02 野球の日本代表でオーストラリアへ
03 スラムダンクを見て、バスケ部に入部
04 将来の夢はバスケで実業団
05 もしかして、性同一性障害?
==================(後編)========================
06 男と比べられるのか、この恋は
07 タクシーの中でお母さんにカミングアウト
08 夢の実業団入団! 秋田での一人暮らし
09 バスケットからラグビーへ転向
10 ようやく自信を持ってクィアと公表
01土手を走り回る元気な子
小4まではバトントワリング
東京・両国生まれ。8歳年上の兄との4人家族に育った。母は何度か流産をし、ようやく授かった長女だった。
「お兄ちゃんは柔道家で、天理高校にいって、大学は東京に戻ったけど寮生活でした。だから、一緒に暮らすことは少なかったですね。一人っ子みたいな感じでした」
幼い頃は、幼稚園に迎えにきてくれたりする、やさしい兄だった。
「実業団でも柔道を続けてました。197センチ、120キロの体格です。何年か前にお兄ちゃんとケンカしたとき、まったくかなわなかったです。足払いを食っておしまいでしたよ(笑)」
父は178センチ、母も168センチある大柄な一家だ。
「両親は、平日は保険の仕事をして、週末は東京・平井と調布でバトントワリングの教室を開いてました。私も小学校4年生まで習ってました」
平井の教室には80人ほどの生徒がいて、両親が指導と衣装の手作りもしていた。
「ディズニーランドで踊ったりしましたね。でも、4年生のときに太り始めたんです。そうしたら自分だけ大きいんですよ(苦笑)。それが嫌でやめちゃいました」
小4のとき、父が心筋梗塞で倒れてしまった。
「それからはお母さんが一人で働いて、私を大学までいかせてくれたんです。とってもパワフルな人です」
母の教育のモットーは、「嘘をつくな」。
「挨拶にもうるさかったですね。勉強より挨拶をしっかりしなさいって、口癖のようにいってました。それを真に受けて、まったく勉強はしなくなっちゃいました(笑)」
食事の仕方も厳しかった。いろんなご飯屋さんに連れていってもらって、お茶碗の持ち方やマナーを教えられた。そのおかげで、好き嫌いなくなんでも食べられるようになった。
「お兄ちゃんはメチャ食べるんですよ、それもきれいに。それがお母さんの自慢でしたね」
小学校で経験した最初のいじめ
小学生の頃は、土手を走ったり木登りをしたりする活発な女の子だった。
「休み時間はずっと外でしたね。勉強はまったく興味がなくて、体育の時間だけ元気でした。でも、マット運動だけはダメでしたけど(笑)」
自然と男の子の友だちが多くなった。
「その頃、女の子たちにいじめを受けたんです。当日はそれもあって、女子に対するイメージはよくなかったですね」
いじめの理由は、今でもよく分からない。運動がよくできることへの妬みだったのか?
「意地悪をされてから、写真を撮るときに笑えなくなっちゃったんです」
あるとき同級生に嘘をつかれて、一緒に悪者にされたことがあった。
納得がいかなくて不貞腐れていたら、母から「お前が悪くないなら、毅然としていなさい」と叱られたことを覚えている。
「それ以来、いじめや人格否定みたいなことに、たびたび悩むようになりました」
02野球の日本代表でオーストラリアへ
地元のリトルリーグで野球を始める
バトントワリングをやめて、すぐに野球に出会った。
「初恋の男の子とキャッチボールをしていたら面白くなって、小4でリトルリーグに入りました」
男子のなかで唯一の女子選手だったが、それを嫌だとは少しも思わなかった。ただ、野球をやることが楽しかった。
「小学校もみんな一緒でしたから、仲がよかったです。みんなで地元の銭湯にいって、私は女湯だったから、男の子たちは壁越しに『出るよ〜!』 って叫んでくれて」
転機が訪れたのは小6のときだった。
江戸川区のオールスターに選ばれ、ピッチャーとしてマウンドに上がったのだ。それまで外野を守ることが多かったが、内野への送球などボールを投げることは得意だった。
「相手チームは、女の子だと思ってバカにするんですよ。それをボコボコにやっつけるのが爽快でしたね(笑)」
言葉の壁を越えたコミュニケーション
オールスターでの活躍が目に止まり、今度は日本代表チームのメンバーとしてオーストラリアに遠征することになる。
「それも男女混合のチームでした。2週間、現地の家にホームステイさせてもらって、4試合くらいやりました」
