

耳が聞こえない、あるいは聞こえにくい状況のなか、たったひとりで生活していくことは、人によっては恐ろしく感じるかもしれない。

「もちろん、難聴のせいで困難にぶつかることもありました」

しかし、東京でのひとり暮らしは、まさに新しい世界につながっていた。
その生活を、心から楽しもうとしている。

障害の有無なんて関係ない。
自分は、自らの人生を楽しむことができると信じているのだ。

「もしかしたら、小学校のときに受けたいじめの苦しさをひとりで乗り越えたということも、自分のなかで大きかったのかもしれません」

 

<<<後編 2020/09/19/Sat>>>
INDEX

06 いつかはデザインの仕事に
07 いろんな人との出会いが楽しい
08 カミングアウトよりも大切なこと
09 自分らしい生き方って、なに?
10 自己認識の大切さ

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