そこで驚いたのは、子どもたちの自由でやりたい放題の振る舞いだった。
「日本では、親や先生の許可をもらってからじゃないとダメ、みたいなところがあるじゃないですか。でも、オーストラリアでは、指で歯を磨いちゃったりしていて、ああ、なんでもいいのねって思いましたね」
しかも、言葉も通じないのに、ホストファミリーが自分の子どものように包容力をもって接してくれた。
「一応、辞書を持っていったんですけど、コミュニケーションに言葉なんて関係ないんだ、ってことを知りました」
03スラムダンクを見て、バスケ部に入部
ルールも分からず試合で先発
中学でも野球を続けようとシニアリーグに入ったが、すぐに「ちょっとこれは違うぞ」と感じた。
「男女の体格の違いが歴然なんです。ボールの速さがまるで違うし、怖かったですね」
早いうちに見切りをつけて、どうしようかな、と考えているときに見つけたのが、漫画「スラムダンク」だった。
「1年生の夏休みでした。あ、これ、やってみよう! と思って、何も分からないままバスケ部に入りました」
すると、背が高いという理由で監督に期待され、すぐにスタートで試合に出ることになってしまった。
「お兄ちゃんに、ルールも知らないのに試合に出るんだけどって相談したら、『ボールを持ったまま歩かなければいいんだ』って(笑)」
いじめに遭って、自問自答
みんなが両手でボールを持ってシュートをしているのに、ひとりだけワンハンドができた。ワンハンドのコツをつかむと、シュートがよく入る。それでまた楽しくなった。
ところが、ここでもいじめに遭ってしまう。
「女子部員、全員にシカトされました。きっと、入部してすぐに試合に出て目立っていたのが気に入らなかったんでしょうね」
話す相手がいないから、自分と話すしかない。
「ねえ、ここに何しにきたの?」
「バスケをしにきたんだよね??」
自問自答を繰り返して、つらい状況に耐えた。
「プレーで見返してやろうっていう気持ちだけでしたね」
しかし、今度はクラスでもいじめに遭う。一番仲のよかった子を中心に4人から、シカトされた。そして、ついに学校に行けなくなってしまう。
「不登校だったのは1、2週間ですかね。長く感じましたけど・・・・・・。担任の先生が、今、来ないとずっと来れなくなっちゃうぞって、親身に励ましてくれました」
初めての恋愛はクラスメイト
学校のドアを開けるのには勇気が必要だったが、なんとか戻ることができた。そして、2年生になってクラスが変わると、学校生活も楽しくなっていった。
「バスケ部で仲良くしてくれる友だちができて、その子と御徒町で、よくたこ焼きやお菓子を買い食いしてましたね。ずっとお腹が空いてるんですよ(笑)」
「ときどき見つかって怒られましたけど」
生徒会にも入り、選挙で副会長に選出された。
「みんなやさしくて、生徒会の活動も楽しめました」
初めての恋愛を経験したのも中2だった。
「同じクラスの男の子が他校の中学の子にリンチを受けて、問題になったんですよ。リンチされた子が不登校になっちゃって、私、学級委員だったから、その子の家に励ましにいったんです」
すると、なんと「つき合ってくれたら行く」という、妙な告白をされた。
「分かった。つき合うよ。つき合うから学校に行こう、っていうことになって・・・・・・。顔は好みじゃなかったけど、やさしい人だからいいかなって」
彼がヤクルトの応援団に入っていたため、デートは主に神宮球場だった。
「江戸川の土手を歩いたりもしましたけど、あまり長くは続きませんでしたね」
04将来の夢はバスケで実業団
女子に対する特別な感情
彼とのつき合いが長続きしなかったのには、理由があった。
「デートをしていると、帰りたくなっちゃうんですよ。最初は、自分が飽き性だからかな、と思っていたんですけど・・・・・・」
「少し違うかな」と思い始めたのは、彼に対しては抱かない、女子の友だちに対する感情だった。
「女の子は家まで送ってあげたり、贈り物をあげたりとか、大切にしたいっていう気持ちが湧いてくるんです。そういう子が3人くらいいましたね」
気がつくと、その子のことを考えていたり、よく電話をかけたりもした。
「でも、友だち以上だったかもしれませんけど、好き、という気持ちまではありませんでした。男子を好きにならなきゃいけないと、どこかで思っていたんでしょうね」
大切な人にはやさしくする
バスケ部では、監督がいつも怒っていた。その頃は厳しい先生だと感じていたが、今にして思えばそういう指導法しか知らなかったのだと思う。
「試合には出てましたけど、一時期、いじめもあったし自分に自信がなかったんですね。監督に怒られないようにしよう、といつもビクビクしてました」
怒られると塞ぎ込む。自分が悪いからこうなったんだ、と自分を否定することが多かった。
「小学生の頃からいじめがあったから、しんどいのが普通になってたんです。誰かに嫌われたくないって、人の目をずっと気にしてました」
男子でも女子でも「やさしい人」にひかれるのは、そのせいかもしれない。
「悪い見本をたくさん見てきたから、自分ではそうならないようにしよう、と決めていました。つらい気持ちがよく分かりますから」
「大切な人にはやさしくする、というのが今でも私のモットーです」
バスケを続けるための高校探し
厳しい指導に耐えて頑張ったが、都大会にも出場できない弱小チームだった。しかし、そんななかでも次第に将来の夢が見え始めていた。
「ランニングをしてるとき、実業団に入って頑張るぞって思ったんです。実業団がどんなところかも知らなかったんですけどね(笑)」
雑誌「月刊 バスケットボール」に出る、という夢も抱いた。
「高校探しは、バスケを続けることだけが目標でした。お世話になった先生に相談したら、私立の共栄学園を紹介してもらいました」
さっそく高校の練習に参加すると、監督がその場で「この子、ちょうだい」と、紹介してくれた先生に電話をして進学先が決まった。
05もしかして、性同一性障害?
厳しい練習で実力をつける
高校での目標は、もちろんバスケットの上達だった。そのためには、どんなにキツい練習にも耐える覚悟だった。
「おじいちゃんの先生だったんですけど、とにかく厳しい人でした。ゲンコツは飛んでくる、スネは蹴られるって感じで。でも、やりがいがあったから我慢できました」
今では体罰が厳しく禁止されているが、当時は「ギリOK」の時代だった。
「やっぱり小学校からバスケをやってきた子のほうがうまいんですよ。私は中学で実績も残していないし、最初は下に見られてました。でも、先生が期待してくれて、それで伸びましたね」
先生が認めてくれたのは、シュート力と身体能力だった。高1で身長が173センチになっていて、チームでも大きいほうだった。
「高2からスタートで出るようになりましたけど、チームのなかで一番うまい子とは、やっぱり差があるなって感じてました」
謙虚といえば聞こえはいいが、自分を過小評価してしまう悪い癖は治っていなかった。
初めて好きと確信した相手
高1のとき好きな人ができた。違うクラスの女の子だった。
「色白でスタイルがいい子でしたね。初めて、はっきり好きだと感じた相手でした」
相手のほうから連絡先を聞かれて、メールで連絡を取り合ううちに2人で過ごす時間が長くなる。
「LGBTという言葉は、まだ知らなかったですね。でも、金八先生に性同一性障害が出てきて、もしかしたら、自分もこれかな? と疑ってはいました」
お互いに「好きだよ」と言葉を交わしたが、恋人かといえば微妙だった。
「ふたりとも彼氏ができて、Wデートもしてましたからね。彼女とは高2になって別れちゃいました」
並行してつき合った男子は、クラスの学級委員の相方だ。でも、彼とのつき合いが、かえってセクシュアリティの違和感を強くしてしまった。
「キスをしたとき、これはダメだと思いました(苦笑)」
気になり始めると、いろいろなことが気になった。食べ方、歌い方、走り方、ちょっとした仕草に「嫌だ」と感じてしまうのだった。
「帰りたい病が出ちゃうんです(笑)」
「相手が女の子なら、そんな気持ちに一度もならないんですよ。全部クリアされるんです。好きになるのは、やっぱり女なんだって学びましたね」
それでも、結婚というのは男女のもので、将来、結婚する相手は男性だと信じようとしていた。
「お母さんには、男の子のことしか話せませんでした。男とつき合わなきゃ、と自分に言い聞かせていましたね」
<<<後編 2022/07/16/Sat>>>
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06 男と比べられるのか、この恋は
07 タクシーの中でお母さんにカミングアウト
08 夢の実業団入団! 秋田での一人暮らし
09 バスケットからラグビーへ転向
10 ようやく自信を持ってクィアと公表